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ずっと、このままなのだろうか?
あのときは、そんな不安に苛まれて落ち込んでいた。
冷たい夜風に身を震わせながら、静まり返った校舎の屋上に一人で座り込み、暗い気持ちに沈んでいた。
授業を受けたくなくてサボったせいで、処罰として地下牢に閉じ込められた。それ自体は珍しいことじゃない。これまで何度も体験してきたことだ。
だけど何度も地下牢に入れられているうちに、気づいてしまった。自分はなんて不自由で無力なんだと。そのことを嫌になるくらい痛感した。
地下牢から出ても、結局は学院を取り囲んでいる壁のなかに閉じ込められたままだ。
もしかしたら、あの壁の向こう側に行っても、なにも変わらないのかもしれない。
自由なんて一生得られずに、ずっとこのまま、生きていくのかもしれない。
心が不安定になって、よくないことばかりが頭に浮かんでしまう。
「こんなにきれいな星空があるのに、うつむいているなんてもったいないな」
そんなふうに朗々と、あの人は塞ぎ込んでいた俺に声をかけてくれた。
「アシェル姉さん……」
顔をあげると、傍らに立っている姉さんを見る。
姉さんは、夜空を彩る星々にも負けないくらいの華やいだ笑みをたたえていた。
「とっくに消灯時間は過ぎているぞ。寮に戻らないと、また教員から怒られるんじゃないか」
「そういう姉さんこそ、いいのかよ? こんな時間に寮の外を出歩いても」
「よくはないだろうな。まぁ教員に見つかったら、そのときはリオンと一緒に怒られてやるよ」
そう言って無邪気に笑うと、姉さんは隣に腰を下ろしてきた。
どうやら俺が塞ぎ込んでいるのを知って、お節介を焼きにきたみたいだ。
アシェル姉さんは困っている生徒がいたら、積極的に介入して手を差し伸べてくる。親身に話を聞いて、その生徒の悩みを解決してくれる。
成績だって誰よりも優秀で、学院にいる生徒たちから慕われていて、みんなの憧れの存在だ。
俺にとっても、リオンという名前をくれた特別な人でもある。
強さと優しさを兼ね備えた、本物の勇者のような人だ。
「ショボくれている理由はアレか? 学院での生活に辟易して、このまま自由を手に入れられないんじゃないかっていう、将来への不安か?」
「どうしてわかるんだ?」
「それはアレだ。わたしもそんなふうに悩んでいた時期があったからだよ」
ははは、と姉さんは鼻頭を掻きながら気恥ずかしそうに笑ってきた。
「でも、そんなふうによくないことばかり考えていても、現実が好転することはなかったよ。ウジウジしてても、ただ時間が過ぎていくだけだった。それなら少しでも現実を良くしようと、わたしは努力することにしたんだ」
勇者候補として成績をあげること。悩んでいる生徒がいたら、率先して力になってあげること。そうやってがんばることが、姉さんにとって身の周りにある現実を良くする行動だったらしい。
「リオン」
名前を呼んでくると、姉さんはこちらを見つめてくる。その眼差しには温かさと優しさが込められていて、夜風の冷たさを忘れさせてくれる。
「夢を持て。これから自分が進む道に期待してみろ。壁の外に行って、自由になってみせるって強く想うんだ」
「そんなこと……」
できない、とは言えなかった。
姉さんが人差し指を伸ばして、俺の唇を塞いできたから。
「現実と理想の違いに、くじけそうになることだってあるだろう。辛くなって、立ち止まってしまうこともあるだろう。それでも、落ち込んでうつむいてしまうよりは、夢を持って生きていたほうがいい。そっちのほうが、絶対に楽しいだろ?」
それさえあれば、どんな困難だって乗り越えられる力になるはずだ。星の光に照らされた姉さんの屈託のない笑顔が、そう物語っていた。
「だからリオンには夢を持ってほしいんだ。夢を持って、それをいつまでも見続けてほしい。わたしは見続けているぞ。きっとこれからも、変わらずに見続ける。それがわたしの心を支えてくれる」
姉さんは強い感情を込めながら語りかけてくると、俺の唇を塞いでいた人差し指をゆっくりと離した。
……胸が熱くなる。
姉さんが打ち明けてくれた想いが、俺のなかに流れ込んできて、それが何かを突き動かす。
「胸が熱いか?」
そう聞かれると、素直に頷いた。
「そうか。よかった」
姉さんは安堵したように肩の力を抜くと、やわらかな笑みを浮かべる。
「それは夢のはじまりだ。リオンのなかに、夢が生まれたんだ」
その笑顔を目にして、ようやく自分の気持ちを知る。
俺も姉さんのように夢を見てみたいと、そう思っているんだと。
「リオン。胸に灯ったその輝きだけは、どんなことがあっても消しちゃいけないぞ。それさえ持ち続けていれば、夢という翼で自由にどこまでも羽ばたいていける」
そんなことができるのだろうか?
まだ、不安がわだかまっている。
「リオンならやれるさ。もしもくじけそうになったときは、周りに目を向けてみるといい。きっとおまえのことを大切に想ってくれる人たちが、そばにいてくれる」
姉さんは朗らかに微笑むと、軽く握った拳で、こつんと俺の胸を小突いてきた。
心音が高く響いた。
それで完全に不安はなくなる。とっても大きなものを与えられた。信じるという強い意思を受け取った。
きっとこれは、勇気というやつだ。
姉さんは俺に、世界の不条理に立ち向かう力をくれたんだ。
俺の顔を見ると、姉さんはうれしそうに唇をゆるめて細かい吐息をもらす。そしてきらめく星空を見上げる。
「もうすぐ、わたしは卒業だ。絶対にあの壁の向こう側に行って、自由を手に入れる」
アシェル姉さんがいなくなるのは、とても寂しい。できればずっとそばにいてもらいたい。
だけど、この学院を出ていきたいという気持ちもわかるから、姉さんの心残りになるようなことは言えなかった。
置いていかないでほしいだなんて、口が裂けても言えなかった。
そんな俺の心境など、お見通しだったんだろう。姉さんはこちらを一瞥してくると、ニッコリと相好を崩してくる。
この人にはかなわないなと、つくづくそう思い知らされる。
「リオン。一足先に外の世界で待っているぞ。おまえがこの学院を卒業して壁の向こう側に行けたなら、そのときは絶対にまた会おう」
視界がかすんで滲む。鼻の奥がツンとする。でも、涙は見せないように堪える。
「そのときは、姉さんにも負けない立派な男になってるよ」
ここでは泣けない。強くならなきゃいけないから。この場所を巣立っていく姉さんに、弱さを見せたくはなかった。
「あぁ、期待して待ってるぞ」
姉さんはニカッと快活な笑みを浮かべると、手を伸ばしてきた。俺の頭をつかんで、ぐしゃぐしゃと乱暴に撫でてくる。
「ちょっ、姉さん! やめろって!」
そう言って反発するけど、姉さんの手を払い除けることはしなかった。姉さんと触れ合えることが、何よりも幸せだったから。
あの夜に交わした、アシェル姉さんとの約束は忘れていない。
今でも宝物のように胸の奥に大切に仕舞い込んである、掛け替えのない思い出だ。