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厳寒の狩場 ~過ぎた信仰~

このホテルや裏手の林を取り巻く一連の謎を調査しているさなか、私たちがこのホテルの停電騒ぎの際に事情聴取した夫婦が姿を消したという報告が、田中からもたらされた。


「警察には連絡しましたか?」


 鬼島警部が落ち着いた口調で尋ねると、田中は答える。


「はい、すでに。今、ホテルの職員総出で捜索しています」

「そうですか。それで、何か分かりましたか?」

「いえ、まだ……」田中は申し訳なさそうにしている。

「わかりました。我々も手伝わせてください」


 鬼島警部がそう言うと、田中の顔がパッと明るくなった。


「本当ですか? 助かります」


 田中は嬉しそうに感謝の意を述べた後、私達は彼と一緒にホテル内を捜索することになった。彼らを捜索する傍ら、田中から情報を聞き出す。

 なんでも、あの夫婦がいなくなったことが発覚したのは、たった今――いつもの夕食の時間にレストランに姿を見せなかった夫婦を、ホテルのスタッフが訝しんで夫婦が泊まる部屋を訪問したのが始まりらしい。

新婚旅行ということで、部屋でそういった行為に夫婦が及んでいる場合に備えて、しばらく時間を見計らってから訪問したとのことだが、今回はその配慮が裏目に出たということだ。

 ただ、ホテルの外に出た形跡もなく、何らかの理由でホテル内のどこかに隠れているのではないかということで、こうして田中を含むスタッフ達で探しているらしい。

 まずは、田中に連れられて従業員用の休憩室を探すことになった。ここはレストランの厨房があるエリアに属しており、普段からスタッフしか出入りがないらしい。

……それにもかかわらずなぜ我々をここにわざわざ連れてくるのか謎だが、部屋の中を探し回ってみても特に変わったところは見当たらない。

 次に、地下の機械室や倉庫などを探そうとするが、私はその前に、館内放送で他の宿泊客に夫婦が失踪したことと、捜索に協力することを放送するように田中に言った。


「そ、そうですね、すいません。失念していました…」


 彼はすぐにそれを了承し、事務室へ向かってアナウンスを行う。そして、事務室から戻ってきた田中に、もし何かあった場合に備えて、ロビーで待機していてほしいと伝えた。


「わ、分かりました。お気をつけて」


 田中の了承を得て、我々はホテルの地下へと向かう。受付奥にある階段を降りて地下室に入ると、そこには、相変わらず雑多で大型のインフラ設備が所狭しと並んでいた。常時稼働しているためか、最初に入った時に比べて室内は熱気に包まれており、額からは汗が流れた。だが、明かりを点けてもなお薄暗い地下室を捜索しても、夫婦は見つからなかった。

 我々はそのまま一階に戻って、田中に面会する。


「ど、どうでしたか?」


 受付で不安な顔を浮かべた田中に、私は地下室には誰もいなかったと伝えた。


「そ、そうですか……」

「田中さん」


 その時、鬼島警部が田中に声をかける。


「はい、なんでしょう?」

「ここの上はどうなってんですか?」


 そう言いながら、鬼島警部は私達が上がってきた階段の上を指差す。確か、あそこはまだ行っていない。


「あぁ、そこは私の私室と警備室があります。警備室と言っても、常駐の警備員がいるわけではなくて、この周囲一帯の監視カメラをモニタリングできる部屋になっているだけですが…」

「ちょっと拝見しますね」


 有無を言わさず、鬼島警部は階段を上がっていく。


「あ、あの……」


 うろたえる田中をしり目に、私達も鬼島警部の後に続いて階段を上がる。すると、彼女は『警備室』と銘打たれた白いプラスチック製のネームプレートが釘打たれた扉の前で仁王立ちしていた。

 私がどうかしたのかと聞くと、彼女は『開かねぇんだよ…』とイラついた様子で返答した。

 私が引き返して鍵を持って来ようとすると、階段から田中が慌てた様子で現れた。


「ま、待ってください。その部屋には鍵が…」


 そういう彼の手には、確かに鍵束が握りしめられていた。

 鬼島警部は『ちょっと失礼』と言って田中から半ば奪い取るように鍵束をもらうと、色々な鍵を試して扉の鍵を開けた。

 中に入ると、そこには確かに複数の大きな液晶モニターと複数台のパソコンがある。これで監視カメラの映像を確認したり、管理簿などを作成していたりするのだろう。その証拠に、液晶モニターにはいくつもの画面が表示されていて、それぞれ別の映像が映し出されている。

 私はそのうちの1つを見てみた。どうやら、それはホテルの正面玄関に設置された防犯カメラの映像らしく、外の様子が確認できる。

 一瞬、過去の映像を探ろうと思ったが…下手に触って貴重な証拠が失われたりしないだろうか?……と、不安になった私は鬼島警部に尋ねる。

すると、鬼島警部は「……南無三なむさんっ!!」と一言告げてから、パソコンを操作し始めた。同時に、後ろから田中の『ひぇっ』という声が聞こえる。


「……お、うまくいったな!」


 鬼島警部はそう言いながら、モニターに表示された画像を拡大する……今度からは、私がよく観察したうえで、責任をもって操作しよう……そう心に決めた。


「……」


 鬼島警部はしばらくパソコンを操作しているが、目的のものが手に入らないのか、ため息をついて画面から視線を外す。


「…ダメだな。少なくとも、今日のうちに二人が外に出た形跡はねぇ。だが、面白いことが分かったぜ」


 私がそのことについて質問すると、鬼島警部はニヤッと笑った。


「あの二人の姿は、昨日の夜に部屋に入ったきり、映像には映ってねぇ」


……私はその言葉に応えるように、彼らの部屋に行こうと鬼島警部に告げる。


「ああ」


 私達はすぐに田中と共に受付まで戻り、夫婦が泊まっている部屋の鍵を借りて田中をその場に残し、そのまま二階へ上がって夫婦の部屋の前に立つ。


「……」


 鬼島警部は目配せで合図を送り、私が返答すると、部屋の鍵を開ける…そして、私達は室内に足を踏み入れる。


「……」


 部屋の中にはベッドが2つ、テーブルを挟んでソファーが2つあるだけのシンプルな内装だった。私達が泊まっている部屋と大差ない。


「……確かに、いなくなってから時間が経っていないようだな。しかも、荒らされた形跡がねぇ……というか、本当にどこに行ったんだ? てっきり、ここでくたばってると思ったのに」


……私も、鬼島警部と同じことを考えていた。もちろん、彼女より幾分かは柔らかな表現で。


「よし、調べてみようぜ。何か手がかりになるものがあるかもしれねぇからな」


 そう言って、鬼島警部は部屋の中を物色し始めた。

 私はその隣で、何か役に立ちそうなものがないかと、一緒に部屋の中を探す。すると、ふと机の上に目が行った。そこにあったのは、数枚の写真だ。

 私はその写真を手に取ってみる。どうやら、どこかの風景を撮影したもののようで、背景には山々が連なっているのが見える。ただ、その風景がどこなのかは分からない…いや、この風景には見覚えがある。

 私はそう考えて必死に記憶の糸を手繰っていく……絶対、必ず、どこかでこの風景を見た気がする。

 そう考えて写真をめくっていくと、私の動きはピタッと止まった…その写真には、写っていた……あの奇妙な現象が続く、いわくつきの林の中にある、物々しい神社が……。

 私は鬼島警部を呼んでその写真を見せる。


「これは……」


 彼女はその写真を見て絶句していた。その様は、先ほどの私のようだった。


「……絶対、この場所が関係ありそうだよなぁ…」


 鬼島警部は頭を掻きながら言う。私はそのことに対して、こんな場所に行く理由なんてこの夫婦には思い当たらないと疑問を投げかける。


「だよなぁ。ま、行ってみれば分かるんじゃねーか?」


 鬼島警部はそう言った後、部屋の中を見渡す。私が、何かめぼしいものはあったかと尋ねると、彼女は返答した。


「あ~、これくらいかな……」


 そう言いながら、彼女が見せてきたのは一枚の写真。そこには、大きな石の前で祈る二人の男女の姿が写し出されていた……それを見る限り、おそらく例の神社の前だろう。


「こいつは……やっぱり何かあるみたいだな」


 鬼島警部の言葉に同意するように、私は大きくうなずいた。


「じゃあ、そろそろ行くとするかね」


 鬼島警部は立ち上がって部屋を出る。私もそれに続いた。

 私たちはそのまま一階のロビーに行って田中に部屋の鍵を返し、代わりに林へ行ってくると伝えた。


「え、今からですかっ!?」


 案の定、田中は素っ頓狂な声を上げた。まぁ、無理もないが。

 私は夫婦の部屋で見つけた写真のことを伝えて、もし何もなければすぐに帰ってくると伝えた。すると、田中は申し訳なさそうに頭を下げる。


「すいません。よろしくお願いします」


 私達はホテルを出て、くだんの林へと向かう。


「……さて、どうなることやら」


 鬼島警部は独り言のようにつぶやくと、私に話しかけてくる。


「ところで、アンタはこのホテルについて、どう思う?……正直に答えろよ?」


 私は彼女の質問の意図を考える。どうやら、このホテルが事件に関わっているかどうかを聞いているようだ。私は少し考えた後に、まだ何とも言えないが、この林とのなんらかの関係性はあると答えた。


「……アタシも同じ考えだ。そして、おそらく夫婦はその関係性とやらに引っかかっちまったと思ってる」鬼島警部も私と同じ意見のようだ。

「とりあえず、まずは現場検証だ。何かあるなら、そこで見つかるはずだぜ」


 私は鬼島警部の言葉にうなづき、彼女に付いて行く。

 駐車場を通って林に入り、そのまま歩いていくと、やはり最初に目にするのは例の池だった。


「……そういえば、夫婦の写真にはこの池が写ってなかったな。興味がなかったのか?」


 鬼島警部は目の前に広がる光景を見ながら、そう言った。確かに、あの写真には池は映っていなかった。だが、今は考えても答えが出そうにない。私は鬼島警部に先に行こうと言って彼女と共にその場を後にした。そのまましばらく歩くと、例の神社が姿を現した。しかし……。


「……誰もいないな」鬼島警部はそう呟く。


 そう、そこには誰一人として人はいなかった。私は一応、神社の周囲を確認するが、怪しいものは何も見つからない。


「ま、仕方ねぇな。ここで何か手がかりを探せればいいんだがな」


 鬼島警部はそう言って周囲を見渡している。私は彼女の断りを入れて神社の中に入っていった――そして、すぐさま彼女を呼び寄せる羽目になった。


「なんだ? なんか見つかったのか?」


 境内の入り口から鬼島警部の持つライトの明かりが私の視線の先に照らされると、後ろから『なっ!?』という声が聞こえてきた。


「どういうことだ?……無くなってるじゃねぇか!」


 彼女は境内の中に入って隅々まで探しながらそう叫んだ。

 神社の境内にあった注連縄のされた岩……その注連縄は、今は完全にほどけていた。おまけに、その奥にあった磔にされた人形は、その姿を消していたのだ。まるであの夫婦のように……。


「クソッ! ヤベぇぞ! アタシの勘が絶対ヤバいって警告してるぜ!」


 私は鬼島警部に落ち着くように言って、状況を整理した。

 消えた夫婦と、いわくつきの林の中の神社に祀られている岩と人形……そのうち、岩に施された注連縄はほどけて人形も消えた。その状態で、夫婦は今も見つかっていない。

 両者の間に関係があるかはまだ不明だが、どう考えても不穏な結末を予期せざるを得ない。私はそのことを彼女に伝えた。


「……つまり、あの二人を探すのが相変わらず先決だってことだよな。でもよぉ…どうやって見つけりゃいいんだよ? もうあらかた探し回っただろ?」


……私は鬼島警部の言葉に肯定の返事をした。正直、これ以上は探しようがない。一度ホテルに戻るべきだろう。私はそのことを彼女に伝えた。


「……そうだな。とりあえず戻るしか無さそうだな」


 鬼島警部は渋々と了承する。私は念のために、もう一度周辺を調べてみることを提案した。すると、彼女はそれに賛同してくれた。


「よし、じゃあ手分けしようぜ。アタシは右から回るから、アンタは左から頼む」


 私たちはそうやって分かれて捜索を開始した。

 それからしばらくして、私は池のほとりに来ていた。ここもすでに調べ尽くしたが特に収穫はなかった。

 私は諦めて彼女の方へ向かおうとしたその時、ふと池の方を見ると、水面に沈みゆく夕日の光が反射していた……それは神秘的な光景だったが、今は鬼島警部と合流することを優先してその場を離れる。


「よう、どうだった?」


 私が神社まで戻ると、彼女はすでに捜索を終えていたようで、神社の前で待っていた。私が何もなかったと告げると、彼女は少し残念そうな顔をした。


「そうか…まぁ、今更何か見つかるわけねぇか」


 私は首肯して、彼女と共にこの林を抜けることにした。道中、再び池がある場所に出るが、そこは速足で突破する…いつ、あの怪物に襲われるか、この状況ではなおそら神経を使う。

 しかし、最初に林に入った時とは違って、今度はすんなりとホテルの駐車場に戻ることができた。

 そのままホテルの本館に戻ろうかと思ったが、私は一度従業員寮に向かうことを鬼島警部に提案した。特に理由はない。しいて言えば、安否確認だ。


「ああ、いいぜ」


 彼女は気前よくそう言った。そのまま、私たちは従業員寮へと向かう。


「……おい、なんかおかしくないか?」


 鬼島警部は周囲を見渡しながらそう言った。私も同じ意見だ。


「静まり返っているっていうのもあるが、それにしても人の気配がしない。アンタもそう思わないか?」


 私は彼女の言葉に同意した。いくら山中にあるホテルとはいえ、全く人の姿が見えないのは明らかにおかしい。


「……とにかく、行くしかないな」


……私達はそのまま、従業員用の寮へと向かった。


                      ※


「――こりゃ、ちょっとばかしマズいな」


 従業員達のための寮に着いた私達は、その光景を見て唖然とすることになった。

 この時間帯の人の出入りは把握していないが、それでも今は誰もいない。外からもわかっていたが、部屋の電気も消えている。

 やはり……私は思わずそう呟いた。鬼島警部が応じる。


「なんだよ、神牙? アンタ、こうなること分かってたのか?」


……私はその言葉に、リスクとして覚悟していたと答えた。彼女はその言葉に『ふぅ~ん』とだけ返すと、本郷警部顔負けの苦虫を噛み潰したような表情をして寮内に目を向ける。


「……とりあえず、中に入るぞ」


 彼女はそう言って、玄関口に向かって歩き出した。私はその後に続く。そして、そのまま中に入ろうとしたとき――。


「あ、あのっ!!」


 突然、背後から声をかけられたので振り返ると、そこには見覚えのある女性がいた。


「あ、アンタは……」


 そこにいたのは、停電騒ぎの時に鬼島警部が事情聴取した気弱な女性だ。彼女はひどく怯えた様子で、それが私達にこのホテルで起きている事態が逼迫ひっぱくしていることを示していた。


「よ、よかった……見つかった…お、お願いします、わ、私も一緒に連れて行ってください!」


 半ばパニックに陥ってる彼女を落ち着かせて、私がどうかしたのかと尋ねると、女性は涙目を浮かべて訴える。


「あの…私、気分が悪くて朝食の後はずっと部屋で休んでいたんです。それで、午後四時くらいに宿泊客の方がいなくなったっていう館内放送を聞いて…それで、私にも何か手伝えることがあるんじゃないかと思って、ロビーに行ったんです。

 そしたら支配人さんがいて、今は警察の方が対応しているから大丈夫って……でも私、心配になってレストランとか浴場とか、自分で探せそうな場所は全部探してみたんです。でも、気づいたら――」


 女性はそこまで喋って喉を鳴らした。


「人が…いなくなってたんです。他の宿泊客の人達もスタッフさん達も、支配人さんも……」


 まさか…田中まで行方不明とは…それなら、彼女はこうなるのは無理もない。私たちの姿を見て、さぞ安堵しただろう。私は鬼島警部に、女性の面倒を見るように――同時に、このまま捜索を続けることを話した。


「ああ、いいぜ」


 鬼島警部はあっさりと承諾してくれた。まぁ、彼女の性格ならば当然か。

 それから、私たちは彼女を連れたまま従業員寮の捜索を再開した。


「それにしてもアンタ、よくこんな山奥に来ようと思ったな…観光か?」

「あ、はい……あ、すいません、私、吉沢さやかと申します」

「おう、そういえば自己紹介がまだだったな。アタシは鬼島。こっちは神牙だ。もう知っていると思うけど、ウチらこう見えて警察の人間だから、安心しな」

「え、ええ……」


……話をすることで、少しは落ち着いてきたようだ。私は吉沢に、改めてこのホテルには観光で来たのか尋ねた。


「え、あ、はい、そうです……」

「へぇ~、こんな山奥でも観光名所があるんだなぁ…」

「……す」


 鬼島警部がそう言うと、吉沢はもごもごと口ごもる。


「ん? なんだ? どうかしたのか?」

「いえ、別に……」


 そう言ったきり、吉沢は鬼島警部の後ろでそっぽを向いてしまう……一応、彼女の言動を気に留めつつ、そのまま捜索を続けていく。まずは食堂と厨房だ。ここも例によって無人だったが、調理器具や食器はそのまま残されていた。


「なんだこりゃ? 特に争ったような形跡はないし…まるで忽然と姿を消したような感じだな…」


 鬼島警部はそう言いながら、テーブルの上に置かれた皿を手に取る。


「……ん、これは――」


 何かを見つけたのか、鬼島警部がそれを私に手渡してきた。どうやら、食事のメニュー表らしい。


「……これって、今日の昼食じゃねぇか」確かにそうだ。しかも、その料理名はカレーライスとなっている。

「ってことは、少なくとも、このエリアは昼頃には無人になったってことか?」


 私は鬼島警部に、もしかしたら食事の途中で例の夫婦の捜索をするように言われて、そのまま行方不明になったのかもしれないと伝えた。「なるほどな……確かに、その可能性はあるかもな。とにかく、ここにいた奴らは昼頃には姿を消しちまったってこった」


 そして、次は浴場に向かったのだが、ここでも異変があった。脱衣所に入った瞬間、思わず顔をしかめてしまうほどの異臭が立ち込めていたのだ。


「うっ!?」

「なんですか、この臭い……」


 二人はそう言って鼻を押さえている。私も同じ気持ちだが、その正体はすぐに分かった。


「おい神牙、あれ……」


 鬼島警部が指差す先には、浴場を満たす血…血…血…四方八方に飛び散った鮮血と赤黒い肉塊の海だった。

……私は鬼島警部に、吉沢をしっかりと守るように言って浴場に入って調査を開始した。床に散らばっているのは人間の腕、脚、胴体、首、頭、内臓、眼球、骨、そして大量の血液。死体が消えていることを考えると、おそらくこれが被害者達のなれの果てだろう。


「くぅ……なんてこった……」


 鬼島警部は吐き気を堪えながらも、何とか耐え忍んでいる。私はそんな彼女に一通り調べ終わったと告げた後、浴室全体に目を向ける。

 もしかしたら、ここにある…失礼ながら、残骸と呼んでも差し支えない物の元々は、行方不明になった者達ではないだろうか?…そのことを、鬼島警部に伝える。


「だとしたら、ますますヤべぇな…脱出するか?」


 彼女が言わんとしていることは理解できる…彼女は今すぐにでも、吉沢を連れてこのホテルから逃走することを私に提案しているのだ。

 だが、その提案に、私は首を縦に振れないでいる…この時間から、一般人を連れてこれだけの惨劇を起こせる存在の眼を盗んで人里までたどり着けるだろうか?

 私が思い悩んでいると、吉沢が口を開く。


「あ、あの……何が?」


 彼女はこの惨劇を目にしていない。私は鬼島警部にアイコンタクトを取った。


「……えっと、だな…」


 そして、鬼島警部は目の前の惨劇を吉沢にやんわりとした感じで伝えた。話を聞くたびに、吉沢の顔から血の気が失せていくのがハッキリと分かる。


「そ、そんな……」

「だから、ここは危険なんだ。それで今からずらかろうって話をしてたんだが……」


 その時、吉沢はキュッと口を結んだ後に話をつづける。


「わ、私なら、なんとか大丈夫です。み、見てませんし……それよりも、今は他の皆さんを見つけた方がいいと思います。まだ生きている方もいらっしゃるかもしれませんし……」

「……いいのか?」


 吉沢の発言に、鬼島警部は少なからず驚いた様子で問いかけた。私も同感だ。彼女の性格からいえば、このような惨劇を聞けば、早くこの場を離れたいと思うものだが……あるいは、目の前の状況を見ていないからこその蛮勇なのかもしれない。そう思って、私が彼女に声をかけようとした時、吉沢は言った。


「あ、あの、こういう時って、主人公っぽい人たちのそばにいたら安全だと思うんです。だから…」


 そう言って、吉沢は鬼島警部を見る。その瞬間――彼女は大爆笑した。


「ぷっ! あははははっ!! なるほどなっ! アタシらは主人公ってわけか! いいね、気に入った!」

「す、すみません、警察の方にこんなこと…」

「いいって、いいって! どうせアタシら窓際部署だからよ! ま、そういうことだ。行こうぜ、神牙!」


……私はそんな鬼島警部に、吉沢はしっかり守るようにとだけ、厳命した。

 私たちは次に建物の上に向かい、二階と三階にあるスタッフ達の自室を捜索することにした。すべての部屋を入念にチェックするが、やはりどこも無人で、ベッドには寝間着が脱ぎ捨てられていたり、机の上には飲みかけのペットボトルが放置されていたりと、生活感のある光景が広がっていた。

 私は二人に、ここも突然消え去ったような状態になっていると告げた。


「ああ、いったいどうなってんだ……?」


 鬼島警部はひとちるが、周囲は静寂に包まれてその問いに答える者はいない。

 結局、一階に戻ってきた私達は最後に事務室を調べることにした。もしかしたら、置田が戻ってきているかもしれないと思ったからだ。


「……」


 だが、残念なことに、ここにも人の気配はなかった。しかも、この部屋の中は妙に荒らされていて、書棚やデスクの引き出しは空っぽになっていた。


「ここにいた奴らも消えたってのか?」


 鬼島警部はそう言うと、壁際に設置されているパソコンの前に立つ。


「おい神牙……これ見てみろ」


 鬼島警部に促されて画面を見ると、そこには何かの文書ファイルが開かれていた。


「なんだこりゃ? 報告書みたいだな」鬼島警部はその文面を読んでいく。

「えーっと……『本日、午後五時頃、ついに当ホテルの従業員全員が行方不明となった。警察に連絡をしようとしたが、電話が通じなかった。仕方なく、我々だけで館内をくまなく探したが、全員を見つけることはできなかった。やむを得ず寮の事務室に戻ってこうして報告書を書いている。だが、これからも捜索を続ける。』……って、なんだこりゃ? どういう意味だよ?」

「あ、それ、今日の出来事を記した日誌みたいなものじゃないですか?

 午後五時って、確か私が受付の男性の方がいなくなった時にふと時計を見た時に確認した日時でしたし…確か、あの時は五時十分くらいだったかな?」


 吉沢がそう言うと、鬼島警部は『なるほどな』と返す。


「つまりこれは、文面にもある通りこの寮の事務室で記録される報告書ってわけだ」


 私も彼女と同じ考えだ。その証拠に、他のフォルダも開いてみるが、同じような内容の文書ファイルがいくつも出てくる。私がそのことを告げると、鬼島警部は次々にその文書ファイルを読み漁っている。


「なるほどなぁ、どれどれー……お…」


 そう言って、彼女は一件のファイルに目が釘付けになった。私は彼女の横からその内容を盗み見る。そこにはこう書かれていた。


『午後七時四〇分、彼らをこの寮の浴場で見つけた。だが…あれが本当にスタッフのみんなだったのか、今でも分からない。もしかしたらお客様かもしれないが、それを確認するすべは私にはないし、確認したくもない。だが…いずれにせよ、もうこのホテルは終わりだろう。あのカラスが――』そこで報告書は途切れていた。

「どうやら、これを書いた人物はあの浴場の光景を見ちまったようだな。それで、改めて報告書に記録したと……」そう言うと、鬼島警部は私の方を見た。

「なぁ、神牙。この報告書にある『カラス』って…アンタが見たバケモンのことだと思うか?」


……私はその問いに、可能性はあると答えた。確信ではないが、かなり確率の高い可能性というべきだろう。


「そうか……」


 鬼島警部はそのまま黙り込んでしまう……吉沢も居心地が悪そうにしているので、私は二人に、改めてホテルの方を捜索してみることと、もし何も発見できなかった場合は、今夜はホテルで十分警戒しながら夜を明かし、朝一番にここから退避することを提案した。


「ああ、そうだな。この状況じゃしょうがねぇ」

「わかりました、はい」


 こうして、私たちは従業員寮を後にした。

 駐車場を通ってホテルまで向かうと、ホテルは相変わらず明かりだけはしっかりと点いていた。だが、今はそれがかえって不気味に感じる。まるで幽霊屋敷にでも突入する気分だ。

 私たちはロビーに入って周囲を見渡すが、こちらの方も従業員寮と同じように静まり返っていた。念のために吉沢に何か変わったところはないか尋ねるが、彼女は『いえ、とくには……』と言って首を振る。

 仕方ないので、私たちはこの広いホテルを片っ端から調べるしかなさそうだった。だが――。


「おい…なんか聞こえねぇか……?」


 鬼島警部にそう言われて耳を澄ますと、確かに何かお経のような声が聞こえる……どうやらその音は、私たちの足元――地下室から聞こえてくるようだ。


「どうする? 行くか?」


 鬼島警部が私にそう問いかけてくる。彼女の言いたいこととはつまり、このまま一般人の吉沢を連れたまま、地下室まで行くかという意味だろう。

 私は彼女に、吉沢と一緒にこの場で待機するように、もし何かあった場合は、二人だけでもこのホテルから逃げるようにと命令した。


「…わかった。気をつけろよ」

「よろしくお願いします。すみません、足手まといになってしまって……」


 私は吉沢に気にしないように言って受付を通って事務室へと続く廊下に出た。そして、地下へと続く階段を下りていく……すると、先ほどよりもはっきりとした念仏の声と、それに混じってかすかに人の言葉のようなものが聞こえてきた。

 私は警戒しながらもゆっくりと奥へ進んでいく……やがて地下室の前にやってきた。音は明らかにこの中から聞こえる。


(……)


 私は意を決して、地下室に突入した――。


「っ!?」


 私は思わず息をのむ……そこにはなんとも異様な光景が広がっていた。部屋の中には、坊主頭の男がいた。彼は部屋の中心に置かれた机に向かって、一心不乱にお経を唱えていたのだ。その机の上には蝋燭ろうそくが灯されており、彼の周囲にはインフラ設備の上から何枚ものおふだが置かれていた。

 そしてその机の先には……林の中で見つけた神社にあった、人形が磔にされていた。

 私は彼に近づいていく。すると、私の気配に気付いた男が振り返った。


「おお……! 神牙さんじゃないですか!」


 男はそう言うと、嬉しそうな顔を浮かべた。

 男の正体は……このホテルのオーナーであり支配人の田中だった。だが、今の彼からは初めて会ったときに感じた紳士らしさや柔和な態度は一切感じられなかった。あえて表現すれば、カルト信者……今の彼は、全身からそのような気配を醸し出していた。


「ああ……やっぱりあなたも来てくれたんですね。きっとまた会えると思っていました。これは運命です。我々と神の御導きに違いない」

「……」


 血走った目…口元から噴き出す泡…頭部から所々流す血は、おそらく髪を乱雑に切ったせいだろう。

……そこで、私の脳裏にあるひらめきが起こる。

 田中が自身の髪を、精神的な錯乱のために乱雑に切ったのではなく、何らかの理由で焦った結果、乱雑に切ったとしたら…もしこの儀式が、彼にとって想定外の日時に行われているとしたら……そこに、私の付け入るスキがあるかもしれない。


「さあ、早く儀式を終わらせましょう。私はすぐにでも、あの方に会いたいのですから……」


 そう言って、田中は狂喜に満ちた笑みをこちらに向けてきた。その視線は、明らかに常軌を逸している。

田中はそのまま机に向き直り、再びお経を唱える。彼が唱えるお経は、私がこれまで聞いてきたどのお経とも合致しない、未知のものだった。お経の節々から、得体の知れない不気味さが伝わってくる。

 すると、そのお経に反応しているのか、祭壇上の人形がカタカタと動き始めた。それはまるで、自らの意志で動いているようだった。さらにお経の音が大きくなるにつれて、次第に人形の動きが激しくなっていく。それと同時に、何かの呪文のような言葉もどんどん大きくなっていった。


「………………来た」


 田中がそう言った瞬間、生暖かい風が人形からあふれ出し、その中心が闇に包まれた。闇は渦を巻き、やがて形を成していく……それは――。


「おいでなさった……」

『……』


 私があの林で見た、カラスの怪物だった。


「ああ……」


 田中は、目の前に現れた異形の存在にうっとりとした表情を向ける。


「ああ……ついにお会いできました……」

『……』

「どうか私をあなたの供物としてください。そのために私は今まで頑張ってきました」

『……』

「ええ、もちろんです。喜んで捧げます。私の命などいくらでも差し上げます。だから……」

『……』


 カラスの化け物は田中の言葉に答えるように、彼に近づいていく――そして、そのまま彼を嘴で貫いた。


「あっ……あ……ああ……ああああああ!!!!!」田中は口から血を流しながら、苦しげな声を上げる。だが、それでもなお彼は笑顔を絶やすことはなかった。

「ああ、やっとこれで私は救われる。ありがとうございます。本当にありがとうございま……」


 そこまで言うと、彼は力尽きて動かなくなった。そして、それを確認すると、カラスの化け物はこちらに目を向けてきた。


『……』


 圧倒的な存在感……化け物を見た時、私の脳裏にはそのような言葉が浮かんだ。それほどまでに、この化け物からは異質な雰囲気が漂っていた。


『……』


 カラスはじっとこちらを見つめた後、ゆっくりと口を開いた。そこから発せられたのは、やはり聞き取れない謎の言語だった。だが、意味は分からずとも、それが邪悪なものであることだけは直感的に理解できた。

 次の瞬間、カラスは翼を大きく広げた。そして、その漆黒の羽から黒い炎が出現し、私に向かって襲い掛かってきた――!

――私は咄嵯に身を屈め、それをかわす。しかし、完全には避けきれず、右肩にかすってしまう。

 出来ればやりたくなかったが……仕方ない。私は態勢を整えて構える。そして、呪文を唱えた。


『……!』


 すると、カラスに反応があった。この技は、使用すると肉体的にも精神的にも苦痛を伴うため、ある程度は覚悟して――。


『っ!!』


 私が印を結んで最後の文句を言い終えた瞬間、私を中心にすさまじい爆轟と閃光が走った。

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