餓鬼 ~膨張する肉~
「――まさか、アタシとの電話の最中に本当にそうなるとはなぁ……盗聴されてんじゃねぇのか?」
翌日……私達は大倉刑事の運転する車である場所へ向かっていた。車内では、鬼島警部がずっと不平不満をぶちまけている。
鬼島警部は昨日、私と別れてからすぐに帰宅して、色々と準備をして待機していたらしい。そんな暇があったなら、少しは睡眠をとってほしかったのだが……。
「ったく、こうなるんだったら、初めっから捜査にゴリ押しで加わっとくんだったぜ」
「警部、それは流石に……」
「うっせぇぞ大倉! お前は黙って運転だけに集中してろ!」
「ひぃ!?」
……ちなみに現在、車は高速道路に乗っている。大倉刑事が鬼島警部のパワハラに耐えかねてハンドル操作を誤った日には、ここにいる者達は私を除いて全員あの世行きだろう。
私は鬼島警部に、なぜこんな朝早くに出発しなければならないのかを聞いた。
「ああ?……そりゃ決まってんだろ。事件はすでに起きていて、犯人は捕まってねぇからだ」……ごもっともな意見だ。
「それに、この事件が普通の事件じゃなさそうだってのは、もうわかっちまったしな」鬼島警部の言葉に、私は内心同意する。
『その者』からもたらされた案件…それは、今回の連続猟奇殺人事件の解決だった。奴は、私達にこの事件を解決するように命じたのだ。
それに伴って、奴は私に事件に関するあらゆる情報を提供してくれた……もし、それらの情報が本物で、それ以外に存在しないのならば……この事件は、私が想像している以上に危険なものかもしれない。
私がそのようなことを考えているうちに、車が高速を降りる。目的地に近づきつつあるようだ。
それからしばらくして、車は停車した。そこは、普段から私達がお世話になっている神明大学附属病院だった。
大倉刑事が車を駐車場に停めると、私達は病院に入っていく。受付にいた事務職員に警察手帳を見せて事情を説明する。職員は奥へと向かい、しばらくすると我々にとって馴染みの人物が現れた。
「君達か…」
「お世話になります、アシュリン先生」
鳴海刑事に続いて、私達は思い思いにその人物に声をかける。
アシュリン・クロフォード……この神明大学附属病院の解剖医にして元アメリカ陸軍衛生兵…誤解を恐れずに言うと、彼女の周りには常に死の臭いが立ち込めている。
「こっちだ」
彼女はそう言って我々を案内する。たどり着いた先は、解剖準備室だ。
「うぷっ……」
例によって気分が悪くなった大倉刑事に待機するように言って、私は他のみんなと同じように解剖の準備を始める。
そう……彼女の周囲に死の臭いが立ち込めている理由…それは、彼女がこの病院はもちろん、首都圏では指折りの解剖医だからだ。
なんでも、解剖医はその数自体が非常に少ないらしく、そこから事件解決につながるような証拠を発見できる者はさらに限られるんだとか……。
『その者』から今回の連続猟奇殺人事件の解決依頼が来た時に、彼女の元へ向かうように指示されたメールが送られてきたということは、おそらく……。
「よし、行こう」
全員の準備を終わったことを確認したアシュリンは、そのまま隣の部屋へ移動する。私達も、彼女の後に続いた。
「うっ!」
鳴海刑事は、隣の部屋の光景を見た瞬間、うめき声をあげる……大倉刑事を連れてこなくてよかった。
隣の部屋は解剖室となっており、そこには血まみれになった手術台が置かれていた。そしてその上には、一人の男が横たわっている。
当然ながら、彼は、すでに息絶えていた。その横には、私達と同じような手術着を着た女性が立っている。
「先生。解剖の準備が終わりました」
「ありがとう。それじゃ、始めようか」
しかし、その女性とアシュリンは手慣れたこととばかりに横たわる遺体の前に陣取り、軽やかな手つきで解剖を始めていく。
「時間、午前十時半……ジャスト。これより、解剖を始めます」
アシュリンがそう言う隣で、私はそっと手術台の上に乗せられていたカルテに目を向けた。
『大磯一輝』……確か、昨日のニュースで遺体として発見された事件の犠牲者だ。だが、彼が発見されたのは横浜市のはず……どうして東京都のこの病院に運ばれたのだろうか? 私はメスを軽やかに扱うアシュリンに、そのことを告げた。
「…今朝、そういう連絡があったんだ。解剖してほしいとな。別に珍しいことじゃない」
解剖に集中しているのか、アシュリンは短くそう言った。私は彼女の仕事をこれ以上邪魔しないように黙った。
「……死亡推定時刻は、昨日の深夜十二時から一時の間だな。死因は胸部への刺し傷による出血死。ナイフのような刃物で心臓を一突きされている……と、ここまでは、一般的な事件と変わらないな」
「ええ。ですが、今回はその死体が特徴的な損壊をしていることですね」
「ああ、そうだ」
そこまで話したところで、女性とアシュリンの会話が途切れる。
「あの、アシュリン先生……質問よろしいでしょうか?」
そこで、今まで静かに話を聞いていた鳴海刑事が口を開いた。
「なんだ?」
「はい。今回の被害者の方……その、全身についてなのですが……」
鳴海刑事は言いづらそうに言葉を濁す。それも無理はない。なぜなら……。
「ああ……ひどい有り様だな」
そうなのだ。彼の遺体は、全身に裂孔がある。場所によっては骨まで見えているほどだ。私はアシュリンに、このような傷ができるには、どのような可能性が考えられるかと質問した。
「そうだな…」
彼女は解剖の手を休めることなく、少し考えてから発言した。
「一番可能性が高いのは、噛み千切られたということだろうな」その言葉に、私達は思わず絶句する。
「……まぁ、あくまで私の予想に過ぎないが。だが、その可能性が一番高いと思っている。それと……こっちはもっと厄介かもしれないぞ」そう言って、今度は胸部の切り口を私達に見せる。
「見てみろ。この胸筋の厚さを」
言われて見てみると、確かに厚い筋肉で覆われているように見える。まるでプロレスラーのように……。
「それだけじゃないぞ。この腹直筋と外腹斜筋を見てくれ。かなり発達している」
腹部にも同じように多くの肉がついているが、こちらは明らかに異常だった。
「……こんなに筋組織が発達した人間は見たことがない。アメリカ軍にもいないだろうな…」
アシュリンの言葉に、全員が息を飲む。私はアシュリンに、この男は何かしらの軍隊経験のようなものがあるかと質問した。
「いいや、ないだろう。この肉体を見る限り、戦闘訓練を積んだ形跡は見られない……つまり、単純に日頃から体を鍛えていたか、あるいは……」
そう言って、彼女は大磯の筋繊維をメスで器用に少しだけ切り取り、それを助手に渡す。
「これを分析にかけてくれ」
「わかりました」
そう言って、助手はアシュリンから受け取った肉片を専用の容器に入れて解剖室から出ていく。アシュリンの方は、構うことなく解剖を続けた。それからしばらくして、助手が戻ってくる。
「お待たせしました。こちらをご覧ください」
そう言って、助手はカルテのようなものをアシュリンに見せる。彼女は解剖の手を止めて、そのカルテに目を向ける。
「やはり、そうか……あなた達も見てみる?」アシュリンはそう言って、我々にカルテを手渡してきた。
「これは……?」
「……筋肉増強剤に含まれる成分の一種ね。しかも、かなり高濃度の」
鳴海刑事の疑問の声に対して、アシュリンは冷静に答える。私と鳴海刑事は同時に顔を見合わせると、そのままカルテに書かれた文字を読み始めた。
『筋肉増強成分(A・B)』
……そして、そのあとに続く文章に、私と鳴海刑事は目を丸くした。
『活性組織において、顕著な効果を発揮している』
……私の目に狂いがなければ、カルテには確かにそう書かれている。
活性組織……この場合は、大磯から切り取った肉片を指す言葉だろう。しかし、彼は亡くなってから時間が経っている。すでに組織は活動を停止しているはずだ。私はそのことについてアシュリンに質問した。
「……本来であれば、ありえないことよ。でも、このカルテはコンピューターが自動でレポートしたものだから――」彼女はそう言った。その時――。
…ギギッ……ブチッ…ブチブチッ……。
……どこからか、異音が聞こえてきた。
――いや、音の出どころは分かっている……大磯の遺体からだ。
「おい…これ、前より大きくなってねぇか?」
鬼島警部は遺体を指しながらそう言った。その通りだ。以前見た時よりも、遺体の筋肉が膨張している。顔に目を向けると、筋組織が緊張しているのか、遺体は大口を開けている……まるで、痛みに耐えかねて絶叫しているようだ。
「これは……」
その状況に、さすがのアシュリンも言葉を失って解剖の手を止める。
すると、大磯の遺体は目に見える速度で筋肥大をはじめ、手術台の上に乗せていたカルテが押し出されて床に落ちた。
『……』
やがて、筋肥大は停止したように見える…が、私達はそのまま黙り込むことしかできなかった。この場に大倉刑事がいなくて正解だった。仕方ないので、私がアシュリンに解剖を続けるように言った。
「……」
彼女は無言のまま頷いて解剖を続ける……だが、少し経ってから口を開いた。
「あなた達、また厄介ごとに首を突っ込んでいるの?」
※
その後、大磯の遺体の解剖を終えたアシュリンと共に、私達は彼女の研究室にお邪魔していた。助手から回復薬代わりとばかりにコーヒーを手渡され、一杯口にする。
「……あの遺体についてなんだが…」最初に話を始めたのは、アシュリンだった。
「私には、あの現象を説明することはできない…」私が話を促すと、彼女はそのまま話を続ける。
「あの男に起きたことは、おそらく私達の理解の範疇を超えている。正直、私にはあれが何なのか全く分からない……」
「それは……どういう意味ですか?」
鳴海刑事が質問すると、アシュリンは弱々しい態度で応える。
「言葉の通りだ。私にはあの遺体がどうしてああなったのか……あの現象を説明することができない…」
科学信奉者のアシュリンにとって、それはつらいことだろう。だが、今は落ち込んでいてもらっている暇はない。私は彼女に、仮説でもいいのであの遺体に起きた状況を教えてほしいと言った。
「わかった……」
彼女はそう言うと、考えをまとめているのか、少しの間沈黙する……それから、ゆっくりと話しはじめた。
「まず…あの男があんな風になった原因は、間違いなく組織片から検出された筋肉増強剤にある。それも、かなり強力なものだ。だが……」そこまで言って、アシュリンは再び黙り込んでしまう。
「……だが?」
「……増強剤のせいだとして、どうやって遺体の筋組織にあれほどの作用を及ぼせるんだろうか?」
彼女は消え入りそうな声でそう答えた。
「出来ねぇのか?」鬼島警部の言葉に、アシュリンは小さくうなづく。
「……ああ。亡くなった直後なら、多少なりとも作用を及ぼせるだろうが、あの遺体は少なくとも二十四時間以上経過している…どう考えても不可能だ」
鬼島警部の問いに対しても、彼女は自信なさげに応える。
「つまり、何らかの原因で、彼の肉体が活性化したということでしょうか?」
鳴海刑事の言葉に対して、アシュリンはゆっくりと首を縦に振った。
「そう、だな……少なくとも、解剖の最中に何らかの理由で細胞が活性化して、体内に蓄積していた増強成分も作用した結果、あのような状態になったと考えられる……あくまで仮説だがな」
最後の付け足しが、アシュリンの自信の喪失を如実に表している。
「じゃあ、その活性化の原因ってのは何なんだよ?」
鬼島警部が質問すると、アシュリンは静かに答える。
「わからない……」
「……そうか…」
それ以上は、鬼島警部も追及はしなかった。それほど、私達の目の前で起きた光景は信じがたいものだったのだろう。だとしたら……私には、今のところ二つの道しかない。
一つは、『その者』に連絡を取って事件の解決に役立つような情報をもらうこと。
二つ目は、怪異の可能性…つまり、カチューシャに意見を聞くことだ。一応、筋肉増強剤の成分が検出されたということから、あの遺体に起きた現象には間違いなく科学的に説明がつく部分がある。
しかしカチューシャの言うように、それは細胞の活性化が前提の話だ。私としては、その辺りに怪異の可能性があると思える。どちらにせよ、まずは連絡を取る必要がある……私はそう判断した。
私はアシュリンに礼を言って立ち上がった。
「ああ……何かわかったら、知らせる…」
部屋を後にする我々に対して、彼女は決意のこもった声でそう言った。
※
我々は外に出ると、再び車に乗り込んだ。
車内では、各々が考え事をしているのか静まり返っている。その中で、鬼島警部だけが煙草をふかしながら口を開いた。
「で?これからどうすんだ?」
私はその質問に、カチューシャに会いに行くと迷わず答えた。
「あ、あの先生か…?」
大倉刑事は、露骨にイヤそうな顔をする。
私は彼に対して、先ほど私が考えていたこと――筋肉増強剤の成分と遺体の細胞活性化についての考えを伝えた。
「むぅ……た、確かに、アシュリン先生でも分からなかったとなると、そう、だな……」
……彼は渋々ながらも納得してくれたようだ。その隣で、鬼島警部は紫煙をくゆらせる。
「アタシはそれでいいぜ。たぶん他の遺体も今頃はそうなっているだろうし、もしやることがあるとしたら被害者達の身上調査や背後関係の洗い出しだが、そっちは今まで通り捜査本部の方がやってるだろうからよ」
「僕も、賛成です」
鳴海刑事の賛成も得られたところで、私は大倉刑事にカチューシャの館へ向かうように言った。
「う、うむ……」
大倉刑事が運転する車は、彼の深層心理を反映するかのようにゆっくりと発進し、法定速度をかなり下回った速度で走り出していった。




