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狂信 ~入念な下準備~

「――いっ! おい、こらっ! 起きろっ!」


 隣から響き渡る女性の叫び声と肩の痛みに、私は思わず目を見開いた。


「ったく! アタシがこうして頑張ってんのに、いいご身分だな、えっ!?」


……どうやら、移動の途中で眠ってしまったらしい。私は隣で怒りの形相を浮かべる鬼島警部に謝罪して車窓越しに周囲を観察した。

 車道を行き交う車…ビルの明かり…それらの光に隠れるようにして、うっすらと浮かび上がっている『警視庁』の文字…どうやら、彼女はちゃんと目的地まで連れてきてくれたようだ。

 私は彼女に礼を言って、車を地下駐車場まで動かすように言った。


「…ちっ、分かったよ……」


 鬼島警部はなおも不満な様子で――しかしちゃんと、私の言うとおりに車を発進させる。

 地下駐車場まで行って彼女が適当に車を停めた後、私は尾行がついていないか念のため出入り口を見張る……。


「尾行ならいないと思うぜ。ここまで来た時にも、特にそれらしい車とかは見当たらなかったからな」鬼島警部は言った。

 私は再度彼女に礼を言って車を降り、そのまま警視庁の地下施設に向かう。

 だが、わたしが向かうのは普通の場所とは違い、専用のカードキーと暗証番号、生体認証が必要な地下施設だ。もっとも、その場所は普通の場所と空間を同じくしているため、見つけようと思えば見つけられる。一般の警察官や刑事なら、行く理由もなければ見つける必要もないだけだ。

 そのまま鉄製の扉を通って地下の廊下を行き、『資料保管室』という看板が掲げられた扉を開ける。


「あ、神牙さんに警部。お持ちしてました」

「ふむ、なんとか、無事だったようだな」


 見慣れた室内にいたのは、鳴海刑事と大倉刑事だった。二人にはこの潜入調査が始まってから、主に後方支援を頼んでいる。私が彼らに労いの言葉をかけると、彼らは少しだけ照れ臭そうにした。

 私はそのまま、今回の調査に関する資料を要求する。すると、二人はすぐにファイルを手渡してくれた。そして、私達は四人でそのファイルを開いて中を確認していく。


「……こりゃ、随分と面倒なことになってんな…」


 最初に口を開いたのは、鬼島警部だった。ファイルの中には、私達が潜入することになった複合施設『サルス』に関する内容だった。

 それらをざっと見た限りでは、黒石や高梨が言っていたように、あの施設は精神疾患を専門とした医療及び研究施設のようだ。実際に、いくつかの精神疾患に対する治療薬の特許を持っており、それなりに収入もあるらしい。と言っても、まだまだあの施設の運営には資金が足りないのか、寄付もつのっているようだ。

 私は一瞬、この寄付をした組織や企業の背後関係に対して鳴海刑事達にさらに調査を依頼しようかと思ったが、すんでのところでやめた。私が『その者』に連絡して調査してもらった方が早いだろうし、彼らを危険に巻き込ませずに済む。

 私はそのまま資料を読み込んでいく。

 まず、あの施設の設立者は高梨が言っていた通り、彼女の祖父だった。名前は高梨たかなし幸久ゆきひさ。彼は元々若い頃に精神科医として他の病院で働いており、そこで様々な患者の治療に当たっていたらしい。だが、ある日突然、彼が勤めていた病院から失踪してしまっているのだ。

 その後、彼の行方は掴めず仕舞いだったが、その数年後にあの施設が設立されたらしい。施設の院長として彼の名前がある。

 また、彼に関して気になる点がいくつかあった。一つは彼の妻についてだ。資料によれば、妻は夫である高梨が失踪した後、行方不明になったらしい。そして、今も見つかっていないとのことだ。

 他にもいくつか調べたいことがあったが、それは今度時間があるときにでもしよう。今はとにかく、先へ進むべきだ。

 私は資料を閉じて、今度は別のファイルを開く。その中には、施設の地図が入っていた。


「あの施設を建設した会社を訪ねて、この地図をもらいました。思いのほか、すんなり渡してくれて助かりましたよ」


 鳴海刑事は、はにかみながら言った。だが……あの施設を建設した会社となれば、当然『組織』の息がかかっているに違いない。それにも関わらず令状もなしに設計図を渡してくるということは……どうやら、『組織』は本気で『サルス』を潰そうとしているようだ。私と鬼島警部は早速、その地図を元に作戦を立てることにした。

 と言っても、突入作戦のような派手なものではない。基本的には、あの施設に通いつつも状況証拠、出来れば物的証拠などを収集し、『その者』と連絡を取り合いつつ『サルス』を壊滅させるやり方だ。

無論、こちらが危なくなれば躊躇ちょうちょなく実力行使して、あの施設を制圧する。そのためにも、私は今一度施設の設計図にある構造を頭に叩き込んだ。そして、鳴海刑事達に礼を言った。


「いえ、これが仕事ですからね」

「それにしても……まぁ、神牙ならばともかく、警部殿もいるとなると――」

「あっ!?」

「ひぃっ!?」


……私は大倉刑事に対して、鬼島警部はかなりうまくやってくれていると伝えた。


「そ、そうなのか? な、ならば、いいのだが……」

「ったりめぇだろうがっ! てめぇを送り込むより、よっぽど説得力があんだよっ!」


……本人にそこまで言われると違う気もするが、今は言わないでおく。

 そして、私達は今後も調査の継続と定期的な会合を開くことを確認してその場はお開きとなった。

 私と鬼島警部は再び車に戻って、仮初かりそめの家であるアパートまで戻る。その間、鬼島警部は終始不機嫌そうな表情を浮かべていた。私は苦笑しつつ、彼女に話しかける。


「……ふん……アタシだってな、好きでこんなことやってんじゃねぇんだぞ?」


 私はそのことについて、十分に理解していることと、これまでの苦労に感謝を伝えた。私が言うと、彼女は少しだけ驚いたような顔をした。


「……おうよ。わかりゃ、いいんだよ……」鬼島警部は満足げに鼻を鳴らした。

「にしても、あらためて、ウチらの上――『組織』、だっけか? やべぇな……」彼女は唐突にそんなことを言う。

「あそこ、田舎つったって都内でも一等地になる場所だろ? そこにあんなばかでけぇ施設建設してずっと維持しながら研究開発もって……どんだけ金あんだよ」


 確かに、彼女の言葉はもっともだ。実際、あの施設の建設には億単位の費用がかかったはずだ。それを高梨幸久のたった一代で成し得るのは、並大抵のことではない。当然、『組織』の資金援助があったことだろう。

 その資金がどこから来ているのかは……今は置いておこう。考えるだけで知恵熱が出そうだ。それから私達を乗せた車はしばらく走り続け、私達はようやく目的地に到着した。


「よし、着いた。もう寝ようぜ。明日も『自殺未遂を図ったヤンキー』にならなくちゃいけねぇしよ…」


 確かに…私も『なんらかの精神疾患を患ったボサボサ・ボブカット三つ編み』を演じなければいけない。慣れない分、余計に体力を使うことになるだろう。私は鬼島警部の言い分に納得すると、車を降りた。

――そのまま部屋へと戻り、身支度をしてベッドに横たわる。そして、目をつぶった……だが、私は眠ることができなかった。

……数十分ほど経った頃に、私はベッドから起き上がって窓辺に立つ。

……窓から見える夜景はとても綺麗だった。だが、どこか寂しげに見えるのは、私の心が荒んでいるせいだろうか?

 私は小さくため息をつくと、そのままベランダに出て外の空気を吸うことにした。


「おい、何やってんだ?」


 声をかけられたので振り返ると、そこには鬼島警部がいた。

 私が眠れないと答えると、彼女も隣に来て同じように外を見る。


「奇遇だな。アタシもだよ」

「……」

「……」


 そして、沈黙が流れる。私は何を話せばいいかわからず、困ってしまった。


「……ま、頑張ろうぜ」


 そう言って、鬼島警部は私の肩をポンと叩いてベッドへ戻っていった。


(頑張る……か)


 私は彼女の言葉を噛みしめながら、再び空を見上げた。雲一つ無い夜空だ。月明かりがとても眩しく感じる。私はしばらくそこでたたずんでいたが、やがて眠気が襲ってきた。

……今日は色々とあった。明日からはその日常に『忙しい』と『命がけ』という文言が入る。今のうちに休んでおかなければ……。

 私はそう考え、薄暗い部屋の中へ戻った。


                       ※


 翌日、私と鬼島警部は日が昇り始めた早朝から車で『サルス』の施設へ向かっていた。無論、潜入調査のためだが、ひとまずは施設の外観をザッと調べておきたかった。

 鳴海刑事達が持ってきてくれた施設の設計図は大変役に立ったが、やはりちゃんと自分の目で実際の状況を照らし合わせて置くべきであろう。特に、今回のような潜入調査ではなおさらだ。問題がなければ、それでいいのだから。


「なぁ、そういやさ……」ふと思い出したように、鬼島警部が口を開いた。

「ウチらが『サルス』を潰すネタを掴んだとして、例の『組織』って奴ら、どうするんだ?……やっぱり、殺すのか?」


 私も詳しくは知らない。ただ、今までの経験則から言えば、おそらくは――。


「ま、そっか。そりゃ、そうだよな……」


 私が答える前に、鬼島警部の中では結論が出たらしい。彼女はそのまま黙々と車を運転した。

 そして、しばらくして車が目的の施設の前に着いた。


「……着いたな。どうする?」鬼島警部は緊張した面持ちで言う。


 私は車窓越しに周囲を警戒し、監視カメラや見張りの人間などがないことを確認してから、彼女に対して周囲を偵察してくると言った。


「わかった。見つかったら、アタシが散歩させてたってことにしようぜ」私は彼女の言葉にうなづいて、車を降りる。

「気をつけろよ……何かあったら、すぐに連絡しな」


 鬼島警部のその言葉に、私はハッとして立ち止まった。このまま鬼島警部をここに残していくのは、少し危険なように思える。幸い、『その者』からもたらされた情報によれば、この施設の警備員や職員などにはたいした戦闘力はないらしい。そこで私は、鬼島警部に一度アパートに戻るように言った。


「は? なんで?」首をかしげる彼女に、私は説明した。


 まず、鬼島警部が忘れ物をしたということにして本当にアパートまで戻り、自室で三十分ほど過ごしたのちにまたここに戻ってくる。その間、私はジッとしているようにという鬼島警部の言いつけを破って施設の周囲を散歩する。もちろん、この散歩は偵察という意味だ。

 そして、成果があろうとなかろうと、三十分後には必ずここで鬼島警部と再び合流して施設に通院する。私がそのことを話すと、鬼島警部は少し考え込んでから言った。


「……まぁ、そっちの方が、アンタは気兼ねなく動けるか。分かった。それじゃ、三十分後にな」


 私が首肯して車のドアを閉めると、車はエンジン音を上げて駐車場から走り去っていった。

……そして、その姿が見えなくなってからしばらくしても、私はその場にジッとしていた。時折を周囲に視線を向けるが、それなりの数の車が駐車場には停まっているにもかかわらず、特に誰かが出迎えてくる気配もない。

 私はそのまま数分ほどその場をウロウロした後、散歩という名の偵察を実施した。

 施設の周囲はコンクリートの壁とフェンスで囲まれており、出入り口は私達が通ってきた一つだけだ。

 とりあえず、私は門から離れた場所から施設の外観を観察するが、最初にザッと見た時に比べて、大した変化はない。

 私は施設の観察を早々にやめて、今度は建物の裏手の方へ回った。こちらも同様に施設の周囲を壁に囲まれていた。というより、この施設がある敷地一帯が壁に囲まれているのだろう。

 建物の方は正面側に比べて窓などの露出が少なく、おそらく職員用のものと思われる頑丈な鋼鉄製の扉があった。見たところしっかりと施錠されているようで、開くことはできないようだった。私がやろう思えば出来なくもないだろうが……一応、緊急時の対応として頭に入れておこう。

 続いて、私は敷地の外周に沿って歩いてみた。塀は高く、常人ならば乗り越えることはできそうにない……『そういった存在』への対策が施されていないことから察するに、この施設ではあくまで普通の人間を相手にしているのだろう。ふと、私の脳裏にサキやタルホ達の姿が思い浮かんだが、この施設も同様に『組織』のくだらない実験が行われている施設には違いない。気を抜くのは厳禁だ。

 私はその後もしばらく敷地内を歩き回り、いくつかのことを確かめておいた。まず、監視カメラの存在。これは、私の予想通り、あちこちに設置されていた。位置関係としては、建物を中心に放射線状に十二台ほどのカメラが設置されている。そのため、施設の外はともかく、この塀の中を歩いているところは丸見えということになる。

 次に、出入り口の鍵について。と言っても、特筆すべき点は見当たらない。しいて言えば、この施設で使われている鍵は複製が難しいタイプというくらいだ。おそらく、マスターキーなどもないだろう。『組織』の危機管理プロトコルに従えば、この施設は職員がそれぞれの役職に応じて支給された鍵で、出入り口の管理をしていると考えた方がいい。ちなみに、この施設のセキュリティレベルは、私が調べた限りでは一般的なものより少し高い程度だということが分かっている。『組織』の関連組織の施設としては、かなり手薄な方だ。

 最後に施設の警備体制だが、こちらも拍子抜けするほどザルであった。確かに、施設の周りは高い壁とフェンス、そしておそらく一般的な電子機器を無力化する装置に囲まれているが、見張りの人間は誰も見当たらなかった。もちろん、私に気配を悟られずに監視している場合は別だが……少なくとも、今はそれらしい気配は感じない。いざとなれば、私一人でも十分に対処できるレベルの警戒態勢であることが分かる。ただ……鬼島警部がそばにいた場合は、話は変わってくるだろう。まぁ、その時はその時で考えるしかない。

 私は調査を終えると、いったん駐車場まで戻った。その後、鬼島警部が運転する車は三十分より少し早く到着した。私はさりげなく車に乗り込む。


「どうだった?」


 開口一番、鬼島警部がそう聞いてきたので、私は偵察した内容をそのまま彼女に話した。

 私が話し終えると、彼女は腕組みをして小さくつぶやくように言った。


「それで、これからどうする? これ以上は時間も引き延ばせないだろ。思い切って行ってみるか?」


 彼女の言うとおり、あまりここで時間を浪費すると、それだけ怪しまれてしまう…潮時だろう。私は鬼島警部に、目の前の施設に行くことを告げた。


「おう……」


 鬼島警部はそう言って車のエンジンを切り、私と共に車を降りる。そのまま、施設の正面玄関へ向かった。

 私達はそのまま玄関を通って昨日と同じように受付に行き、そこに座って書類仕事をしていた女性に話しかけた。


「はい?」


 応対してくれたのは、昨日会った黒石とは別の職員だった。私が通院の予約があることと氏名を伝えると、女性は『少々お待ちください』と言ってパソコンのキーボードを叩いてしばらく黙り込み、柔和な笑みを浮かべる。


「神牙さんと鬼島さんですね。あちらの待合室でお待ちください」


 女性が指し示す先には、数人の男女が座る長椅子が三つ置かれた空間がある。昨日も高梨に案内されて見たが、まるで病院の待合室だ。私達は言われるがままにそちらに向かう。

 すでに何名かいる、おそらく通院患者と思われる男女の視界になるべく入らないようにして、私達は一番奥の目立たない、それでいて空いている席に座り、他の人達の様子を観察する。年齢は二十代から五十代の男女が入り混じっているようだ。服装はまちまちで、ラフな格好をしている人もいれば、スーツ姿の人もいる。しかし、全員に共通することは、誰もが憂鬱ゆううつな表情をしていることだ。かくゆう、私と鬼島警部もさっきからずっと、そのような表情をしている。これがなかなかつらい。

 私達がそのまま観察を続けていると、しばらくして診察室の扉が開き、中から高梨が現れた。彼女は手に持ったカルテらしきものに何か書き込みながら、こちらへ向かって歩いてくる。そして、私達の前まで来ると立ち止まり、口を開いた。


「こんにちは。今日はよろしくお願いしますね。では、こちらへどうぞ」


 私と鬼島警部は無言のまま立ち上がり、彼女のあとをついていく。他にも待っている人達がいるのに……どうして、我々に声をかけてきたのだろうか?

 私が警戒しながらも高梨に付いて行くと、彼女は診察室に入り、何度もそうしているであろう仕草で目の前の椅子に座る。


「どうぞ。おかけください」


 高梨はそう言って、机を挟んだ対面にある二つの椅子を示した。


「失礼します……」


 私は鬼島警部と共に指示に従い、彼女と向かい合う形で椅子に腰を下ろした。


「まずは、改めて自己紹介させていただきます。私は高梨精神医学研究所並びにこの複合施設『サルス』において、所長と院長を兼任しています高梨叶です。本日はよろしくお願いいたします」


 彼女が丁寧に頭を下げると、私は慌ててそれにならう。


「……ふふ、ごめんなさい。いきなりかしこまった挨拶をしてもしょうがないですよね?

 神牙さんと鬼島さんは…元々同じ職場の同僚で、上司のパワハラが原因でお二人ともうつ病と診断されていますね」

「はい……」私も鬼島警部にならって同じように返事をした。


 もちろん、これらの設定はすべて嘘だ。我々が『その者』と協力して、なるべく高梨の目に留まりやすいプロフィールを作成し、その設定に基づいて潜入調査を行っている。

 プロフィールを作成する際、我々の職場は『組織』と関係のある職場で、うつ病と診断した病院も同じく『組織』の息がかかった複合病院だ。ここまですれば、こちらがヘマをしない限りは高梨も疑いの目を向けてこないだろう。せいぜい、新たな被検体候補と考えるはずだ。

 案の定、高梨は手元のカルテから目を離して弱者に向けるあわれみの視線を私達にこれでもかと浴びせてくる。


「お辛かったでしょう……あなた方のように真面目な人ほど、一度心が折れてしまうと立ち直りにくいものです。特に、神牙さんの方は本当に辛かったと思いますよ……」


 高梨はそう言うと、今度は同情するような目つきになる。


「鬼島さんも、大変でしたよね……私にはあなたの気持ちがよく分かります。あの会社、聞く限りひどいところですもんねぇ……」

「いえ、そんな……」


 鬼島警部は高梨の言葉を受けて、少し照れくさそうに頭をかいている。

……私は遠慮がちにではなるが、高梨にパワハラを受けた設定の会社について聞いてみた。すると、やはりというべきか、彼女は渋面じゅうめんを浮かべて答えてくれた。


「ああ、あれですか? ええ、そうです。患者さんのカルテなんかを調べていると、分かるんです。それで、最近あの会社から精神的な被害を受けている方が続出しているようで……」彼女はそう言った後、一転して笑みを浮かべた。

「でも、もう大丈夫ですよ。ここに通院したり入院すれば、たいていの患者さんは元気になります。一緒に頑張りましょうね」

「はは、どうも……」


 そう言って鬼島警部が頭を下げるのを見て、私も同じようにする。


「それじゃ、これから少しカウンセリングの説明をさせていただきますね」


 彼女は笑顔のまま、私達に向かって語り始めた。


「先ほども言いましたように、神牙さんと鬼島さんは、現在うつ病と診断されており、これからは通院治療を行っていきます。しかし、それだけでは根本的な解決にはならないんですよ」

「……それは、どういうことでしょうか?」鬼島警部がそう尋ねると、高梨はまた表情を引き締める。

「うつ病だけに限らず、精神疾患は治ったと思ったら再発したり、そもそも治りにくかったり…あるいは、ちょっとした拍子に完治してしまう、大変厄介なものなんです」

「はあ……」

「つまり、神牙さんや鬼島さんのように長期間通院しなければいけないケースもあれば、すぐに良くなって退院するケースもあるということです。これはあくまで一例なのですが……ある女性の場合、最初は軽度のうつ病と診断されて二週間ほどで症状はすっかりなくなり、その後さらに一週間も経つと、もう完全に回復していました。

 しかし、その後も何度か再燃して通院を繰り返していました。それで、病院側が不思議に思って彼女のカルテを確認してみると、重度のうつ病になっていたことが分かったそうですよ」

「そ、それは……すごいですね」

「はい。ちなみに、彼女の場合は仕事上のストレスが原因だったようなのですが、彼女の場合、その前の週には普通に出勤していたことを考えると、ほかにもストレスの源になる体験をしたのかもしれません」

「確かに、不思議な話ではありますね……」

「ええ。こういった事例がある以上、決して楽観視はできないと思います。お二人は、その点についてはどうお考えですか? 何か思い当たる節はありませんか?」

「はぁ……」鬼島警部は首をひねっている。私も同じようにした。


 彼女の言っていることはもっともだが、我々としては正直困ってしまう。ここまでの事態は想定していなかったからだ。私が悩んでいると、鬼島警部がポツリと話し出す。


「思い当たることがあるとすれば……職場の上司との人間関係以外には特に……」

「そうですか…わかりました。でも、安心してください。この施設には、そういった方々も大勢通ってきますから」


 高梨はそう言ってはにかむ……上司とは、まさか私のことだろうか?


「さて、それじゃあカウンセリングの方を始めていきましょうか。まずは神牙さんからでいいですか?」


 高梨は私の名前を呼ぶと、机の上にカルテを置いた。私は彼女に、了承の返事をした……いよいよ、本格的な調査の開始だ。

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