16
むせ返るような血の臭いに吐き気がした。
見慣れたはずの学院内の風景が、今夜だけはまるで異界のように別のものへと変質している。
奥行きのある長い廊下は血の湖にまみれていて、当たり前のように生徒たちや教員が横たわっている。みんな手に負えないほどの重傷を刻まれていて、なかには肉体の一部を失った人までいた。誰も息をしていない。
瞳の光を失った生徒たちを見て、歯ぎしりをする。この悪夢のような光景が、早く終わってほしかった。
月明かりを頼りに落ちている死体を避けながら、砕けた窓ガラスの破片を踏みしめて廊下を突き進む。
早く寮に向かわないと……。
「リオン! アシェルお姉ちゃん!」
正面の通路から聞こえてきた声に、足が止まる。
目を凝らすと、ルリアとダイン、それにノエルの姿があった。
三人とも怪我はない。無事のようだ。
友人たちの安否をこの目で確認すると、胸につっかえていたものが取れていく。
よかった。もしも手遅れになっていたらと思うと……それだけは現実になってほしくなかった。
「リオンお兄ちゃん!」
ノエルは一目散に駆け寄ってくると、俺の腰に腕をまわして体重を預けるように抱きついてくる。
「いっぱい! いっぱい、同級生の子たちが突然現れた魔物たちに襲われて! それで……っ!」
ノエルはここまで見てきたものを、涙混じりに伝えてくる。しがみついてくる小柄な体は震えていて、ひどく動揺していた。
その恐怖を少しでもやわらげてあげたくて、ノエルの背中に手をまわす。
ノエルの抱えている気持ちは、きっと計り知れないほど辛いものだ。
廊下に倒れていた子供たちのなかには、知っている顔がいくつもあった。あの子が死んでしまったのだと理解するごとに、胸が引き裂かれるようだった。
「下級生の子たちが、ほとんど倒れちゃってて、息をしてないの。わたしたちはどうにか魔物に抵抗して、ここまで来られたんだけど……」
ルリアは顔色を蒼白にしながら話す。数え切れない死を目の当たりにして、心が疲弊している。震える目元には、水滴が溜まっていた。
ノエルの体をそっと離すと、青ざめているルリアの肩に手をおいた。
ルリアは視線をあげて俺を見てくると、くしゃりと顔を歪める。指の背で目元をこすって、涙をぬぐっていた。
「何体かの魔物と戦ったが、いつもよりしつこいっていうか、妙な様子だった」
ルリアのことを心配そうに見ながら、ダインは遭遇した魔物たちに違和感があったことを述べてくる。
俺と姉さんはまだ学院内を跋扈する魔物と遭遇していないので、いまいち理解できなかった。
「手元にクロノハオウさえあれば、殲滅できるのに」
姉さんはもどかしそうに眉間をひそめる。勇者の鎧の携帯は許可されていないようだ。
「……みんな気をつけろ」
渋面になっていた姉さんが、警戒するように呼びかけつつ、後ろを振り返った。みんなも気づいたようで、身を固くする。
何かが、近づいてくる気配がした。
踵を返して後方に目を向ける。いつでも【光の矢】を放てるようにイメージをふくらませる。
地面に散らばったガラスの破片を踏み砕く音が徐々に迫ってくる。
壊れた窓辺から差し込んでくる月光が、その姿を照らした。
「おまえたちは無事だったか」
いつもと変わらない厳粛な声を聞くと、みんな構えを解いた。
「学院長も無事だったんですね」
アシェル姉さんが平板な口調で話しかける。そこに親しみは感じられず、あくまで仕事だと割り切っている態度だ。
「レベルの低い魔物が一体ずつなら、わたしでも対処できるからな。発見したら、魔術で殺してきたよ」
俺たち勇者候補ほどではないが、それなりに戦闘の心得がある。この女は普通の人間にしては、腕が立つほうなんだろう。
それでも相手にできるのは、低レベルの魔物が単体でいるときに限られる。複数の魔物が同時に現れたら、廊下に倒れている教員たちと同じように息の根を止められていたはずだ。
「この学院で、一体なにが起きているんですか?」
どうしてこんなに死人が出ているのか。俺はその憤りをぶつけるように語気を強めて、システィナに詰め寄った。
「学院で管理していた訓練用の魔物たちが流出したようだ。鉄製の鍵と、魔術による鍵で、二重に施錠していたはずなんだがな」
含みのある言い方だった。なんらかの手違いで、これほどの魔物が外部に解放されることはありえないと、システィナは言ってくる。
「それに妙でな。魔物たちが通常よりも凶暴になっている。おそらく心身に何らかの影響を与える魔術がかけられているんだろう」
魔物が凶暴化していると聞いて、数日前の戦闘訓練を思い出す。あのとき戦った魔物も様子がおかしかった。
危険度が増した無数の魔物たちが、そこらじゅうで野放しになっている。それを考えると、冷静でなんていられない。
「魔物たちに刻印された【自爆の魔術】は発動しないんですか? この前の訓練では、それで魔物を始末していましたよ」
「発動していれば、こんな事態にはなっていない」
システィナの淡々とした物言いに、苛立ちを覚えて黙っていられなくなったんだろう。ダインは眦を決して食ってかかる。
「どういうことだよ? 【自爆の魔術】が発動しないっておかしいだろ? ちゃんと魔物たちに刻印されてなかったのかよ?」
「魔術を刻印する際に誤りがあったとは考えられない。おそらく、後から作為的に手が施されたんだろう」
凄んでくるダインに物怖じすることなく、システィナは推測を口にする。家畜か何かを見るような目でダインを一瞥するだけで、まるで相手にしていなかった。
この女の態度は癇に障るが、言っていることは正しいはずだ。訓練用の魔物たちに刻印された【自爆の魔術】が、どういうわけか発動しなくなっている。最も可能性が高いのは、【自爆の魔術】が解除されていることだ。
専用の杖さえあれば、魔物に刻印された【自爆の魔術】は解除できる。学院の教員たちが、そのことを話していたのを耳にしたことがある。
学院内にあるその杖を持ち出せるのは、大人である教員だけだ。
考察を巡らせていると、システィナに目がいく。こんな惨状がひろがっているにもかかわらず落ち着いている。全く焦りを見せていない。そのことに引っかかりを覚える。何かを隠している感じがする。
まさかこの女……わかっているのか?
なぜ学院で管理していた魔物たちが流出しているのか? おおよその目星はついているのに、それをあえて黙っている。
だとしたら……信用できない。
「388号。おまえはわたしの護衛につけ。これから最新型の鎧を取りに行き、学院内の魔物たちを根絶やしにする」
システィナはアシェル姉さんのことを番号で呼ぶと、手慣れた感じで命令を下した。
番号で呼ばれても姉さんは反発することなく、鋭い顔つきになって首肯する。百戦錬磨の兵士のように、優しさを削ぎ落とした無慈悲な空気をその身にまとう。
壁の外で勇者候補として戦闘をこなしてきた姉さんの一面を垣間見た気がした。
「他にも何名かの生徒が魔物の掃討に取りかかっているが、この数だ。既にやられているかもしれないな」
他の場所で魔物と抗戦している生徒たちがいるが、助かる見込みはない。卒業生である姉さんと違って、学院の生徒では状況を覆すほどの戦力にはなりえない。
「おまえたちも学生用の鎧を装着して、魔物を始末しろ。地下の広間にアオハガネが保管されている」
俺たちにも命令が下される。この女の言葉に従うのは業腹だが、今は文句を言っている場合ではない。それに勇者の鎧を装着したほうが生存率はあがるので、命令されなくても取りに行くつもりでいた。
問題は、鎧を入手するまでは生身で戦わないといけないことだ。
「勇者候補であれば、レベル3までの魔物ならその身で対処できるはずだ。幸運なことに、ここには優秀な生徒たちがそろっている」
システィナは高圧的な物言いをしてくる。手を抜くんじゃないぞ、と警告されている。こっちがどんなに拒絶しようと、従わせるつもりのようだ。
どのみち、他に選択肢はない。こうしている今も、被害は拡大を続けている。少しでも犠牲を減らすためには、戦わないといけない。
「では行くぞ。途中までは、わたしと388号も同行しよう」
システィナが目線で告げると、アシェル姉さんは前方に向かって歩き出した。
俺たちもそれに倣うように、血塗れの道を進んでいく。