7.「共振」への想定される反論
「寄り添う」モードの先に「共振」というモードが現れた。だが、それはどのような関係性で、また、それが社会に何を与えるのだろうか。
確かに、環境によって「弱い」とされた人の中には、寄り添われることを拒絶する人はいる。だが、拒絶しない人もいることは確かだ。
例えば、社会福祉は、一人一人に寄り添い、支援を行いながら、その中で従来の枠組みで支援できないことを社会の問題として、法令の変更や新しいサービスや地域活動を生み出し、発展してきた。ゆっくりとした歩みに思われるかもしれないが、確かに、当事者の立場を踏まえながら社会を変えてきたのだ。少なくともそうしようとしてきた。「寄り添い」は、どの程度という評価の見積もりはともかくとして、少なくとも誰かを支え、支えるための仕組みを作ってきたのだ。翻って、共振によって社会は何が可能になるのか。
「自分はダメだ」ということを他の人たちと共有し、楽しみながら受け止めたからといって、社会がどのように変わるというのだろうか。「単なる傷の舐め合いではないか」という反論はありうるだろう。
確かに、ナナヲは「馬鹿でもできることしかできない」(「眠らない街、眠りたい僕」作詞:ナナヲアカリ 作曲:こんにちは谷田さん)と自嘲する。彼女の作品に出てくる登場人物や登場人物と自分自身を同一視してしまう者に、社会をより良く変えることができるのだろうか、ただ愚痴を述べているだけではないか、という疑問視はありうる。少なくとも、手を差し伸べようとする分、寄り添う方がマシにも思える、という意見はありうる。
ナナヲアカリとそのファンたちに見られる「共振」に社会の変革に向けた期待をするならば、その変革の方向性はどこに向かっているのか。