神隠し
「……はぁ、今日も疲れた」
日の光もすっかり落ち夜の帳が下りたころ。
雨がしとしとと降り注ぐ街の中を、一人の男が歩いている。
まだ着慣れていなさそうなピカピカのスーツを身に纏い、コンビニで買ったビニール傘をさして体とビジネスバッグが濡れないように体を縮こまらせている。
彼の名は雨野 |中。
新社会人の23歳。慣れない仕事と社会人生活に揉まれながらも、日々頑張っている普通の人間だ。
「雨、強いな……」
アタルは思わずそうつぶやくが、別にそれが嫌ではなかった。
幼いころは名前で揶揄われて嫌な思いをしたこともあったが、なぜか雨の中にいるとどこか落ち着くのだ。
だからだろうか、アタルは別に自分の名前が嫌いじゃないし、むしろ少し誇らしくすら思っている。
まるで名は体を表すとでもいうように、愛しい雨の中にいる自分を現した名前が。
「今日は晩飯どうしようかな……」
そう呟きながら、一人暮らしをしていると独り言が多くなるって本当だったのかと実感し、思わず苦笑する。
確か冷蔵庫の中身は空っぽだったはずだと記憶を掘り起こしながら、寄り道することを決める。
可能なら帰り道の途中にあるスーパーで半額になった惣菜でも買いたいところであるが、少し残業が長くなって時間がギリギリになってしまった。
それにこの時間だと惣菜が残っているかもわからない。
「もしもの時はコンビニ飯か」
あれって高いんだよなぁと愚痴をこぼしながら、早足で歩みを進めていく。
しばらく早足で進んでいたアタルであったが、やはりコンビニ飯は避けたいと多少濡れるのを覚悟で走ることを決めた。
運動は得意でも苦手でもないアタルであったが、体を動かすのは嫌いじゃなかった。
ビニール傘では防ぎきれない雨がスーツの裾を濡らしていき、水たまりにはまって靴が中までびしょびしょになる。
「はぁ、はぁ、ははっ!」
しかしアタルは、そんなことお構いなしに笑みを浮かべながら走っていく。
どうせ明日は休みなのだ。多少濡れても土日で乾かしてしまえばよい。
それにアタルにとって雨の中走るのは、社会人になっても心躍るものであった。
ビニール傘で申し訳程度に雨を防ぎ、必死に走りながらいつものスーパーを目指していく。
「はぁ、はぁ、……あれ?」
しかしスタミナがいつまでも持つわけでもない。
さすがに限界が近づいてきたアタルがいったん足を止めて膝に手をついて息を整える。
そしてようやく落ち着いてから顔を上げると、何か違和感を感じる。
雨は降ったままだが、先ほどよりも周囲が明るいのだ。
先ほどまでは確かに日が落ち、あたりは真っ暗になっていた。
しかし今は、まるで雨の降る昼間のようにどんよりとした明るさをしている。
「それに、ここは……」
違和感を感じるのはそこだけではない。
アタルが周囲を見渡してみると、見覚えのない街並みが広がっていた。
先ほどまでアタルがいた場所は、住宅街に近い場所であった。
しかし今彼がいるところは背の低いビルや商業施設などの立ち並ぶ、開発された駅周辺のような様相をしていた。
「と、とりあえずこういう時はスマホで……」
現状を把握するためにスマホを使って場所を調べようと電源を入れるも、画面には『圏外』の文字が無慈悲にも浮かび上がっていた。
「なんでこんな時に…… えっ?」
肝心な時に役に立たないものだと思っていると、突然着信と共にバイブレーションが鳴り響く。
「いきなり誰からだ? ……いや」
画面には非通知の文字。
とりあえず誰かと連絡が取れるならと通話に出ようとして、止める。
これはおかしいと、アタルの直感が囁く。非通知で電話をしてくるような知り合いはいないし、そもそも先ほどここが圏外であると自分が確認したばかりではないか。
「ひっ!?」
そして指を引っ込めた後に再び画面を確認して、思わず小さな悲鳴を上げてしまう。
画面に映されていたはずの非通知の文字、それが半分ほど崩れて、真っ赤な文字化けになってしまっていた。
「いやっ、これは!」
そしてアタルの本能が叫んでいた。このままではダメだと。
通話を拒否するだけではダメだと、急いでスマホの電源を落とす。
「これで大丈夫…… うげっ」
すると電源を落としたはずのスマホの角から、赤黒い液体が滴り落ちる。
それを見てさすがにそのままにするわけにもいかないと思ったアタルは、ビジネスバッグからポケットティッシュを出すとスマホを拭きとってビジネスバッグの中にいれる。さすがにこんな現象の起こったスマホを懐に入れる勇気はなかった。
拭き終わったティッシュはどうするか一瞬迷ったが、さすがにポイ捨てするのも気が引けるのでビジネスバッグの中にいれて置いたビニール袋の中にいれて置くことにする。何もないことを祈りながら。
「どうしよう、とりあえず来た道を引き返してみるか?」
そういって振り返るも、やはり背後にも見知らぬ光景が広がっているだけであった。
アタルは現在自分に降りかかる異常に、言い知れぬ気味の悪さを感じていた。
しかしこのまま立ち止まるわけにもいかないと、不安を感じながらも来た道を引き返してみる。
もしかしたらこのままいけば元の場所に戻ることができるかもしれない。
そんな期待に胸を膨らませながら見慣れない道路の歩道を歩いていく。
「それにしても、まったく人気がないな……」
歩きながら周囲を見渡すも、この町からは人の気配どころか、生活感すら感じることができなかった。
道路脇にはちらほらと一昔前の車が止まっていたが、誰も乗っていないのか錆びついていて動かせそうもない。
一応動くか試してみようかと思ってみたが、車内を覗き込もうとしてやめた。
……なんとなくだが、見てはいけないような気がしたのだ。
「ん? あれってひとか、げ……」
遠い向こうの方に人影が見えると思い駆け寄ろうとして、アタルの動きが止まる。
あれはダメだ、と……
「……ぅ、ぁ」
気が付けが、雨の色が変わっていた。
無色透明の純粋な雨から、頸動脈を切り裂いて勢いよく溢れ出す美しい鮮血のような赤色に……
「ま、まずい……」
とにかく、あの人影に見つかってはならない。
最大限警告してくる自分の直感を信じて、近くにあった車の影に身をひそめる。
体を屈め、必死に体を縮こまらせながらビニール傘の中に体を収める。
この赤い雨も、触れてはいけないものであると感じたからだ。
「……だ、ダメだ」
ばしゃ、ばしゃ、と何者かが水たまりの上を歩いていく音が鳴り響く。
息をひそめながらも、思わず漏れた声。
それは、何者かが近づいてくることだけではない。
彼の周囲が、赤い水たまりに囲まれてしまっている。
地面に滴り落ちた赤い雨は、元々あった水と混じりあうこともなくその上を這うように他の赤い雨と集まり広がっていた。
そしてそれは、徐々に徐々にアタルの方へと近づいてくる。
なんとなくだが、この水たまりに靴が触れるのも良くないような気がするのだ。
先ほどまで雨の中を走り、びしょびしょになった革靴。
それは先ほどの光景を見る限り、濡れた靴を這いあがってアタルの肌に到達してしまうのではないかと考えてしまったのだ。
「……やるしかない」
そこでアタルは苦渋の決断をする。
ビジネスバッグを地面に置くと、その上に乗り足場にしたのだ。
さすがの赤い雨たちもこの段差ではどうしようもなかったのか、ビジネスバッグの傍で活動は停止した…… ように思える。
「よし ……あっ」
とりあえずこれで足元は大丈夫だろうと、今度は足音のする方を見てアタルは後悔した。
目が合った。
先ほどの人影、赤いフードをかぶり赤い傘をさす大男が車越しに彼を見下していたのだ。
全身が真っ赤であること以外は人と変わりないように見えるそれは、目の前にすれば明らかに別の存在であると理解できる。
じぃっと見つめられ、心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥るアタル。
時が止まったかのような錯覚の中、雨の音だけが鳴り響く。
そのまま永遠に動けないのではないかと思うほどに時が流れる時間が遅く感じていると、やがて赤い男はアタルに興味をなくしたかのように顔を背け、どこかへ歩いていった。
「……はぁ~」
気が付けば赤い雨は消え、あの地面にたまる赤い液体たちも消えてしまっていた。
「いや…… なんなんだよこれ?」
そのことに安堵し全身の筋肉を弛緩させると、次に襲い掛かってきたのは恐怖であった。
「なんだよあの赤いのは? なんだよあのスマホは? なんだよあの町並みは!?」
「どういうことだよ、俺はただ、家に帰ろうとしていただけなのに……」
雨に濡れた体がぶるぶると震えだす。
それは寒さゆえか、それとも別の理由か。
「なんでこんなことに…… 畜生! なんなんだよここは!?」
耐え切れず、思わず叫んだその言葉に呼応するように、アタルの目の前に何かが現れる。
それは、半透明で長方形の、パソコンのウィンドウのような何かだった。
「なんだこれ……」
呆然とそうつぶやいたアタルの頭の中は、情報量でパンク寸前だった。
とにかく思考の鈍る頭を絞り出しそれに触れようとするも、霧を掴むがごとく触れることはできない。
そこでようやく、目の前のウィンドウに書かれた文字を認識し、読み上げる。
「……失せ物、漂着場?」
『失せ物漂着場』
危険度 ★☆☆☆☆
そこに記されたこの文字は、アタルの疑問に対する答えのようであった……
異界迷宮迷込奔逸奇譚
『失せ物漂着場』
人々の失せ物は雨に流され、漂い、やがてこの町にたどり着く。
かつて人々の役に立っていたものたちは、無くしたその時は思い出されても、やがて代わりを見つけて忘れ去られてしまうだろう。
人々はそれでよいだろうが、彼らはどうだろうか?
人々の役に立つことを忘れられない彼らがこの地に人を呼び寄せるのも、無理からぬことだ。