狂信 ~道化の始まり~
「――という感じでまぁ、あくまで通院という感じになりますね」
「……わかりました。よろしくお願いします……」
心地よい温度に設定されたエアコンが効いた室内で、三人の人物が集まっていた。そのうちの二人は、しきりに言葉を交わしている。
「大丈夫。心理的なことなので完治は難しいかもしれませんが、少なくともこれ以上悪化することはないですよ。私も、かつてその一人でしたから、よくわかります」
「ええ、そうですよね……頑張ってみます。ね?」
私の隣に座る女性は、そうやって弱々しく私に問いかけてきた。私はそれをチラッと横目で見て、同じくらいの弱さで小さくうなづく。
「はは、まだ緊張しているみたいですね。もっとも、私も初めての方と会う時は緊張しますけど」
互いに病人のような素振りを見せる二人と机を挟んだ向かい側で、黒い長髪を丁寧に結った女性は遠慮がちに笑う。彼女は控えめな私服の上に白衣を着ており、それだけでなんらかの医療関係者だと理解できる。
柔和…清廉…そのような言葉が擬人化したような女性の向かい側の二人は、打って変わってあまり調子が良くなさそうに見えた。
地方都市にいるようなヤンキーがそのまま大人になったような風貌をした女性は、今にも泣きだしそうな表情で向かいの女性に向かってボソッと呟く。
「すみません…気を付けます……」
「ふふ、大丈夫ですよ」
そう言って、すでに数千回は繰り返してきたであろうセリフを白衣を着た女性は言い放った。
「それじゃ、続きは明日になります。一緒に頑張りましょうね」
「はい…どうぞよろしく……」
白衣を着た女性の言葉を受けて、ヤンキー風味の女性は隣に座るもう一人――中性的な顔立ちと体格をしている人物に立つよう促す。と言っても、高圧的に命令するのでもなく、そっとその人物の肘に手を添えるだけだ。
「……」
その人物も、女性のそれだけの仕草で心得たとばかりに無言で立ち上がる。肩まで伸ばしたボブカットの髪はボサボサで、後ろの肩甲骨の辺りまで伸ばした一本の三つ編みも、けば立っている。
三人はそのまま部屋を出て少し廊下を歩き、玄関から外に出る。同時に、外の世界で吹きすさぶ厳しい北風の洗礼を受けた。
「寒いですねぇ……お体ご自愛下さい。体が資本と言いますから」
「ええ、どうも……」
白衣を着た女性に見送られて、二人はその施設――住宅を後にする。周りには似たような大き目の一軒家が連なっており、この辺りの土地が高級住宅地であることをこれでもかと見せつけてくる。
二人は女性が見送りを終えて玄関を閉めても、そのまま変わることのない様子でトボトボとそのような住宅街の道路を歩いていく。
一見する暇もなく、二人の姿や仕草はこの住宅地に似つかわしくないものだが、時折すれ違う近所の住人やベランダで家事をしている住人などは、そんな二人に暖かな視線を送った。
二人はそのまま歩き、近くの駐車場に来て車に乗った。
「……」
「……」
車中の中でも二人は無言を貫き、地方ヤンキー風味の人物が車を発進させる。
無言の二人を乗せた車は、そのまま高級住宅地を後にしてしばらく国道を走行し、やがて景色が普通の一軒家が連なる、いわゆるベッドタウンのような住宅地に来ると、そのまま目についたコンビニの駐車場に車を止める。
『……』
しかし、二人はコンビニの駐車場に車を停めたにも関わらず、コンビニに行くこともなくガサゴソと自分達の荷物を漁り、それぞれ無線機のようなものを手にする。
二人はそのまま車内で無線機を動かしている。ただ適当に動かしているようではなく、ダッシュボードの中や座席の隙間、果ては車外に出て車体の隅々まで無線機のアンテナを向けている。
そろそろ、その光景を目撃した近所の誰かに通報されようかという時になって、二人は無線機のようなものをしまって互いにうなづく。
その瞬間、ヤンキー風味の女性が窒息しそうになったかのように息を吐く。
「ぶはぇあっ!! クソがっ!! マジで気色悪かったぜっ! なぁ、おい。絶対この捜査、鳴海の方が打って付けだろうがよっ!」
……突然のヤンキー風味改めヤンキーの女性の態度が急変したにも関わらず、ボサボサ・ボブカットの人物の様子に変化はない。その人物が沈黙している間も、隣のヤンキーはまくしたてる。
「だいたいよぅ……ウチの部署がいくら特殊だからって、得体の知れねぇ組織の、これまた得体の知れねぇ下部組織を調査しろとか…チッ! 警察を舐めんなよっ!!」
溜まったものを吐き捨てるように叫びながら、ヤンキーはダッシュボードをかなりの強さで蹴り続ける……一応、同僚の車なので構わないのだろうが、その言動は彼女の生来の凶暴さを如実に、これでもかと表していた。
しかし、何を隠そうこのヤンキーもといイカつい女性は、これでも立派な警察官である。
名前は鬼島陽子。階級は警部という、それなりのエリートだ。だが、文言だけを見れば立派に見えても、今の彼女を見て一般人――ましてや警察官とは、誰も思わないだろう。良くて極道者の嫁、最悪どこかの不良の彼女がいいところだ。
「おい、神牙。ちょっとコーヒーでも買って来いよ」
そんな鬼島警部は、パシリ同然に隣の人物に命令する。それを聞いて、神牙と呼ばれたその人物はうなづいて車を後にした。
と言っても、別にその人物は彼女のことが怖くて従っているわけではない。単純にここで物事を荒立てたくないだけだ。
その人物――もといこの私、神牙警視正は、部下である鬼島警部の要求に従ってコンビニの駐車場をトボトボと歩く。
(なぜ、こんなことに……)
私はそう考えた。そう、私も鬼島警部と同じ気持ちだ。つまり、このような潜入調査は頻繁には受諾しない。だが、何事も例外はある。そう、あの時の『その者』からの申し出のように……。
※
『潜入調査?』
『そうだ。ぜひとも君達にやってもらいたい』
ある日、それほど珍しくもない平和な日常業務に励んでいた私のもとに、『組織』の連絡員兼アドバイザー的な存在の『その者』から連絡がきた。
『どういうことだ?』
通常、奴とのやり取りは非常に高度な暗号化措置が施された専用のタブレットで行う。この日も同じようにそのタブレットで『その者』とやりとりをする。
私が送信ボタンを押して少し経ってから、『その者』から返信がきた。
『実は、ある施設…というよりグループと言った方がいいのか…とにかくその集まりに潜入してほしい』
『そんなあやふやな情報しかないのに、私達を潜入させるつもりか?』
私はそれなりに怒りの感情を込めて送信ボタンを送った。『その者』に伝えたところで無駄なのだろうが、こちらもストレスを軽減させる必要がある。
『まあ、落ち着け。その施設というのが少し厄介なんだ。なんせその施設…というかグループ…というか…まぁ、とにかく本来そこは、我々組織の下部機関として機能していたんだ』
……ホント、今すぐこのタブレットを叩き割ってやりたい。はっきり言って、私にはそれを可能とする身体的能力がある。
『それで?』
『その…この際、組織における都合を優先してその施設を研究所と呼ばせてもらうが、少し前からそこで奇妙な動きが確認されるようになった』
……残念ながら、こういった事態は我々オモイカネ機関も所属している『組織』ではそれなりに起きていることだ。私はそんなことを考えながら『その者』と話を続ける。
『どのように?』
『まず最初の兆候として、その研究所に所属している研究員や職員が、その研究所だけでしか通用しない暗号のようなものを使い始めた。それも、組織で使うものとはまるで違う、独自のものだ』
『独自? それが何か問題なのか?』
確かに、それは組織の内務規定的によろしくないことだが、それだけでそのグループが危険視される理由にはならないはずだ。
『ああ。組織もその件で監査を行った。その結果、その暗号はどうやら外部からの侵入を防ぐためのものだったらしい。それだけなら問題もなかったが、監査の後、その研究所の研究員や職員、挙句の果てには施設の所長までも、我々の監視を逃れるようになった』
……確かに、そこまでやれば『組織』が不審に思っても仕方ない。
『監査というのは、具体的にはどんなことをしたのだ?』
『別に大したことはしていない。施設全体の物理的、霊的な調査、関係者全員の聞き取りだ。もちろん、あらかじめ細工や口裏合わせを防ぐために通告なく行った』
『それで、その研究所の問題点を特定できなかったのか?』
『残念ながら、そうなる。その時は本当に問題がなかったのか、あるいは組織を欺くほど巧妙に隠されていたのか……ただ少なくとも、今はその研究所は限りなくクロと判断している』
『で、その研究所の調査をしろということか……しかし、なぜ私達が?』
私は当然の疑問をぶつけた。
『組織は初め、専門部署にその件を命令した』
『で、失敗したと』
『いや、失敗と言うよりは……その、言いにくいのだが……』
歯切れの悪い回答。おそらく、これ以上の詮索は無用だろう。だが、『その者』は続けた。
『つまり、その部署の部員とは音信不通になった。今も、行方は分かっていない』
『それは、我々の間では失敗と表現されるんじゃないのか?』
そう返信すると…だいぶ悩んだのか、少しの時間をおいて返信がきた。
『その通りだ。上層部としては今回の調査及び解決には君達以上の適任はいないと判断した』
『理由は?』
『君の特殊な経歴と特異性だ』
『つまり?』
『君はその特異な生い立ちや経歴によって多くの異能の力を身につけている。それに君は、いわゆる普通の戦闘能力があって数々のシチュエーションにおける実戦経験も豊富だ。君のような人物を他に探すとなると、かなり骨が折れることになる』
『……わかった。だが、具体的に何をすればいい? まさか、そのグループと戦闘でもするわけじゃないだろうな』
『その可能性は低い。だが、そのグループを潰せるならそれでも構わない。とりあえずはグループの実態を掴んでほしい。そこから先は……』……私は溜息をついた。結局、最後はいつもこうなる。
『その先はまだ考えてないんだな』
『その通りだ。だから、君の判断に任せる』
そう言われてもな……。私は頭の中で考えを巡らせる。
『一つ質問がある』
『何だ?』
『そのグループは、どのような組織なんだ?』
『表向きは心療内科兼心理療法の研究施設だ。だが実際は、人の心理に関する研究を行っている』
『それなら普通の施設だろう。何が問題なんだ?』
『まず第一に、研究の過程においていざ臨床試験という段階になった時には、様々な制約が生じる。それらをすべてすっ飛ばしている』
『つまり、無許可で人体実験をしているということか?』
『そうだ』
……まぁ、これくらいなら、今更驚くほどでもない。
『それと、もう一つ』奴はメッセージを送り続けた。
『その施設では、簡単に言えば、人を洗脳するための技術を研究している』
『人の精神に干渉するというのか?』
『そうだ。すでに何人かの被験者が犠牲になっている』
『被験者は全員子供か?』
『いや、成人もいる。それも、これらの被験者はみな問題を抱えていた』
『なんだ?』
…ややあって、返信が来た。
『精神疾患だ。被験者たちはみんな、臨床試験を行う前になんらかの精神的な問題を抱えていた』
『組織は、被験者の精神疾患と研究所が行う臨床試験の関連性について何か感づいていたのか?』
『一応、その研究所からは精神疾患を患った人間はマインドコントロールしやすいという話を様々なデータで送られてきた』
『その信ぴょう性は?』…少し経ってから、返信がきた。
『今となっては、信じられないな』でしょうね。
『わかった。できれば、その研究所に関するあらゆるデータが欲しい』
『やってくれるのか?』
『期待に応えられるかは分からないがな』
『助かる。健闘を祈る』そこで通信は途切れた。
(やれやれ……)
私は椅子に深く座りなおして背もたれに体重をかける。
「どうやら、大変な事になりそうですね」
いつの間にか横にいた若い男性――鳴海刑事も、私と同じことを思っていたようだ。
私は彼の意見を肯定して、今回の事件もとい捜査は潜入調査になると言った。
「え、いいんですか? 日本の警察って潜入調査は…って、今更言うことじゃないですよね……」
鳴海刑事の心の中ではなんらかの踏ん切りがついているのか、彼はフッと笑みを浮かべて話を続ける。
「それで、どうするんですか?」
私は鳴海刑事の言葉に、なんとなくソファの方に視線を向けた。
「――チッ! 今日も外れかよ。あーあ、立ち食いそばでも食ってこようかなぁ…」
「け、警部殿、まだ勤務時間でありますよ…?」
そこでは、ソファに寝転がりながら競馬中継を見ている鬼島警部と、大柄で筋肉質な体格に似合わず、まじめにデスクワークをこなしている大倉刑事がいた。二人は私の視線に気づいたようで、同時にこちらに目を向ける。
「ん? なんだよ、神牙? お前も一緒にそば食うか?」
「ま、まさか、とうとう神牙にまで警部のサボり癖が――」
「んだとぅっ!?」
「ひぃっ!?」
「……僕に、何かできることはありますか?」
……目の前で繰り広げられるバイオレンスから目をそらして、鳴海刑事は私に聞いてきた。
そして……私は覚悟を決めて、彼に今回の潜入調査に関する大まかな計画を伝えた。
※
「ありがとうございましたぁ…」
こうして時は現在――私は若い男性店員の気の抜けた声を背に、缶コーヒーを二つ持って鬼島警部の待つ車へと戻る。
車に戻ると、彼女は何か考えていたようだったが、すぐに私の手から缶コーヒーを奪い取る。
「おう、ありがとな」
彼女はお礼を言いながら缶のふたを開けて、程よい暖かさのコーヒーをすする。私も、彼女と同様の行動をとる。
「……それで、これからどうするんだ?」
しばし無言でコーヒーを飲んだ後、鬼島警部は私にそう問いかけてくる。
私はまず、潜入する施設周辺の地理を把握し、出来れば覚えること。そして、万が一に正体がバレた時のために、脱出プランを練ることを話した。
「それなら、この辺りの地図があった方がいいな。それと、その施設の見取り図とかもあるといいんだが……」
私は彼女の提案に肯定の返事をしつつも、施設の見取り図を手に入れることはチャンスがあった時に限り、潜入している最中にできるだけ把握することを提案した。
「それってつまり、今回の捜査は必ずしも解決を目指さなくていいってことか?」
私は首を縦に振った。
「それじゃ、アタシ達の目的はあくまでも情報収集だな。あとは、その研究所の内部事情の調査か」
私はもう一度首肯する。同時に、やはりこの捜査のパートナーに彼女を選んでよかったと思った。
鬼島警部は一見すればただの汚職刑事のように見えるが、これまで数々の事件捜査を通じて感じたのは、彼女はオモイカネ機関では他の二人の刑事よりも間違いなく頭の回転が速いことだ。この特性は、今回の潜入調査では重要な要素となる。
「それじゃ、とりあえず今日のところは帰るか? 他にやることもないだろ?」
彼女にそう聞かれて、私はスマホの画面を見た。時刻はすでに午後五時半を回っていた。この季節のためか、辺りはすっかり暗くっており、コンビニの中から漏れてくる明かりが、私達の顔を照らしている。
私は彼女に、今日はもう帰る旨を伝えた。
私がそう言うと、鬼島警部はシートベルトを締める。私も同様にすると、彼女はエンジンを点けてアクセルを踏んだ。
私達を乗せた車は国道を走り抜けていく……道行く車のヘッドライトとテールライトが、暗い夜道を明るく照らしていた。
その時、ふと隣に座っている鬼島警部から、何か言いたげな雰囲気を感じた。私はコーヒーを飲みながら彼女に声をかけた。
「いや、別に……」
「……」
「……」
私は彼女の言葉を待ったが、結局何も言わなかった。そのまましばらく沈黙が続いた。
「……なあ」
――と思っていたのだが、鬼島警部が突然口を開いた。しかし、その口調は先ほどまでとは違っていた。
私は横目で車を運転する彼女をちらりと見る。すると、彼女の顔にはどこか思いつめたような表情が浮かんでいた。
「……今回の件だけどよ」
「……」
「もし、アタシ達が犯人を捕まえられなかったら、どうなると思う?」
「……」
私は鬼島警部の言葉を聞いて、内心ため息をついた。
そして鬼島警部に、今回の捜査に関しては、最悪犯人を取り逃がしても問題ないと告げた。
「……そうかよ。ま、どう考えたって普通の捜査じゃねぇし、アタシらも普通の警察の部署じゃねぇもんなぁ…」
彼女はそう言って車を運転しながら片手で缶コーヒーを飲んだ。それからまたしばらくの間、車内に静寂が訪れる。
私は何とも言えない居心地の悪さを感じながら、その雰囲気から逃げるように外の景色に目を向け続けていた。
※
――その後は特に会話もなく、私たちはそこからさらに離れた住宅地の中にある一棟のアパートまで来た。私は鬼島警部に言って、そのアパートに隣接した駐車場に車を停めてもらった。
「ふぅ、やっと帰ってきたか。意外と、これはこれで自宅って思えるもんだな」
鬼島警部はシートベルトを外すと、大きく伸びをした。私はそんな彼女の様子を見ながら、まだ残っていた缶コーヒーを飲み干した。そして、彼女が車から降りるのを待ってから、自分も外に出ようとドアに手をかける。
「なぁ、神牙。お前は……今回の事件について、どこまで知っている?」
「……」
私は彼女に、いつも専用タブレットで連絡を取っている『その者』のことを告げた。
「ああ、あれだろ? いつもウチらに厄介な仕事押し付けてくる奴だろ?」
「ぷっ!――」
私はその発言に、思わず笑ってしまった。鬼島警部の言うことは、まったくもってその通りだからだ。もっとも、それは『その者』がそういった立ち位置で仕事をしている以上、仕方ないことだとも思っている。
「なんだよ? 間違ってるか?」
私は、彼女に向かって首を横に振った。そして、私がその『その者』から聞いた情報を、簡潔に話した。
「……なるほどな。つまり、その研究所とやらで働いている人間の大半は、なんかヤバいことに関わっているってことか…」私はうなずいて肯定の意を示した。
「そいつは、その研究所となんか関わりがあんのか?」
私はその質問を否定した。そして、『その者』はあくまで連絡員兼アドバイザーであると伝えた。
「ふ~ん、ま、これまでもそんな感じだったか」
そう言って、鬼島警部はアパートに向かって歩き出す。私は彼女に付いて行った。
今回、私達が使用する仮初の家として確保したアパートは、『その者』を通じて『組織』が用意してくれたものだ。
外観はモダンな雰囲気の現代的なアパートで、一つの階が四室で構成された三階建てだ。セキュリティもしっかりしている。
さすがに、私と鬼島警部それぞれの自宅から今回潜入する施設まで通院するのは面倒なうえに、もし尾行などされていようものなら、その時点でこの捜査は中止となる。その辺は、『組織』もわかってはいるらしい。とはいえ、『組織』が用意した物件なので、私は初日にここに来た時に念入りに盗撮・盗聴の調査と対策を施しておいた。幸い、今のところは機能している。
私は鬼島警部と共に三階まで登り、その一室の玄関の鍵を開けてから、部屋の中に入る。そして靴を脱いで、部屋に入ったところで立ち止まった。しかし、背後にいた鬼島警部はそのまま立ち止まらずに奥へと進んでいった。
「おー、いいじゃんっ!」
彼女は嬉しそうな声を上げて、リビングのソファーに飛び込むように腰かけた。私は一応、潜入調査の準備の段階で一度この部屋に来ているが、彼女はこの部屋に来るのは始めてだ。
私は彼女の隣に座りながら、このアパートの部屋の間取りについて説明を始めた。
「へぇ、キッチンもあるし、風呂とトイレ別だし、ベランダも結構広いな。これ、家賃いくらだよ?」
私は彼女に、潜入調査中は『その者』から様々なルートを通じて家賃が払われるので心配しなくていいと伝えた。
「へぇ、そうかよ。ま、いいや。とりあえず今日は疲れたから、もう寝るわ」
鬼島警部はそう言うと、自分の荷物を持って立ち上がった。そしてそのまま、廊下を少し進んで寝室へと入っていく。
私はそれを見送った後、テーブルの上に置いてあったリモコンを手に取ってテレビをつけた。すると、ちょうどニュース番組が始まったところだった。
私は適当にチャンネルを回しながら、ニュースの内容を確認した。特に気になる情報はないので、テレビを消してキッチンに向かい、夕食の準備を始めた。
そのまま流れ続ける時間は、まるでこれから始まる緊迫した事態へ対処する私達への、神からのせめてもの餞別のように思えた。