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私は『選んだ』

作者: ルーシャオ

書いても書いても文字数が増える。

 私の姉マルグレーテは、いつも、何でも、私に先に選ばせた。


「セラフィーヌ、あなたはどちらがよろしいの?」


 私はいつも、『選ばさせられる』。


「こちらの指輪が素敵ですわ」


 姉マルグレーテはにっこり笑って、こう言うのだ。


「そう、なら私はそちらにしますわ。あなたはもう片方にしなさいな」


 私の選んだものは、姉がすべて持っていく。


 ドレスも、ペットの犬も、指輪も、家庭教師も、あまつさえ結婚相手まで。


 生まれてから十五年、ずっとそれが続くものだから、私は好きなものが姉に取られることが当たり前となり、姉は『私にとって価値あるもの』を手に入れることが確かな基準となっている。姉にとっては選択は自分の仕事ではない、妹にやらせればいい、間違いがなくていい、そう思っているのだ。


 だから我が家、フィオレ侯爵家には、私が『選ばさせられて』、姉マルグレーテが愛用するものばかりだ。


 ある秋の日のこと、両親がうっかり漏らした言葉で、私はそれが間違いだと気付いた。


 夕食の場で、今日も私は姉にデザートのチョコレートケーキをいくつも献上し、自分は余りもののシフォンケーキだ。両親はそれを見ても何も言わない、小さいころから当たり前のことだからだ。もしくは、妹は姉を立てなければならない、と思っているのだ。


 慎ましやかで(直接自分の意思を表さないから)、大人しくて(妹の私がやってしまうから)、間違いがなくて(多くの場合は私が実験台になったから)、両親自慢の娘である姉マルグレーテ。


 姉マルグレーテが平々凡々な金髪を染めたいわ、と言ったとき、同じ金髪の私は先に髪用染料を試させられたせいで、失敗した部分を短く切らざるをえなくなった。今となっては私の顔に似合うショートヘアが気に入ったからいいものの、姉は「まあ、髪を染めるのは大変なのね」と令嬢らしい長い金髪を維持している。


 ——姉からのいじめとは思わない、だけど、不公平だ。


 そんな私の気持ちは、両親と姉が幸せそうに微笑むから、心の奥底に沈ませておかなくてはならなかった。


 食事が終わり、父であるフィオレ侯爵は、年頃の娘二人へと見合い話を持ち出した。


「そろそろお前たちも結婚相手を見繕う時期だろう。今までも婚約を何度か考えたが、やはり娘にはできるだけいい家に嫁いでほしいと思う親心ゆえに、粘って決めきれなくてな」


 なんだかんだと姉限定で親馬鹿な父は、恰幅のいい腹をさする。そのままジャケットの懐から金縁の白い封筒を二通、取り出して食器が片付けられた長テーブルに並べた。


「この二通の封筒の中に、それぞれ良家の子息の名前がある。中を見ずに、どちらかを選びなさい」


 宛名も差出人も書かれていない、まったく同じ金縁の白い封筒が二つ。それを見た姉マルグレーテは、私へさも当然とばかりに振った。


「セラフィーヌ、決めてちょうだい」

「えっ……は、はい」


 つまりは私に選べ、と言っているのだ。自分の手で取ろうともしない、ものぐさのようにも見えるが、仕方がない。私は向かって右の封筒を取り、封蝋はなかったのでそのまま開く。


 すると、一枚の便箋が出てきた。その中央に文字が一列あって、私は読み上げる。


「バルフォリア公爵家、嫡男バートラム。ええ? 公爵家に?」


 バルフォリア公爵家といえば、現国王の信任厚い宮廷武官長の名だ。広大な領地、古くからの由緒正しい家柄、王族との関わりも深い名家中の名家。


 ——まさか、私がその公爵家の夫人に? 


 私がそう喜んだのも、束の間だった。


 姉がピシャリ、と私をたしなめる。


「セラフィーヌ。それは私のよ?」


 私はその一言で、現実に立ち返った。躾けられた犬のように、姉マルグレーテの望むままに、封筒と便箋を差し出す。


 受け取った姉は、その中身を見て微笑み、それから私へもう一つの封筒を取るよう指図する。


「そちらがあなたの分。取りなさいな」


 私は——しぶしぶ、もう一つの封筒を手に取る。


 そして、同じように中から便箋を一枚取り出し、中央に書かれた文字を読み上げた。


「クレイトン卿、グウィオン……?」


 聞いたことのない家名、聞いたことのない名前。どこの誰だろうか、しかしうっすら耳にした覚えもないわけではなさそうだ。


 うーん、と私が首を傾げていると、父が説明してくれた。


「ああ、クレイトン卿は来年、ズムウォルト子爵家を継ぐそうだ。大陸貿易で財を築いた資産家の孫で、父親の急死で財産を相続してな。最近は社交界に入るために貴族の娘をもらいたがっていたんだ。セラフィーヌ、お前でちょうどいいだろう」


 バルフォリア公爵家嫡男と、今は貴族ですらないクレイトン卿。どちらが婿として格上かなど、比べるまでもない。


 さすがにこの待遇の差はあんまりだ。私は焦燥感と困惑、ほんの少しの怒りに押されて、抗議の声を上げようとする。


 だが、慣れていないために、それは上手く言葉とならない。


「で、でも、それは」


 私の不平不満を聞くまでもないとばかりに、姉マルグレーテは私の言葉を遮った。


「ではお父様、私はバートラム様にお手紙を書きますわ。お会いする日を楽しみにしている旨、お伝えしないと」

「うむ、そうしなさい。セラフィーヌ、お前は出立の準備を」

「出立?」

「クレイトン卿がズムウォルト子爵家を継ぐ前に、お前が先に領地へ行って後々やりやすいように差配しておきなさい。卿はまだ貴族ではないから権威もなく領民も従いにくい、その点お前は生まれながらの貴族の娘だ。そのくらいのことはできるだろう?」


 すでにそれは確定事項で、おそらく私への言いつけとしてその言葉は用意されていたのだ、ということに気付いたころには遅かった。


 父も母も、姉も、話の中心は未来のバルフォリア公爵夫人への期待とその名誉に移っている。


 抗議には何の意味もない。そう思うと、私は何もかも諦めた。


「……はい、分かりました」


 こうして、私はクレイトン卿グウィオン、来年はズムウォルト子爵グウィオン・クレイトンになる男性へ嫁ぐことが決まり、フィオレ侯爵家を出ていくこととなった。


 そんなこと、私は『選んでいない』。




 ある哲学者であり弁論家であった人物の言葉に、このようなものがある。


 選択には責任が伴う。自由に責任が伴うのと同じだ。()()によって起きることへ、誰もが責任を負わなくてはならない。


 もっとも、私セラフィーヌには自由などない。『選ばさせられて』、いいものを取られて、残りものを与えられるだけだ。


 フィオレ侯爵家令嬢セラフィーヌは、あっさりと実質ただのセラフィーヌとなり、クレイトン卿に嫁ぐまでの間は元貴族令嬢として、ズムウォルト子爵家の領地に先行して統治の下準備に取りかからなければならない。


 要するに、私は(てい)よくクレイトン卿の部下兼花嫁にと恩着せがましく売られたようなものだ。


 あのとき、私はバルフォリア公爵家の名が記された封筒を取っていたのに——私はちゃんと『選んだ』のに、その幸運ごと姉マルグレーテに奪われてしまった。


 当の本人はこう言うだろう。


「まあ、奪ったなんて人聞きの悪いことをおっしゃらないで。私はあなたの選んでくれたものを手に取っただけよ、セラフィーヌ。あなたの目は確かだもの、感謝しているわ」


 姉マルグレーテは悪びれもせず、純真に私が自ら進んでいいものを姉へと献上したのだと理解するだろう。ものは言いようである。もはやため息も出ない。


 執事たちから追い立てられるように自室の荷物をまとめ、私は古びた頑丈な馬車一台を与えられて、次の日にはフィオレ侯爵家屋敷からズムウォルト子爵領へ旅立った。


 感傷だとか、長年住んだ我が家がだとか、そんなことは言っていられない。私はしばし無言で、馬車の窓から外の景色を眺め、色々な感情が湧き起こりそうな心を落ち着ける。そうしないと、やっていられなかった。


 それに、目的地はさして遠くはない。いくつか大きな川にかかる橋を越え、それから下流へ馬車を走らせれば二日とかからない。先立っての領主代理の免状ごと事前に渡された薄っぺらい資料と周辺地図によれば、小さな盆地がまるごと領地で、果実、主にブドウ栽培の盛んな土地らしく、小規模な農家たちが独立してその土地を守っているのだとか。


 しかしそれは、あくまで資料上の話だ。実際には色々と違っているだろうし、よそから来ていきなり領主代理になった小娘を、代々その土地を守る人々がすんなり受け入れるはずもない。明らかに前途多難だろう。


 途中、一旦馬車を停めて川岸で休憩していたとき、雇われ御者の青年ラースがこんなことを口にした。


「そういえば、なんでお嬢様は子爵領に? あそこは先代の子爵が死んでからずっと放置されている土地なんですよ。後継もいなかったし、山間の小さな土地だから管理も面倒で、誰も代理の役人すら派遣しなかったって話ですよ」


 ほら見ろ、資料に載っていない初めて聞く情報だ。私は今持っているサンドイッチにかぶりついて完食してから頭を抱えたくなったが、堪える。


「じゃあ、今、ズムウォルト子爵領はどうなっているの?」

「さあ……ああ、そうだ。だいぶ前に、あそこはいくつもの村が自主的に合併して、一つの地区を名乗ってるんですよ」

「合併って、初めて聞いたわ!?」

「ははは、でしょうね。もちろん、正式なものじゃないです。で、彼らが名乗ってる地区名はアレジアです。今じゃ他の土地でもアレジア地区って名前で通ってます」

「知らなかった……」


 当然、私が知るはずはないのだ。他領の、それもごく小さな土地が勝手に名乗りはじめた地名まで、貴族令嬢が知っているはずなんてない。官僚になるための学校にでも行っていれば耳にしたことくらいはあったかもしれないが、嫁に出すだけの娘を教育したがる親は少ない。最低限、淑女として振る舞えて、跡継ぎとなる子どもを産めればそれでいい。侯爵家でさえも、そんな有様のこの国だ。


 無論、他国はもっと進んでいると聞く。子女教育に熱心で、男性と張り合うほど知的な女性が好まれる、と風の噂で聞いたこともある。ただ、戦争もなく、競争らしい競争もなく、貴族の義務なんて家を守ることくらいしかないこの国には、そんな風潮はしばらく来ないだろう。


 私だって、幼いころに姉の代わりに行かされた父フィオレ侯爵の名代の経験がなければ、領地経営の云々なんてまったく知らなかっただろう。偶然子どもに優しい代理官たちがいるところで一年を過ごしたことがあるから、ほんの少しだけ彼らの仕事を知っているだけだ。最低限、書類が読めて理解できて、サインができて、数字の計算ができれば何とかなる、と。


 とはいえ、十五歳になってから領地経営というものを振り返ると、あれもできたのではないか、これもできたのではないか、と考えが色々と浮かんでくる。もしかすると私、意外と研究熱心なのかもしれない。


 ちょっとした発見と心境の変化はさておき、私はふと、ラースの言葉に引っかかるものを覚えた。


「ん……? 名前が通っている、ってことは、有名なの?」

「ええ、もちろん。上等なワインの生産地ですよ。アレジアワインって名前で通ってます」


 へえ、と私は感心する。農民とは、ただ小麦を作って納めるだけではないのだ。ワインならどこでも需要があるし、資産家や貴族だって買い手になる。よく考えたものだ。


「まあ、食い扶持があるのはいいことよね」

「そうですね。ところでお嬢様、アレジアに到着した後も俺を雇ってもらえませんか?」

「いいけど、そんなに馬車を使うことはないと思うわよ?」

「雑用でも何でもやりますって。俺も食い扶持を稼がないといけませんから」


 そう頼みこまれては、私も断れない。未来の旦那さまことクレイトン卿がどんな判断をするかは分からないが、そばかす顔の茶髪の青年ラースは、大人の男性ということもあって力仕事や護衛代わりにもなるだろう。私はそう考えて、ラースを雇うことを『選んだ』。


 休憩を終え、私たちはまた馬車でトコトコとズムウォルト子爵領ことアレジア地区を目指す。


 ところが、山間の道を抜けた先には、とんでもない土地が広がっていた。






 西に高い連峰を望む丘陵地帯は、まるで楽園だった。


 広がるブドウ畑はずらりと並び、切り揃えられた木々が綺麗に整列している。畑ごとに区切られた石垣と固められた黄土の乾いた土道は清潔そのもので、雑草や泥一つない。よく見ると、石垣のそばに側溝が掘られていて、真ん中が少し膨らんだ土道は雨が降ったとしてもスムーズに側溝へ流れていくのだ。


 これほど考えて整備された村が、丘陵地帯のあちこちにある。風車や鐘楼のような高い建物はなく、素朴な木造の平屋は大きめに作られ、同じ造りでもいくつか住宅ではないであろう建物もあった。何かの工場(こうば)——ひょっとしてワインの醸造所だろうか。運搬用の荷車や厩舎も近くにある。明らかに、ここから何かを運び出す前提で作られた場所だ。


 黙ってここにいるよりも、そこに行ってみよう。私は『選んだ』。


 馬車の御者の席に向かって、私は窓を開けて叫ぶ。


「ラース、あの大きな工場(こうば)に向かってちょうだい。きっとこの地区の事情をよく知る人たちがいるわ!」

「承知しました、すぐ着きますよ」


 御者のラースが馬へ鞭を入れる。これまでの道と違い、轍のない整った道を馬車は走る。


 そして、ラースが言ったとおり、すぐに工場(こうば)と思しき場所へと辿り着いた。窓から見た空の雲の形が変わるよりもずっと早く、果実の香りが漂う工場(こうば)は積み出し用の広い前庭へ私たちを出迎えた。


 馬車の車輪の音と蹄鉄の音が聞こえたのだろう。中から工場(こうば)で働いているだろう農夫たちが一人、二人、四人、十人と前庭へ出てきたのだ。ブドウの汁で汚れてはいるものの、皆それなりにきちんとした服を着ていた。少なくとも、ボロや洗っていない土汚れまみれの服ではない。


 私は停めた馬車を降り、被っていた麦わらとリボンでできた帽子を直し、チェック柄のドレスの裾を払って、彼らに一礼した。


「突然の訪問で驚かせてしまってごめんなさい。私、クレイトン卿よりズムウォルト子爵領の領地経営について一時的に任されました、セラフィーヌと申します」


 できるだけ聞き取りやすいよう、大きな声を出したが、伝わっただろうか。


 私のそんな心配をよそに、人々は驚き、何とも珍妙なことに、こんなことを口にした。


「え? 子爵家ってまだあったのか?」

「とっくの昔になくなったのかと」

「役人が来なくなってもう随分経つのになぁ」


 アレジア地区の農夫たち、言いたい放題である。


 とはいえ、何となく事情は察した。先代の子爵が亡くなってから、やはりこの領地は放置されていたのだ。そこは国や貴族側の理由があるのだろうが、放置された側の領地の民たちだってそのままではどうにも立ち行かない。だから、村々で集まって、共同体として生きていくお金を稼ぐためにもワインを作って——管理しやすいように地区という集団まで作った。


 それを咎めもせず、把握もせず、放置していたのは本来の責任者であるズムウォルト子爵家や指摘すべき王国の役人らであって、彼らが『放置されたこと』を責められる謂れはない。うん、私もそのくらいは分かる。


 なので、私もいきなり来て、彼らの主のように振る舞うつもりはない。


 私は資料を持ってきて、免状をそっと農夫らへと見せる。


「こちら、王国からの代理官免状になります。とはいえ、皆様が困っていることがあれば私が手配や調査をするくらいで、あとはこの……地区の情報かしら、それをまとめたいと思っていますの。いかがかしら……?」


 農夫たちは唸り、首を傾げ、悩んでいた。どうしていいものか、戸惑っている様子が見て取れる。


 そこへ、一人の年老いた農夫が声を上げた。


「あ! ひょっとして、クレイトン卿ってあれか! グウィオンのことか!」


 すると、他の農夫たちも「ああ!」と合点が行ったように頷いていく。


 この人たち、私の結婚相手について知っている。そうと分かれば、私は農夫たちのほうへ一歩進み出て、さらに何かとっかかりになる情報はないかと耳をそばだてる。ところで時間が経つごとに工場(こうば)の前に集まった農夫の数は増え、今前庭にいる数は二十人を超えていた。


「何だ、グウィオンの知り合いならそうと言ってくれ。俺たちはあいつの会社にワインを卸してるんだ。そういえば、あいつ、前にこの土地の権利がどうこう言って調べてたな。そのこともあるのか」

「あ、おそらくそれですわ。そのグウィオン様と私、結婚することになりまして」

「結婚!?」


 寝耳に水、祝いごとに敏感な田舎の農夫たちはざわめき、そのせいで余計に私をどうすべきかの意見のまとまりを失っていた。


「ということは……どういうことだ?」

「さあ? とりあえず、グウィオンが他の貴族や商人に買われる前に、この土地の権利を取ってきた、ってことだろ?」


 なるほどなぁ、そんな感心した声がいくつか聞こえた。


 私もさっぱり事情は知らないが、多分そういうことだと思う。クレイトン卿は国有数の資産家で、先祖代々大陸貿易で財を成した。だから会社くらい大から小まで腐るほど持っているだろうし、このアレジア地区の良質なワインをよそに取られないためにズムウォルト子爵の爵位を根回しして授与されるようにした、というのも十分に考えられそうだ。


 私と二十人あまりの農夫たちの認識はおおよそ一致した。私はクレイトン卿ことグウィオンの身内、アレジア地区の農夫たちはグウィオンの取引先。つまり、どちらもグウィオンで繋がっている大切な関係だ、と。


 ひときわ体格のいい、ついでに人のよさそうな農夫が話をまとめる。


「それならいいか。よし、お嬢さん、この道の先に元は役人の屋敷だったところがあるから、とりあえずそこに住んでくれ。グウィオンも宿として使ってたんだ。もし修繕が必要そうなら暇な若いのを送り込むよ」

「ありがとうございます。それと、ええと、グウィオン様は、こちらによく来られるのですか?」

「まあまあだな。来るときもあれば、めっきり来ないときもある。大体そういうときは他の国に出向いてたとか、商品の買い付けに時間がかかったとか言ってる」

「はあ、なるほど……早く来ていただけると助かりますけども」

「心配しなくてもそのうち来るだろう。それまでのんびりここで暮らすといい、ここは他の土地と違って穏やかで豊かだ」


 その言葉に嘘がないことは、この丘陵地帯を少し見ただけで分かる。人々は身なりが清潔で、道はきちんと引かれ、工場(こうば)の建物の柱や(はり)も大きな木材を使って建てている。それだけで他の地域とは一線を画す、平和が保障されている。


 諸々安心した私は、お礼を言いがてら、私の後ろで様子を窺っていたラースについて、農夫たちに紹介、もとい要望する。


「あ、そうでした。皆様、こちらのラースに色々お手伝いをさせてあげてくださいな。早くこの土地に慣れないといけませんし、何より彼は他に行くあてがなくて雇っているものですから、手に職をつけさせてあげたいのです」


 そんな話は聞いていない、と顔に書いているラースのことなどおかまいなしだ。だって、見知らぬ男性が近くをうろうろするのは、結婚前の淑女として避けたいもの。なので、ラースの身柄は農夫たちに預けたい。仕方ないのだ、仕方ない。


 農夫たちは気持ちよく承諾してくれた。


「何だ、それくらいお安いご用だ。よろしくな、若いの!」

「え、ええ、よろしくお願いします」

「じゃあ、ブドウ畑の見回りからだ。その後は井戸の点検とガラス瓶の洗浄作業な」

「そんなに!?」


 話を聞くかぎり、ラースに待ち受けているのは重労働だろうと予想される。頑張れ、ラース。


 馬車と中の荷物は後で動かしてもらうとして、私は大事な荷物だけ持って、元役人の屋敷という場所へと独り、歩いて向かうことにした。ゆっくり丘陵の広がる地区を眺めていくこともできるし、女性の一人歩きも問題なさそうだから、気分転換にもなる。


 貴重品を入れたバッグ一つを手に、私は歩き出す。


 それもまた、私が『選んだ』ことだ。


 牧歌的な風景は都市の中で育った私の目には新しく、見知らぬ土地だというのに怖さはなく、むしろ冒険心をそそられた。


 考えてみれば、今の私は貴族令嬢ではない。来年には子爵夫人になるだろうが、その短い間は私はすっかり実家とも縁が切れた存在で、結婚相手のクレイトン卿からしてもまだ結婚式を挙げたわけではない。


 何者でもない、ただのセラフィーヌ。それはそれで、私としては新鮮な気持ちだ。


 ひょっとして、クレイトン卿がやってくるまでは、私はズムウォルト子爵領ことアレジア地区の代理官として、何かができるのでは?


 誰にも奪われずに、何かを『選べる』のでは?


 こんなにもワクワクするのは、久々だった。


 なので、すっかり忘れていた。


 元役人の屋敷という石造りの平屋は、今私一人で生活するには広すぎて、どうしていいか分からないということを。


 おまけに放置ぶりもひどい。屋根や壁際には可愛らしい野花が、と現実逃避したくなるくらい、雑草に覆われている。クレイトン卿が滞在したのはおそらく数ヶ月は前だろう、ひと夏を越えれば雑草だって生え放題だ。


 私は玄関先で、尻込みをしていた。


「このあたりで使用人を雇う、なんてまだできそうにないわね……一人でどうにかしないと」


 口には出してみたものの、どこから手をつけるかさえ今の私には思いつかない。草むしりなんてやったことはない、庭師の仕事をそばで眺めていたくらいだ。


 当然、まともに住めるようにするには、他のこともやらなくてはいけない。だが、その他のことは、私にできることだろうか? 料理、洗濯、掃除、最低限思いつくだけでも三つあるが、この荒れ放題の屋敷でできることとは思えない。


「グウィオン様、いついらしてくださるのかしら。はあ」


 ——いや、いない人に期待してもよくない。


 私は覚悟を決めて、やれることをやることにした。


「掃除でもしましょう。うん、そうよ。その後は食事の準備ね、まずは生活を営まないと」


 何度姉マルグレーテに好きなものを奪われてもへこたれない私だ、このくらいで絶望に打ちひしがれたりしない。


 よし、と気合を入れたところで、背後から賑やかな声が聞こえていることに私は気付いた。


 振り向けば、すぐそこに女性たち——私と変わらないくらい若い農家の娘から、年老いて腰の曲がった老女まで——がホウキや大きな編みかご片手に集団でやってきていたのだ。


 水色のエプロンと三角巾を装備した先頭のふくよかな中年の女性が、ハキハキと私へ話しかけてくる。


「ごめんくださいまし! あらあら、綺麗なお嬢さんねぇ!」

「ど、どちら様ですか」

「ああ、全員この村の娘とババアだから気にしないで! この屋敷を使うんだろう? 一人じゃとても管理できないだろうから、総出で手伝いに来たよ!」

「うちの馬鹿亭主が「綺麗なお嬢さんが来たぞ!」しか言わないもんだからさ、とりあえず食べ物を持ってきたよ。都会と違って小料理屋も何もないからさ、お腹が空いただろう?」


 集団は騒々しい。口々にきゃあきゃあと主張されてしまって気圧されたが、私はとにかく、手伝いという単語に反応した。


 ——一人でこんな屋敷を使えるようになんてできるわけないでしょう!


 貴族令嬢だったらきっと見栄を張って、手伝いを拒んでいたかもしれない。でも、今の私はただのセラフィーヌだ。


 私は精一杯、騒々しさに負けないよう、声を張る。


「はい! 一人じゃ何もできません! 皆様、手伝っていただけるととても助かります!」


 その言葉を待っていたかのように、「行くよ、みんな!」と女性たちは屋敷内外にそれぞれ散っていく。窓という窓、ドアというドアを開け放し、ハタキで埃を払い落とし、一斉にホウキで掃いていく。圧巻の早さ、手際の良さだ。


 私は邪魔にならないよう、まだ使える井戸の水汲みに従事していたが、すぐにバテて休んでいるよう言いふくめられた。「来たばっかりで疲れているんだから」、「お嬢さんなりにやればいいから」と屋敷近くの古い石ベンチでレーズンクッキーを頬張る仕事に就く。


 屋敷のあちこちから活気ある声が響く。笑い声がして、楽しそうに彼女たちは掃除をして、時々やってきた農夫たちが大工道具を持ってトンテンカンと音を鳴らして。


 なんとまあ、よそ者の私に親切にしてくれるのだろう。感激さえ覚える。


 驚くべき、それでいて非常に助かる歓待ぶりに、私は自分の選択が間違っていなかったと少し報われた気がした。


 私は今までずっと『選んできた』が、その結果を享受することはなかった。


 その日は快晴の空が星空になっても屋敷は賑やかで、一日中私を歓迎して各家から持ち寄られた食事が振舞われていた。





 一ヶ月後。


 私はすっかり、アレジア地区に馴染んでいた。


 朝起きて屋敷の掃除と洗濯、食事を済ませたら、午前中は地区のあちこちから集めてきた資料をまとめる。先代子爵が亡くなってからのワインの出荷に関する資料、クレイトン卿の会社との取引に使われた帳簿、地区内外の商取引と出入りする商人の照会などを中心に行う。


 隣領の郵便局に頼んで、臨時の回収便を出してもらい、一日一回は屋敷前のポスト代わりの木箱に入った手紙を取りに来てくれるようになった。それまでは皆、隣領まで郵便の受け取りに行ったりしていたようだ。


 とにかく、アレジア地区は名目上ズムウォルト子爵領なので、他領にもそれに準じた扱いをしてもらわなくてはならない。そのために、商人たちへ不正をしてちょろまかしていた税金の徴収を督促したり、他地域より不当に値上げをしていた物資の過払金請求をしたり、クレイトン卿が来るまでにそういった面倒ごとを清算しておこうと私は決めた。


 最初、私がワインの工場(こうば)に出向いて資料を見せてほしいと頼んだとき、つたないながらも文字の読み書き計算ができる経理担当の農夫は怪訝そうな顔をしていた。


「どうしてそんなことを? 昔の生産額なんて大雑把だし、今更何に使うんだ?」


 それに対して、私は自分なりに丁寧に説明した。


「それ自体がどうこうというわけではなくて、他の数字と合わせて考えたときに、ここはおかしいな、と分かることが重要なのです。たとえば、悪徳商人に騙されてしまったときの被害算出や、ブドウが不作だったときの対処法と効果が分かったりします。基本的に、アレジア地区の方々が損をしないよう、今の生活を守れるように使います。なので、見せていただけませんか?」


 経理担当の農夫は少し考えてから、許可を出してくれた。


「ふーむ、なるほど。分かった、ノートとかはそこにあるから、自由に見てってくれ」

「そこ……えぇ?」


 そこ、とは工場(こうば)に入ってすぐ横のサイドチェストにしか見えない棚のことだった。まさか紙の資料がこんなところに乱雑に置かれているとは思わず、私は一旦屋敷で預かって、経理担当の農夫とともに清書し直すことにした。その劣化具合たるや、何度も触れているとボロボロに砕けてしまいそうなほどだ。


 そのほかにも、ラースの様子を見に、という名目で私は何度も工場(こうば)を訪れた。


「ラース、馴染んでいるわね」

「おかげさまでね。いや本当、肉体労働ですよ」

「御者の仕事があればまた呼ぶわ。それまでここで働いていてね」

「はいはい、まったく……」


 どのみち、御者がラースの本業というわけでもない。馬の扱いができるからと任されただけの仕事だ。貴族の家にあるまじき雇い方だが、いなくなる娘に気遣いも何も無駄だとばかりのやり口に、私はこうも思った。


「お父様がこんなことを許すとも思えないから、家の中はおそらく執事たちにやりたい放題されているんでしょうね……差分で浮かせたお金を着服している可能性だってあるわ」


 つまり、フィオレ侯爵は私の出立に際してある程度お金を使わせていいと許可を出していただろうが、執事たちがボロ馬車を押し付け、そのへんにいた若者を安価に雇って私を追い出し、余った金を自分たちの懐に入れていたと思われる。


 まあ、もう出てしまった家のことなど、私に関与できるわけでもなし。気付いても放っておくしかなかった。


 ラースに工場(こうば)を案内されて分かったのは、工場(こうば)内は二つの区画に分かれているということだ。


 一つは工場(こうば)の主屋にある醸造所。貨物の積み込みができる広い前庭を有し、建物の中は醗酵用の大桶が並んでいた。熟成は地下室で行うようで、今の時期、外では熟成用ワイン樽を作る作業が行われていて、木を叩く心地いい音がしている。


 もう一つは、収穫したブドウを陰干しするための干し場だ。主屋の影になる場所に、風通しのいい窓の多い小屋がある。何段もの棚の網の上に干しブドウがこれでもかと並び、それを使ってアレジアワインを作るようだ。ここで枝や茎の除去、選別も行うため、主屋と同じくらい人の出入りがある。


「ねえラース、干しブドウからワインってできるのかしら?」

「できるらしいですよ。甘くて美味しくなるとか」

「へえ……私はまだ飲めないけど、そういうものもあるのね」


 新しい世界の情報に、私はすぐのめり込んだ。今までは家の中で大人しくしている淑女としての教育、とは名ばかりのマナーや刺繍、ダンス、女性向けの簡単な小説を読むための時間くらいしかなかった。


 それが、屋敷の外ではまったく違うことばかりをやって、学んで、歩いて、知っていく。料理だって卵一つの目玉焼きから、掃除は頑張って繕った雑巾を水に浸すところから、それに、粗末な紙に万年筆で計算式や数字を書くことが紙の繊維に引っかかってしょうがないことも初めて知った。


 あらゆることが、こんなにも大変だとは私は知らなかった。アレジア地区の人々が入れ替わり立ち替わりやってきて、「困ったことはないか?」、「食べ物を持ってきた」、「お茶はどう?」などと毎日声をかけてくれる。


 最初は警戒されているのかとも思った。しかし、違った。


 それが判明したのは、私がフライパンを持ち上げてこう言った瞬間だった。


「これは飾りですか? 何かのお祭りの……?」


 浅型の鉄製フライパンを、てっきりアレジア地区だけで使われているものとばかり思った私の言葉を、キッチンの整理整頓や道具の補充に来ていた女性たちが戸惑いながら受け止めた。


「フィーヌ、それは料理の……あー……焼く道具だよ」

「ほら、目玉焼きとか作るの!」

「これで!? どうやって!?」


 私のその反応を見て、その場にいた私を除く女性たち全員が「そこからかぁ……」という雰囲気に包まれていたことは、大変印象に残っているし、今でも恥ずかしい。


 井戸水を汲むのは分かる、庭師のやり方を見ていたからだ。だが、料理など貴族の女性はしない。掃除も、洗濯も、書き物に粗末な道具を使うことがまずありえない。


 それから毎日、手の空いた女性たちがその日鶏が産んだ卵を持ち寄って、私に目玉焼きを焼かせる特訓が始まった。その場にいる人数分、目玉焼きを焼くのだ。余った卵はお菓子にする。とにかく私は、皆に迷惑をかけるのが申し訳なくて、料理を教わることを『選んだ』。


 そうして、瞬く間にアレジア地区の全域に私の噂が広まり、こう認識されていたのだ。


「グウィオンの花嫁はいいところのお嬢様で、放っておくと危なっかしいからしっかり見ておくこと」

「何でも自分でもやりたがるからちゃんと最後まで教えること。教えれば意外と何でもできる」

「井戸に落ちないようくれぐれも見張っておくこと。自分の体重の軽さを分かってない」


 最後の認識については、私が何かと井戸周りでうろちょろしていたからそうなったらしい。


 まるで手のかかる子どものように思われているが、それはそれでありがたいことだ。そう思って、無知を晒した恥ずかしい気持ち——思えばこれは、勝手に見下されたと傲慢に思っていたのかもしれない——を抑え込んで、毎日色々な人に色々なことを教わっている。


 それが一ヶ月も続けば、だんだん慣れてくるし、理解してくる。


 彼らはセラフィーヌという令嬢のことは知っていても、私が貴族であることは知らないし、結婚相手を決めるくじ引きのようなもので()()()()()()()()()来た、ということも知らない。


 そのことは、私ももう、あまり気にしなくなった。バルフォリア公爵家に嫁いだ姉マルグレーテのことも、生家フィオレ侯爵家のことも、私には金輪際関係ないのだと、はたと気付いてしまったのだ。


 だから——アレジア地区の農夫たち、女性たち、その子どもたちや老人たち、彼らが見るセラフィーヌという令嬢は、今の私の正真正銘ありのままの姿なのだ、と。


 クレイトン卿の花嫁という関係性以外、何の尊称も、家名もついていないセラフィーヌは、「放っておくと危なっかしくて」、「何でも自分でやりたがって」、「教えれば意外と何でもできる」し、でも「井戸に落ちそうで見張っておく」ような十五歳の少女なのだ。


 それでいいのではないか。


 それでもいいのなら。


 そう思えたら、ストンと腑に落ちた。


 それ以来、私はアレジア地区の代理官セラフィーヌこと『フィーヌ』になった。


 なので、私はアレジア地区の工場(こうば)にクレイトン卿グウィオンがやってくると伝え聞き、一瞬「誰だっけ」と呆けてしまうほど現地生活に馴染んでいた。







 私は工場(こうば)の主屋の陰から、気配を殺して来訪者の様子を窺っていた。


 馬に乗ってやってきた私兵と思しき武装した屈強な男性たちと、私が乗ってきたものより数倍大きい立派な馬車から出てきた、黒髪に灰色のメッシュが入った青年。不思議なことに、青年の着ている服は簡易礼服を着崩し、ライトベージュの長外套を肩に羽織って、見たことのない着方なのに何だかかっこいい。さらに、その周囲には青年の倍は年上の身なりのいい人々があれこれ青年から命令を受けている。


 急にやってきた見知らぬ人々を、アレジア地区の農夫たちが出迎え、前庭の石畳の上で数本のワイン瓶とワイン樽一つを持ってきて見せていた。どうやらそれは商談らしい、と私の足元にしゃがんでいるおしゃまな小さな女の子二人がヒソヒソ教えてくれた。可愛らしい黒髪のツインテールを結ってあげた双子の女の子たちが私の足にそれぞれ掴まってくれているおかげで、私は震える足を何とか立たせている。


 黒髪に灰色のメッシュが入った青年は、ワイン瓶の首を持って瓶底を日光に透かしたり、栓を開けてグラスに注いだりと、商品であるアレジアワインを見定めている。


 頼りない私に代わり、双子の女の子たちが私に逐一情報を上げてくれてとても助かる。


「あれがグウィオンよ、フィーヌ」

「なかなかハンサムでしょう?」

「そ、そうですね、はい」

「ちなみに下戸だからいつもちょっとしか飲まないのよ」

「それでも強がっているのよ、きっとそう」

「大変ですね……」


 双子の女の子たちによる解説でグウィオンの人物解像度が少し高まったところで、黒髪に灰色のメッシュが入った青年——グウィオンがグラスのワインを飲み干し、話しはじめた。


「ふむ、これならいいだろう」


 満足そうに頷くグウィオン、グウィオンのグラスへとワインを注いだ一人の農夫——工場(こうば)のリーダー的存在である年配のジェスおじさんが相槌を打つ。


「そうか、いつも助かるよ、グウィオン。商売のほうはどうだ?」

「ふん、上手く行く以外にあるとでも? いや、あるな! 俺が今、この国で一番稼いでいる人間だと胸を張れる状態か否かと問え!」

「じゃあそれだったらどうなんだ?」

「当然ッ! ……こないだ年末の長者番付見たら三番目だった!」

「あらら、一番と二番は誰なんだ?」

「リヴォリー商会の化け物爺とアスタシオン伯爵スワンだ! あいつら、株と武器で儲けてるんだ! ずるいだろそれは! 俺の担当外だ!」

「まあまあ」


 何だかテンション高く叫んでいるが、全部が全部は聞こえない。グウィオンの身振りが大きすぎて、もう酔っているのだろうか、と心配になる。


 雰囲気、言葉遣い、所作を見れば、グウィオンという青年が人目の厳しい貴族階級ではなく、さりとて貧しい家の出でもないことは一目瞭然だ。あらゆる階級の人々と交流がある大商人ならではの、コミュニケーション能力が発揮されているのだろう。


「で、アレジアワインの今年の出来はどうだ? ジェス、お前の舌がいいものだと保証するならそれで行く」

「もちろん、今年も厳選に厳選を重ねたブドウで作ったんだ。雨もなく、しっかりと干したブドウでできた最高級の樹上乾燥(パスリヤージュ)ワインの樽が全部で五十もある」

「よし、買った! 他には?」

「去年仕込んだ搾りかす(リパッソ)ワインは十樽だ。それでも多いほうだぞ」

「うむ、知っている。それは前の売れ行きが非常によかった、できるだけ多くほしい。言い値でかまわん!」

「そりゃよかった。他には」


 ジェスおじさんが工場(こうば)の干し場を見つつ、手振りで何かを説明している。もしかしてもう移動するのだろうか。そわそわして落ち着きのない私を、双子の女の子たちが急かす。


「行かないの?」

「今よ、ほら!」

「い、行きますよ。ちょっと心の準備がですね」


 双子の女の子たちが私の巻きスカート越しの両足から離れ、私は深呼吸をして、ブラウスの襟を整えたり、大きめのカーディガンの肩を直したりして、心臓が落ち着くまでの時間を稼ぐ。


 大丈夫、どうせここで逃げても結局会わなきゃいけないのだから。そう思って、私は自分の気持ちに発破をかけた。


「よし、行けます。フィーヌ、行きます!」

「頑張ってー」

「負けるなー」


 双子の女の子たちの応援を背に、私は主屋の建物の陰から一歩を踏み出した。


 頑張れ、私。一歩一歩、ちゃんと革靴(ローファー)の底は前庭の砂と土を踏み締め、足音を立てて近づいていく。


 声の届く距離まで近づくと、私兵の男性が立ち塞がる。そこで私は足を止め、青年の顔が向くように、はっきりとした発音で挨拶をする。


「あの、よろしいでしょうか。私、セラフィーヌと申します」

「ん? セラフィーヌ?」


 くるりとグウィオンが振り返り、その青灰色の両目は私を捉えた。


 次の瞬間、グウィオンは私兵の男性を押しのけて、凄まじい速さで私のもとにやってきた。私は反応できないまま、革の黒手袋越しに両手を掴まれ、まるでダンスのように互いの手をそれぞれ繋がれてしまう。


 そして、グウィオンは歓喜の声を上げた。


「誰かと思えば、俺の幸運の女神(フォルトゥーナ)じゃないか!」


 おそらく、それを聞いたその場にいる人々全員が、思いを一つにしただろう。


(((グウィオン、何を言った、今)))


 もちろん私も同じである。ようやく唇が動くころ、私は反射的に問いただす。


「……何? 今、なんと?」

「よし、よしよしよし! フィオレ侯爵の目はやはり節穴だった! セラフィーヌ、結婚式を」


 話を聞いていないグウィオンが先走ってとても重要なことを勝手に叫び、さらに勝手に止まる。何事か、と私が眺めていると、グウィオンは不思議だとばかりにこう言った。


「そういえば、セラフィーヌ。お前はここで何をしていたんだ?」

「何って、代理官として生産額や税額に間違いがないか資料をチェックして、帳簿をきちんとまとめて、よその商人に不正請求されたお金を取り返すための裁判の準備をしていました」


 そうしろと言われたから私はそうしてきたわけだ。ズムウォルト子爵領を統治前にきちんとしておくように、と父フィオレ侯爵から言われたのだが——よく考えると、それはグウィオンの意思だったのだろうか?


 厄介払いに、父がそういう口実を設けただけで、体よく追い出されただけだろう、と思うと何だか心が重たくなってくる。


 だが、グウィオンはその空気を一掃するように、私の両手を握った。


「よし! お前の選択に間違いはない! それでいい!」

「その反応、ちゃんと理解していますか?」

「もちろん! そのへん後でちょっと説明してもらうとして、それはそうと結婚式のほうが大事だ! はあっはっはっは!」


 テンションが高まりすぎて、グウィオンは私の両手をそれぞれ握りながら、くるくる回転する。こんなものダンスではない、しかし楽しそうに笑いながらグウィオンは私を振り回す。


 十回転に届かないところでやっと回転は止まり、グウィオンはすっと一礼をして態度を豹変させた。


「ま、ふざけるのはここまでにしよう。会いたかったぞ、セラフィーヌ。改めて自己紹介を。俺はグウィオン・クレイトン、クレイトン海運および貿易商会の代表を務める者だ。そして」


 グウィオンは私の両手を離す。もう一度、右手をそっと差し出して私の右手を優しく取り、そのまま姿勢を下ろして地面に片膝を突く。


 『ハンサムな青年』グウィオンが、上目遣いに、私へとプロポーズの言葉を投げかけた。


「幼き日のお前の選択を信じてここまで来た男だ。だから結婚しよう」


 どよめきと、黄色い声が周囲から湧き起こる。


 そんなものよりも、グウィオンの完璧なプロポーズが私の頭を支配して、しばらく興奮と混乱から抜け出せなかった。







「ひとまず、会ったばかりなんだから屋敷で話をしたらどうだ?」


 固まったままの私と得意満面のグウィオンへそう提案してくれたのは、ジェスだった。


 グウィオンは「そうだな!」と商談をさっさと終わらせ、私の手を引いて歩いて屋敷までの道のりへと踏み出す。今私が使っていることも知らないだろうから、着いたらびっくりするだろう。この一ヶ月、アレジア地区の人々総出で改修された屋敷は、見違えるように綺麗になっているのだ。


 それはそうと、私の右隣を歩くグウィオンは、先ほどと表情が変わっていた。取り巻きの人々を置いてきたからか、気を張る必要がなくなったらしく、少し表情が和らいでいる。いや、高まりすぎたテンションが落ち着いただけなのかもしれない。


 私としては、一刻も早く、以前グウィオンとどこで出会ったかを知りたいところだ。幼いころ、グウィオンと会った憶えは今のところない。黒髪に灰色のメッシュが入った男の子、なんて身の回りにいただろうか。鼻筋の通ったハンサムな顔つきからして幼い時分だってさぞ可愛かっただろうし、何かと特徴的だから忘れようがなさそうだが、どうにも思い出せない。


 そんなふうに私が記憶の中を洗いざらい捜索していると、グウィオンは控えめに問いかけてきた。


「マディールという地名に憶えはあるか? 俺たちが初めて会ったのは、そこの教会だ」


 私は思わず、「あ!」と記憶の海の中に手を突っ込まれて目的のものを掻っ攫われたように、唐突にその名へ思い至った。


 大昔、私が姉の名代として行った都市の名前だ、と。


「フィオレ侯爵領に、そんな名前の都市があります。私が昔、名代にされて行ったことのある……そこの教会、ですか?」

「ああ。憶えていないとしても責めはしないさ、あのころは俺もチビで泣き虫だった。髪の色も違っていたしな」


 それを早く言ってほしい。


 髪の色が違うとなると、よくあるのは幼少時は金髪で成人するにつれ色が付いていくパターンだ。青灰色の目の色からして、グウィオンの先祖は元々北方出身だったのだろう。


 手がかりは増えた、それならもっと思い出せる。


「んん? ……もしかして、金髪でした?」

「そうだ! 思い出したか?」

「ちょっと待ってください。金髪の、小さい男の子……会ったかもしれません。何せ、たくさんいたので、ええと」


 当時、私が五歳くらいだろうか、交易都市マディールは建設されたばかりで、多くの商人たちが顔つなぎにとやってきていた。周辺貴族も当然来ていたし、あちこちの良家の子女が集まり、作られたばかりの教会でまとめて面倒を見てもらっていたのだ。家庭教師はまだそれほど数がいないし、どうせ数週間、長くても数ヶ月滞在するだけの都市で子どもの教育に力を入れる親はおらず、教会の司教や修道士たちに初等クラスの教育を受けたほうが手早かったのだ。


 もちろん、私は名ばかりの名代なので、教会に通っていた。できたばかりの教会というのは珍しくて、大きな天窓がいくつもあり、長椅子は隙間もなく新品で、子どもが走り回れるほど広かったことを思い出す。


 そこで——金髪の男の子と出会った記憶というと、あった。


「ああ、思い出しました!」

「おお!」

「算数の家庭教師に怒られて逃げ出して教会の椅子の下に隠れていた泣きベソの男の子ですね!」

「そこまで思い出さなくていい!」

「あ、ごめんなさい、傷つけて」

「き、傷ついていない! 少ししか!」


 OH、グウィオンにとっては幼少時泣いた記憶は恥ずかしいかもしれない。私は少し反省した。


 しかし触れずに話すことはできない。確かに、初対面のとき、あの子は泣いていたのだ。今の立派な青年であるグウィオンからはまったく想像もできないほど小さなころ、芋虫みたいに丸まって新品の長椅子の下でうずくまって、しゃっくりを上げながらうめいていた。


 そんな子を放っておくことはできない。私は声をかけ、少し話した憶えがあった。


 問題は、話した内容に関してはすっかり思い出せないことだ。どうしよう。


「えっと、何を話したか憶えていますか……?」

「当然だ! おじいさ……こほん、祖父の商売に付いて交易都市マディールに滞在していた俺は、お前に話しかけられて」

「泣いていたから慰めたのでしょうか?」

「それもあるかもしれないがちょっと横に置いておけ」

「はい」

「俺はお前に弱音を吐いたんだ。勉強が苦手で祖父が怖い、商会を継ぎたくない、と。実際、官僚や進学、早期に独立してどこかで暮らす道だってあった。祖父は俺を跡継ぎにしたくて厳しくてな……食糧輸出を止めている馬鹿な貴族を騙してこいと命令したり、反乱軍に新製品を売り込んでこいと言ったり、散々だった……散々だった!」


 どうやらグウィオンは祖父に与えられた苦難の数々を思い出してしまったようだ。地団駄を踏んでいる、そっとしておこう。


 しばし呼吸を整え、グウィオンは咳払いして帰ってきた。


「話を戻そう。お前は俺に、「それなら継いだほうがいい」と言ったんだ」

「記憶にないのですけど、なぜでしょう?」

「理由? そんなもの、一言だったぞ! 「後悔しないように」、その一言だ!」


 かけたのはたった一言なのか、私。


 たった一言で私と結婚したくなるのか、グウィオン。


 色々と思うところはあるが、まだグウィオンが真剣に話している途中だから、ぐっと我慢した。


「祖父から逃げたところで、俺は後悔してつまらない人生を送っていただろう。厳しいが、祖父のことは敬愛していたし、期待に応えることで喜んでもらえていた。それができないからと祖父が俺を見捨てやしないのに、恥ずかしながら俺は勉強ができなくて泣いていたんだ」


 随分と、グウィオンは芯の強い男の子だったようだ。私がそんな一言を言わなくたって、自分で立ち直り、祖父といい付き合いができたに違いないが——恥ずかしい一面を知られてしまって、私に弱味を見せてしまったと思っているのかもしれなかった。


 そんなこと、弱味でも何でもないのに。


「それから十年だ。俺は商会を継ぎ、結婚相手を探すような年齢になった。そこで、俺は祖父に頼み、お前を探したんだ。セラフィーヌという名前で、交易都市マディールにいた娘を探したところ、あっさり見つかった。だが、そこからが難関だった」

「どうしてですか? フィオレ侯爵家が……何か失礼なことを?」

「書類上、交易都市マディールにいたのはお前の姉マルグレーテだったんだ。セラフィーヌがそこにいるはずはない、何かの間違いだ、と言い張られて交渉が長引いた」


 急に話の雲行きが怪しくなってきた。別段、私は公に隠されているわけでもないし、姉の影に隠れてしまうことはあっても、出不精な姉よりは外に出る機会が多かった。その言い訳は大分苦しいが——父フィオレ侯爵の思惑は、何となく予想できた。


 大商会の跡継ぎが自分の娘をもらいたいと言ってきたなら、貴族としてやることは一つ。いかに値打ちを上げて、高く売り抜けるか、だ。


 父はグウィオンがフィオレ侯爵家の娘を欲しがっているのは、平民からズムウォルト子爵家を継ぐ新興貴族として由緒正しい貴族の血統を欲しているからだ、と言っていたが、やはり実際には違っていた。グウィオンは『フィオレ侯爵家の娘』ではなく『セラフィーヌ』を花嫁として迎えたかったのだから、あの日結婚相手の記してある封筒を選ばせたのも、それらしく私に思い込ませるための芝居でしかなかったのだろう。


 だんだんムカっ腹が立ってきたが、深呼吸して落ち着こう。しかし、グウィオンの証言によってさらに腹の立つ実家の振る舞いが明るみになる。


「結局、大金を積んでお前の結婚相手候補になったわけだが」

「……大変、申し訳ありません」

「いや、気にするな。だが、あいつらは許さん! フィオレ侯爵もだが、取り次ぎの使用人やら執事が毎回毎回、連絡を取るたびに散々賄賂を要求してきてだな!」


 ほら見ろ、やっぱり。


 もう私は天を仰ぎたくて仕方がない。


 貴族のくせに、貴族に仕えるくせに、なんと金にがめつく卑しいのか。忘れたくても忘れられないほど無様で、グウィオンに対し無礼千万だ。


 そんな私の気落ちを察したのか、グウィオンは話題を変える。


「まあいい、済んだことだ。とにかく、俺の存在をお前に知らせたかった。結婚相手候補でもいい、選択肢に上がるなら。お前が俺か誰かを選ぶことになれば、必ず俺を選ぶだろうと信じていたからな!」


 臆面もなく、グウィオンは謎の自信を全面に押し出す。私が選ばなかったらどうする気だったのだろうか。


 ん? 『選ぶ』?


 はて、と私は引っかかりを覚えた。


 考え込む私を見て、グウィオンは「結婚は嫌なのか」と誤解してしまったようだ。


「そんな顔されても、俺はただ」

「あ、いえ、あなたの思いの丈は伝わりました」

「そ、そうか!」

「なので、結婚するのは問題ありませんけど……ひょっとして」


 そう、ひょっとして私が『選ばなかった(ことにされた)』ほうは、どうなったのだろう。


 私は色々なことを『選んだ』。その結果が、グウィオンとの再会と、望まれての求婚、私も満更でもない結婚承諾だ。


 私は私にとっていい選択をしたつもりだ。


 好きなアクセサリも、真面目で優秀な家庭教師も、新調したドレスも、姉が自ら選ばず、私に『選ばせて』から横取りされることが当たり前だった。今まで私が『(姉に)選ばされた』ものは、すべて姉の手に渡った。


 つまり、私が最初に『選んだ』ものは——私が『選んだ(ことにされた)』ものは、結果的に私の手にやってきて、結果的に私は失敗しても糧が得られたり、意外と愛用したり、悪くない結果を得られた。


 しかし、姉はどうだろうか。——今頃、姉マルグレーテは自分で『選べている』だろうか?


 いや、そもそも姉は『選んでもらった』ことばかりで、自分で『選んだ』ことはない。


 公爵夫人ともなれば、そんなことは許されないだろう。




 無益だ、考えるのはよそう。私は思い浮かびかけた家族の顔を頭から消し、グウィオンの手を強く握った。







 ところ変わって、アレジア地区から遠く離れた首都。


 中心部にある王の居城からほど近く、高位貴族の邸宅が立ち並ぶ地域は、尖塔と階段で構成されている屋敷が多い。ほとんどの貴族は百年二百年とそこに留まり、たまに新しい貴族が台頭してきて無理やり住居を設けようとする、その繰り返しばかりだったため、邸宅は密集して常に過密状態だ。改築するには地下か、さらに建物を高く築いていくしかない。


 バルフォリア公爵家の邸宅は、二十以上の尖塔の生えた屋敷だ。階層にして五階以上あり、地下も倉庫や武器庫が広がっている。


 夕暮れどき、宮廷から帰ってきた若き宮廷武官長ことバルフォリア公爵家嫡男バートラムは、階段を昇る音が全体に響き渡るほど怒り心頭だった。


「どういうことなんだ、マルグレーテ! 舞踏会の準備をしておけと言っただろう! 君は本当に何もしないんだな!」


 談話室にやってきたバートラムを、マルグレーテはソファに座ったまま、首を傾げて出迎える。貞淑な妻をやっているつもりだが、立ち上がって夫を迎え、ねぎらいの言葉をかけることすらしない。したことがないからだ。


「そうおっしゃられましても、私はそのようなことをしたことがありませんから」

「なら、今からでも侍女たちを使ってやっておかないか!」

「でも、あの方たちったら私の悪口を言うのですもの」


 承諾するどころか言い訳と口ごたえをするマルグレーテを、バートラムはもうどうすればいいのかと苛立っていた。


 バルフォリア公爵家へ嫁いできたマルグレーテだが、本当に何もしない。何かをしておけ、と言われても、どうすればいいか分からないため、ただ静かにソファに座っている。


 数日前、バートラムが舞踏会用のドレスを選んでおけ、とマルグレーテに言いつけたのだが、マルグレーテはまったく動かなかった。明日、城で開催されている舞踏会に夫婦で出席しなければならないのに、マルグレーテは焦りもせず、ただ首を傾げている。


 その理由を、バートラムが知る由もない。想像だにできない。まさか今まで全部父親が決めてくれて、妹に選ばせて、使用人たちが先回って動いてくれたから自分は何もしないのだ、しなくていいのだとマルグレーテが信じているなんて——それに、マルグレーテもそんな話は一切しない。余計なことは言わなくていい、と本気で思っている。


 ここは生家ではなくバルフォリア公爵家で、次期女主人であるマルグレーテはそれ相応の態度を取らなければならず、バートラムを支えて自ら最善の行動を取らなければならない。使用人たちも他人同然で、信頼関係を築く必要がある。


 それらの義務と責任を、マルグレーテが思いつくことはなかった。もう貴族令嬢として最大の責務、バルフォリア公爵家(いい家柄の男性)へ嫁いだのだから、自分の仕事は終わったとさえ考えている。


 だから、夫婦で話し合いなどできるはずがなかった。バートラムは対話を諦め、一方的に命じることしかできないと思いつつも、一応は説明する。


「いいか、マルグレーテ。宮廷武官長の妻なら舞踏会に出るのは当たり前、そのために事前にしっかりドレス選びをしておかなくてはいけないんだ。君の恥は私の恥だと心得ろ、それに昨今では無教養な女性は嫌われる。国際情勢や政治の話についていけるだけの知性を持ち合わせてほしい。我が国を取り巻く環境は厳しいんだ、公爵家でさえも気を抜けば没落しかねない」


 マルグレーテは顔色一つ変えず、要領を得ない返事をする。


「はあ……分かりましたわ。なら、私のために、選んでくれる方をつけていただけます?」

「選んでくれる? 助言者がほしいのか?」

「ええ、私の代わりに選んでくれる方を。私はそれに」

「ちゃんと従うんだろうな? くれぐれも、馬鹿を晒すことだけはやめてくれよ」


 ええ、はい、とマルグレーテの生返事を耳にしたくないバートラムは、さっさと身を翻して去っていく。


 使用人たちも、マルグレーテが動かない理由に使われて、いい思いはしない。主人たるバートラムのため、そそくさと談話室から出ていく。


 数週間前に嫁いでからというものそんな様子で、マルグレーテがバルフォリア公爵家に馴染めるはずはない。自分の代わりに選んでくれる者をほしがったのも、助言されれば動くわけではなく、自分にとって楽で、よりよい選択肢を選ぶためだ。


 バートラム? バルフォリア公爵家? それは自分が考えられる範囲を超えているから知らない。それがマルグレーテの認識だ。


 ひとけのなくなった談話室で、マルグレーテはやれやれとため息を吐く。


「はあ。こんな結婚、いらないわ……」


 自分に何かやらせないでほしい。自分に『選ばせない』でほしい。


 私はもうやるべきことはやったわ。


 これ以上、何をしろと言うのかしらね。


 マルグレーテの懊悩は、バートラムがまもなく公妾を作るまで続いた。








 冬の訪れ前に、グウィオンの祖父に会うため、私はアレジア地区から離れることになった。


 となると、いくつもやることがある。


 屋敷に逗留しているグウィオンは、キッチンで夕食を作っていた。普段から自炊していたため、なんでも作れてしまうのだ。それに、収穫期後で休みたい農夫たちや女性たちの手を煩わせないよう、我が家は使用人を雇っていない。遊びに来る人々が食材を置いて行ったり、屋根の修理をしたりと色々やっていくが、ちゃんとグウィオンが食事をご馳走して、なんやかやと世話を焼いている。


 来年に向けて、教わったブドウ収穫用のツルの編みかごを床に座って作りながら、私はオーブンのアップルパイの焼け具合をしゃがんで見張っているグウィオンへ話しかける。


「グウィオン様のお祖父様は、どんなものがお好きでしょう? たくさんお土産を用意しておかないといけませんね」


 すると、グウィオンはオーブンの窓を少し開けて、顔を反らさず、苦々しげにこう言った。


「ああ、今度こそ鼻を明かしてやらないとな。アレジアワインだけじゃなく、最高級猪肉ハムとソーセージも叩きつけてやる!」

「お年を召していても健啖家なのですね」

「あんなに好き嫌いなくゲテモノまで食べるのは鯉か熊かおじい様くらいだ……まったく! おかげで美食探しに時間がかかる!」


 プンスカするグウィオンは古びた鉄製オーブントングを握っていた。ミトンは私が焦がして炭にしてしまったからだ。


 アップルパイ内のカスタードクリームが熱されて、バニラの香りがキッチンから漂ってくる。グウィオンが作るアップルパイは、二層のアップルフィリングと三層のカスタードクリームをパリッパリのパイ生地で包み込み、中はしっとり、外はサクサクなのだ。格子模様の表面は濃いきつね色で、一ピースを切り分けてお皿に盛り、採れたて脂肪分たっぷりの牛乳から作ったホイップクリームを好きなだけ載せ、半分溶かしていただく。


 こんな絶品アップルパイをグウィオンは苦もなく作り、毎日の仕事の合間に料理の下ごしらえから完成まできっちり定刻どおりに仕上げてしまうのだから、私の出る幕はないに等しい。しかし私も料理が作りたいと主張すれば、何を差し置いても手伝ってくれる。


 できた人だな、と思うと同時に、プンスカとオーブントングを振り回す姿は子どもっぽい。ただ、そこが可愛いと最近は私も思えてきた。


 ああ、何だったっけ、グウィオンの祖父へのお土産だ。


 私は、すぐそこにいいものがあるではないか、と気付いた。


「では、グウィオン様のアップルパイを召し上がっていただくのは?」


 意表を突かれたのか、グウィオンは驚き、悩み、怒り、何かをひらめき、喜ぶと表情を七色に変化させ、それから指を小気味よく鳴らした。


「それは……いや……なるほど! 悪くない! そういえば、おじい様は俺の手料理は食べさせたことがなかった! いい案だ、さすがだフィーヌ!」

「ふふ、よかった」

「よし、孫の手料理で感涙に咽び泣かせてやる! 今に見ていろ!」


 勢い余って立ち上がり、やっとオーブントングをテーブルに置いたグウィオンは、何か悪戯を思いついたとばかりの顔をしている。何か企んでいる、分かりやすい。


 案の定、キッチンから顔を出したグウィオンは、私へこんな提案をした。


「お前も作らないか?」

「私は、料理はまだまだ下手ですもの」

「いいんだ、孫の手料理なんだから、お前のものも含まれる。ふふふ、下手に批評すればフィーヌの悪口になると知れば、あのおじい様も迂闊に大口を叩けまい!」


 やっぱりそんな下らないことを企んでいた。グウィオンの割としょうもないところである。


 しかし、思いつきに喜ぶ背中を見てしまっては、私も咎められない。キッチンに取って返し、それからグウィオンはまた戻ってきた。


 その手に、カスタードクリームの載ったスプーンを持って。


「フィーヌ、カスタードクリームの残りだ。あーん」


 編みかごから手が離せない私は、鳥のヒナのように口を開ける。


 差し出されたカスタードクリームを、パクリ、と口の中に入れ、味わう。スプーンを引いたグウィオンは、どうだ? と自信たっぷりの顔をしているが、実にいい塩梅の甘さはグウィオンの腕と舌の確かさを証明している。


 カスタードクリームを飲み込んで、私は自然と微笑んでいた。


「美味しい」

「だろう! 俺は何でも完璧にこなせてしまうらしい! はっはっはー!」

「そのすぐ調子に乗るところはお祖父様の遺伝だったりしませんか?」

「断じて違う。調子に乗ってない。うん」


 今のは調子に乗ったから咎めたわけだが、怒らずに私の言い分を聞いてくれるからいいとしよう。


 編みかごのツタの先を処理して、私は一つ伸びをする。朝からずっと作った編みかごが、部屋の隅に三つほど積まれていた。あれにベルトを付ければ、農夫たちはたくましい背中に編みかごを背負ってアレジアワインの原料となるブドウをせっせと収穫できるようになる。よくブドウの糖分たっぷりの汁のシミで腐って虫が湧いたり、ネズミに噛まれて穴が開いたりするし、修理するより新しく作ったほうが清潔で早いからとアレジア地区では毎年のように作っておくのだそうだ。


 そのほかにも、グウィオンはまだ何かあるらしく、咳払いしてから——重々しくこう言った。


「それと、ズムウォルト子爵領はこのまま廃止して、アレジア地区として商業自治区の一種にするよう宮廷へ働きかけることにした。だから、当初の約束とは違ってお前は貴族の夫人にはなれないが、それでもいいか?」


 それはおやつの前に言うような軽い話題ではない。


 大体の事情は、私も承知していた。元々、グウィオンは貴族令嬢である私を迎えるために、ズムウォルト子爵家の継承権を買い取ったのだ。アレジア地区のためにもなると思ったのだろう。


 しかし、ズムウォルト子爵領の内情、国際情勢、商会としてできることを総合的に勘案した結果、もはや貴族の特権の下にいれば安全ということはないと判断したのだ。このあたり、情報が速く、政治や流行に敏感な商人としてのグウィオンの才覚がものを言ったのだろう。


 その話を直接されたことはないが、私もグウィオンの仕事を手伝っているのだ。そのくらい、耳に入っている。だから、別段驚きも何もなく、私はすんなり受け入れた。


「ええ、まったくかまいませんわ。子爵領のままでここの人々が守れるならともかく、余計に税をかけたり、他の貴族にちょっかいを出される理由になるくらいなら、そんなものは必要ありません」


 私の快諾に、グウィオンは私の前へ座り込むと同時に、胸を撫で下ろしたようだった。


「そうか! その代わりと言ってはなんだが、何でもほしいものは買ってやるぞ! 何がほしい? それとも旅行に行くか?」


 微笑ましいほどはしゃぐグウィオンへ、私は本音ついでに落ち着かせる。


「すぐには思いつきませんから、まずは結婚式を挙げてからにしましょう」

「そうだな! お前がそう言うのなら……でも甘やかしたいからわがままは言ってほしい」


 グウィオンも本音がダダ漏れだ。


 なら、私はこれを『選ぶ』。


「でしたら、アップルパイと一緒に、紅茶をいただきましょう。きっと合いますよ」



(了)


全然関係ないけど「ズムウォルト」で検索すると面白い船が見られます。サイコー。


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[一言] お姉様 血筋の良い子を産むためだけに存在する人になって 産んだあとも全て乳母に任せて 日がな一日 ぼーっと庭を眺める人になっていそう 選ばないから高価なドレスや貴金属を夫に強請る事もなく、…
[良い点] 自ら「選んだ」幸せいいですね 「選ばせていた」がわの怠慢感がすごい… [一言] ズムウォルト、変な形のミサイル駆逐艦っすよねー ステルス考えると船ってダサくなるんだなと思ったあれ…
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