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「…………」
気づけば、泣き声が聞こえてくるほうに向かって、ふらふらと歩いていた。頭のなかは真っ白で、何も考えられない。
さっき【光の矢】を放ったのはダインだ。ダインが、まだ生きていた魔物を仕留めたんだ。
その魔物は、ダレかを傷つけた。ダレを?
足元が不安定でおぼつかない。それでも歩く。
ウソだウソだウソだウソだウソだ。何度も自分に言い聞かせる。
そんなことはありえないと。あってはいけないと。なにかの間違いだと。
……歩みが止まる。
ルリアがしゃがみこんで泣いている。
その膝元には……。
真っ赤な泉のなかに、ノエルが仰向けになって倒れていた。
さっきの魔物に貫かれたんだ。深く傷ついた腹部からは、鮮血が流れ出ている。止めどなくあふれる血が、床を真っ赤に染めている。
「ノエル! ノエル! そんな……っ!」
ルリアが泣きじゃくりながら、必死に呼びかけている。
「クソ……! なんでおまえが……!」
ダインは喉が引き裂けそうなほど声を震わせて、床に流れている血溜まりを見下ろしていた。
「どうしよう、リオン! ノエルが、ノエルが……!」
すがるように叫んでくるルリアの声が、どこか遠くから聞こえてくるように不確かに響いていた。
雲の上に立っているみたいに足元がぐらついて、膝をつく。
「……ノエル」
自分の声が、掠れているのがわかる。
ノエルの顔は青ざめている。まぶたが重くて、あまり目を開けていられないのだろう。まつ毛を小刻みに震わせながら、それでも薄く開いた目でこっちを見つめてくる。
「……ごめんね。わたし、足手まとい……だったね」
謝ってくる。なにも謝ることなんてないのに。
「そんなことはない。ノエルは、立派に立ち向かっていた」
どうにか声を絞り出す。そうしないと、ノエルをつなぎとめておくことができない気がした。
俺の言葉を聞くと、ノエルはかすかに唇をやわらげる。
「わたしのことは、気にしないで……。それよりも、学院で暴れている魔物を……」
「そんなこと……!」
どうでもいい。本気でそう思った。今は目の前にいるノエルのことだけが大切だった。けど、それを口にするのは憚られた。
ノエルの手を取る。冷たくなった手を、両手で包みこむ。
「ノエル、頼む。頼むから、死なないでくれ……。俺はおまえに、生きててほしいんだ。俺はおまえが……」
両手に力を込める。自分の生命力をノエルに分け与えるように強く強く握りしめる。そんなことはできないとわかっていても、ノエルの手を握ってあげる。
「俺はノエルのことが大切なんだ。ノエルのことが、大好きなんだ」
心からの想いを伝える。俺の生きる世界には、ノエルがいてくれなきゃダメなんだ。ノエルがいない世界なんて、考えられないんだ。
それほどまでに、手を握りしめた少女の存在は大きかった。
「……うれしい。はじめて、リオンお兄ちゃんに、好きって言ってもらえた」
ノエルは満たされたように微笑んでくる。
そんなふうに満足なんてしてほしくない。もっともっと、心残りがあっていいから、生きていてほしい。
だけど、どんなに強く願っても、握っている冷たい手は、両手の間からすべり落ちていった。血の泉のなかに落ちた手が、静寂につつまれた広間に水音を立てる。
「……ノエル」
もう返事はない。
ノエルはまぶたを閉ざして眠っている。
喋ることも、動くことも、笑うこともしてくれない。
「こんなことって……」
ルリアは目尻から大粒の涙をこぼす。頬をつたって落ちていくそれが、何度も床を打つ。
ダインは全身を震わせていた。青い兜で顔は覆われているけど、泣いているのかもしれない。勇者の鎧を身につけているのに、その姿はとても脆弱に見えた。
俺は、どんな顔をしているのだろう? わからない。涙は流れてこない。これ以上ないほどに胸が痛いのに、それでも泣くことだけは許さないと自分のなかにある何かがせき止めてくる。
まだ絶望するのも、悲しみに暮れるのも早いと。
「……ノエルを、ちゃんと見ててやってくれ」
自分のものとは思えないほど暗い声だった。まともに発音できているのかどうかさえ怪しい。
「……リオンは、どうするの?」
まだ涙が止まらないルリアは、赤く腫れた瞳で見あげてくる。
行かないで。ここにいて。そんな心の声が聞こえてくるほど切なげな眼差しだ。
「やらなきゃいけないことをやる」
学院に蔓延る魔物どもを、一体残らず皆殺しにする。
静かな怒りの炎が滾り、この身を焼きつくす。魔物どもを殺してもこの炎が鎮まることがないのはわかっている。わかっていても、そうせずにはいられない。
そうしないと、頭がどうにかなってしまう。
「リオン、おまえ……」
激情に支配された俺に、ダインは同情するような視線を向けてくる。
だけどダインは、俺を止めようとはしなかった。
もう一度だけ、深い眠りについたノエルを見る。
その寝顔を胸のなかに刻みつけると、ゆらりと立ちあがった。
血が出そうなほど拳を握りしめながら、歩き出す。
保管されている勇者の鎧のもとまで近づき、手を伸ばした。
◇◇◇
「リオン……!」
夜の校庭に現れた俺を視認すると、クロノハオウを装着していた姉さんは気後れする。
今の俺がまともな状態じゃないことを見て取ったようだ。
地下でアオハガネを装着すると、目につく魔物どもを片っ端から殺してきた。向かってくる魔物は殺したし、逃げ出そうとする魔物も殺した。魔物という存在があることを許さなかった。
冷ややかな夜風が吹きつける校庭には、数え切れないほどの魔物の死体が転がっていた。姉さんがやったんだ。
でも、まだだ。まだ校庭の奥にはたくさんの魔物が集まっている。殺さなきゃいけない。アイツらを、残しておくわけにはいかない。
咆哮がほとばしる。自分の口から狂ったような絶叫が響く。頭のなかは真っ赤に染まっていて、殺意で塗り潰されている。
魔物どもを殺しつくすイメージをふくらませて、魔術を発動する。自身の周りに無数の円が描かれていき、三十を越える【魔法陣】を展開する。
【魔法陣】が一斉に輝き出すと、魔物どもを殲滅にかかる。抵抗も逃走も許さずに、一方的に蹂躙していく。
「リオン……」
感情に任せて力を振るう俺を、アシェル姉さんは呆然と見つめていた。
その瞳には、もう二度と取り戻せないものを儚むような、哀れみが込められていた。




