狂信 ~あっという間の出来事~
翌日、私達は精神疾患などどこ吹く風のように手早く朝食を食べた後、いつものようにそれぞれの役割を演じることにした。それなりの荷造りをして専用タブレットで『その者』と連絡を取る。すると、すぐに応答があったので、私は昨夜言ったことを実行してもらうように頼んだ。
それから、鬼島警部と共にアパートを出てサルスの施設へ向かう。道中で確かめてみたが、施設周辺は変わらずスマホが使えなくなっている。念のため専用タブレットも調べてみたが、こちらも同様だ……『その者』がうまくやってくれることを祈ろう。
やがて私達は『サルス』の施設に到着し、車を駐車場に停めて受付に近づいていくと、そこにいた黒石が私達に気付いて声をかけてきた。
「おはようございます。お二人とも、昨日はよく眠れましたか?」
その質問に、私は『緊張してあまり……』と答えた。鬼島警部も似たようなことを口走る。
「あたしも…そんなには……」
「あら。まぁ、そうですよね。でも、これからどんどん慣れていくと思いますから、大丈夫ですよ」
そう言う黒石に対して、私達は『お願いします』とだけ言って今日のカウンセリングについて尋ねた。
「今日は、また簡単なテストを受けてもらいます。その後に昼食を摂って頂いて、午後は自由時間となります。お帰りになっても構いませんし、この施設で時間を過ごしてもよろしいですよ」
「あの……どのようなテストなんでしょうか?」鬼島警部が尋ねる。
「一種の心理テストのようなものです」
黒石はそう答えた。鬼島警部は『はぁ……』と言ってからさらに質問を重ねる。
「どんなことを訊かれるんですかね?」
「それはわかりません。ただ、お二人が昨日受けて頂いたテストと似たようなものだと思いますよ」
そう言うと、黒石は受付のデスクから立ち上がって『どうぞ、こちらへ』と我々を案内する。私達は彼女の後に続いた。
黒石はそのまま私達を待合室まで案内したが、そこには昨日と同じように数人の男女が座っていた。
「こちらでお待ちください」
そう言って、黒石はまた受付の方へ戻る……周囲には警備員の姿はないが、天井にいくつか監視カメラが設置されていた。それから少しして、目の前の診察室の扉が開いた。現れたのは、三河だった。
「皆さんお待たせしました。今日はグループでのちょっとした心理テストを受けてもらいます。どうぞ、こちらへ」
彼女にそう言われて、私達を含むその場にいる全員が、三河に羊のように付き従っていく。彼女は奥の廊下を進んで階段で二階へ向かった。
そのまま三河に付き従っていくと、私達は昨日見学した図書室などとは反対方向の廊下を進み、多目的ホールのような部屋に通された。そこには、長机と椅子が列になって並べられており、太陽の光が眩しいぐらいに窓から入ってくる。
私達を含めて、ここにいる人間は十人弱といったところだろうか? この部屋の大きさに比べては、少し少ない人数である。
「では、これから皆さんには一人ずつここに座ってもらって、答案用紙に記入をしていただきます。答案用紙は計三枚。それぞれ十分の持ち時間があります。時間になった場合、回答が途中であっても答案用紙は回収します。三枚目の答案用紙を書き終わった方はこの部屋から退出してもいいですし、ここで自由に過ごしていても構いません。昼食も用意していますから、遠慮なく食べてくださいね」
三河はそう言うと、一番前の席に腰を下ろした。そして、立ったまま待機している私達に向かって『どうぞ』と言う。私は鬼島警部と共に近くの空いている座席に座った。他の人々も同じようにする。見たところ、私達と同じように複数人で来院している者もいれば、一人で通院している者もいるようだ。年齢もバラバラだ。中には高校生ぐらいに見える少年もいた。
そして、私や彼らの机の目の前には、一枚の用紙とペンや消しゴムが置かれている。その用紙には、昨日見たような絵と空欄があった。
「皆さん、準備はよろしいですか?」三河が言うと、皆一斉に首を縦に振る。
「それじゃあ、始めましょうか」
彼女がそう言うと、室内は静寂に包まれる……私達はそれぞれの用紙に回答を書き始めた。
※
全ての人間が答案を書き終わるまで、しばらく時間がかかった。その間、誰も口を開かなかった。まるで、時間そのものが止まっているかのような錯覚を覚える。そのせいか、部屋の外にいる患者や看護師の話し声、スピーカーから流れる音楽などがよく聞こえた。やがて三枚目の答案用紙の回収時間を知らせるタイマーの音が鳴った。
「お疲れ様でした。これでテストはすべて終了です」
そう言うと、三河は退出するように促す。しかし、すでに大半の人間がホールを後にしており、残っていたのは私達を含めて数人だけだった。その数人の人々が次々に退席し、私達も後に続こうとした時、三河が話しかけてきた。
「あ、すみません。お二人はちょっと私と一緒に来ていただけますか?」
……私と鬼島警部は一瞬顔を見合わせた。私達だけを引き留めた……その理由が気になる。もしかしたら、『その者』が何かやらかしたのだろうか……? 疑念は尽きないが、私は鬼島警部に対して黙って頷いて見せた。
「……ええ、分かりました」
「それでは、こちらへどうぞ」
三河がそう言うので、私達は彼女に付いて行く。すると、彼女は一階まで降りていき、そのままいくつもある会議室や研究室が集まるエリアを通り過ぎて行った。そして、廊下の突き当り付近にある一室に私達を通す。三河がその部屋に入る瞬間、彼女が部屋の扉の横にあるプレートを『空室』から『使用中』に変えたのを、私は見逃さなかった。
そこは先ほどの多目的ホールとは違って、事務室のような場所だった。テーブルがいくつもあり、ホワイトボードが置いてある。
私達が入室した時には、すでに何人かの人間が集まっていた。その人間の輪の中には、施設長の高梨もいた。彼女達の視線が、一斉に私達に向けられ、私は内心『しまった…』と思った。
とりあえず、鬼島警部だけでもこの施設から逃げ出すのをサポートできるように、室内や人間を観察する。
部屋の出入り口は私達が入室した一か所だけ……見たところ、この部屋にある窓は開いても四十五度程度。しかも、鉄格子がすりガラス越しに見える。あそこからの脱出は、ほぼ不可能だろう。となれば、脱出経路はこの出入口一か所だけ。
私はそこで人々に注意を向けるが、ぱっと見、警備員などはいない。屈強な看護師もだ。みんな、おそらく研究職で……それも女性ばかり…これならば、初動はこちらが有利だ。
私は脳内で施設の構造を思い出す……仮にここを逃げ出したとして、鬼島警部を連れてこの施設を脱出するには、最低でも車までたどり着かなければならない。
この部屋を出て、屈強な看護師達や警備員達を無力化しつつ、もし施されていたならば、施設の警報やそれに伴う閉鎖措置をなんとか突破したとして、それなりに距離のある庭を通って駐車場にある車を探して逃げる…全力を出せば問題ないだろうが、鬼島警部を伴ってという部分がネックだ。彼女がどこかで捕まれば、おそらくそこで逃避行は終わりを迎える。
そこで私は、施設を偵察した際に発見したセキュリティの甘い裏口のことを思い出したが、施設の中からあの場所へ至るルートは発見しておらず、仮に到達して脱出に成功したとしても、車までたどり着くのに大回りすることになる。結局、リスクとしては同程度に危険だ。
どうしたものか……私がそう悩んで立ち尽くしている間に、鬼島警部はさっさと、しかし静かに高梨達の対面に座ろうとしていた。
「神牙さん? どうぞ、お座りください」
高梨にそう言われてハッとした私も、鬼島警部の隣に座る……幸い、持ってきたバッグの中に色々と道具が入っているし、もし最悪の場合は『力』を解放しよう…うまくいくかは、残念ながら神のみぞ知るというやつだ。もし、神が存在するならば、だが……。
「では、皆さん揃いましたので、早速始めましょうか」
高梨がそう言うと、他の女性達はやや緊張した面持ちになる。
「実は、鬼島さんと神牙さんにわざわざ来て頂いたのには理由があるんです」
やはりか……私達は互いに目配せをする。
「……それで、どのようなご用件でしょうか?」鬼島警部が尋ねると、高梨は答える。
「はい、お二人に、というより、神牙さんにお願いしたいことがありまして……」
彼女はそう言ってから、手元の資料に視線を落とした。
「これから、神牙さんにもう一度心理テストを受けていただきたいのです」
そう言う彼女の表情から察するに、これはただのテストではないようだ。私は警戒を強める。
「…どうしてですか?」
私の代わりに鬼島警部が質問すると、高梨は資料から目を離して答える。
「それはですね、神牙さんの心理テストの結果がとても興味深かったからです」高梨は話を続けた。
「それで、この施設で働く研究員のみんなを集めてテスト結果について会議をした結果、もう一度、神牙さんに様々な心理テストを受けてもらおうという話になったんです」
高梨の言葉を聞いた鬼島警部の瞳が鋭くなる。
「それで、まずはお二人の意見を聞きたかったので、こうしてお呼びしたわけなんですよ。いかがでしょう?」
「……」
鬼島警部は沈黙していたが、その表情は険しい。私としては、罠かもしれないが、願ってもないチャンスでもあったため、今すぐにでも了承の返事をしようと思った。なんせ、今回のことで危険な目に遭うのは私だけなのだ。もし異常があれば、鬼島警部を通じて鳴海刑事達や『その者』達がなんらかの行動を起こすだろう。それまでの時間稼ぎが出来れば、結果としては上々だ。しかし、ここで承諾するにしても、もう少し情報を引き出しておきたい。
私が高梨に、テストを受けるとどうなるのか質問すると、高梨は『そうですねぇ……』と少し考え込んだ後に口を開いた。
「具体的にはテストの結果次第ですが、もし良好な結果が得られれば、当施設で行っている治験に参加して頂きたいですね」
「治験?」鬼島警部が思わず口にすると、高梨は首を縦に振る。
「はい。どういうものかというと、実際に症状の緩和や治療などの作用を及ぼす薬剤を投与させて頂きます。当施設が、精神疾患の治療薬を開発している研究施設も兼ねていることは、もうご存じですよね?」
私は高梨の言葉に肯定の返事をした。
「ですが、いざ治療薬を開発しても、実際に患者さんに使用してその効果を確かめなければならない…もちろん、長い時間のかかる国の認可を受けた後にです。もちろん、それなりの謝礼もさせて頂きますよ」
……私は彼女の最後の言葉に疑問を感じたが、黙って高梨の言葉に耳を傾けることにした。
「なぜこのような提案をするかというと、そもそも症状を緩和、もしくは治療する薬剤を開発しても、実際にそのような症状を発症している患者さんがいなければ、使用しても意味がありません。また、同一の症状を発症していても、年齢、性別、身体的特徴などで薬剤の効果は千差万別に現れるものです」そこで、高梨は一呼吸置いた。
「ところが、神牙さん……あなたはうつ病とのことですが、我々の用意したテストに答えて頂いた結果、もしかしたらうつ病とは別の、かなり特殊な病を患っていらっしゃる可能性が高いのです」
私が話を促すと、高梨は柔和な笑みを浮かべたまま、話を続ける。
「そのため、我々としては今一度、神牙さんに別の心理テストなどを受けて頂いて、より詳しい症状を特定しようと考えています。そして……」
その時……高梨の笑みに一瞬だけ、冷たいものを感じたが、すぐにその気配は鳴りを潜めた。
「できることならば、神牙さんには我々の治験に参加して頂きたいのです。もちろん、テストを受けた結果、そういった症状が神牙さんに発症していると分かった時に、ですが……」
高梨はそこまで話すと、私の反応を見るためか、それとも自分の説明を理解したかを確かめるためか、ジッと私を見つめてきた。私が理解したことを伝えるために小さくうなずくと、彼女は再び笑顔を見せた。
「ありがとうございます。では、最初に説明させて頂きますね。了承して頂くかどうかはその後に判断して頂いて構いませんので」
そう言って高梨は、私に絶対に了承させようとしているか、カバンから様々な資料を取り出して私の前に広げた。私の隣で、鬼島警部も資料をのぞき込む。どうやら彼女も興味があるらしい。私はそんな鬼島警部の表情を見て苦笑いした。
こうして、高梨の説明は始まった……その後しばらく話を聞いて、私にはいくつかの疑問が生じた。それを質問していくと、今度は鬼島警部が質問をする。そのやり取りで、私と鬼島警部の中で疑問点は概ね解消されたが、同時に新たな問題も浮上していた。
まずは、高梨が言っていたように、私に対して心理テストが有効であるかどうか、という点についてだ。
彼女は先程、『神牙さんの結果は、とても興味深いものです』と言っていた。しかし、だとすればそれは本来の私の心理状態が彼女にとって興味深いものではなく、あくまで『その者』が用意した架空のプロフィールを持った人物像に彼女が興味を持ったということになる。
まぁ、『その者』が初めからそれを狙ってそのようなプロフィールを私に寄越してきたのだとしたら…さすがと言っておこう。
結局、私達の質問に対し、全ては明かせないもののある程度は正直に答える、というような感じ高梨から回答を得た。私としては、もし何かしらの問題が生じれば、鳴海刑事達や『その者』達に連絡すればいい。少なくとも……鬼島警部だけでも、この施設から脱出できれば、それでいい。
そう思いながら、隣にいる鬼島警部の顔を見ると、険しい表情のまま資料に目を落としていた。おそらく、彼女の中では何らかの思惑があるのだろうが、それを私に悟らせるつもりはないようだ……私は高梨に対して、テストを受けると伝えた。
「ふふ、うれしいです」
「……」
高梨とは対照的に、鬼島警部は今すぐにでも私を部屋の外に引きずり出さんばかりの形相だ。私は高梨に、テストは今受けるのか質問した。
「今から受けて頂いても構いませんし、明日でもいいですよ」
……私はそこで、今日テストを受けることを高梨に伝え、隣に座る鬼島警部に、今日は先に帰っていいと伝えた。
「……そう」
彼女はしばらく、悩んだフリを見せながら私が考えを改めるのを待っていたようだが、やがて諦めたようにそう言った。
「よろしければ、テストが終わった後に我々がお送りしますよ。この辺りは森ばかりで、国道まで出るのに苦労しますから」
私は高梨に礼を言って、彼女達と共に部屋を後にした。
「それじゃ……」
そこで、私は鬼島警部と別れた……もし、この後私に何かあっても、彼女ならどうにかしてくれるだろう。
私はそのまま高梨に連れられて施設のさらに奥へと進み、『関係者以外、立ち入り禁止』と銘打たれた表札が掲げられた鋼鉄製の扉の前に来る。
「皆さんはここまでで大丈夫です」
「わかりました、院長」
そうして、高梨は三河を含む数人の人間を立ち去らせる。残ったのは高梨と白衣の男、そして私だけだ。
そして、私達はその扉の中に入った。すると、今まで聞こえてきた院内の喧騒はパタリと鳴りを潜めて、静謐な空間が広がっていく……見たところ、ここは物置のような場所のようだ。
私達はそのままリノリウムの廊下を進み、行き止まりにある『特殊措置室』と銘打たれた扉を高梨は開けた。すると、そこは下へと続く階段になっており、彼女達は迷うことなく降りていく。
……施設の偵察が甘かったようだ。地下施設までは肉眼の偵察では確認できなかったし、通院してからも、ここまで立ち入ることはなかった。まぁ、今更後悔しても仕方ないので、私も彼女達と共に階段を降りる。
そして、階段を降り切ってしばらく廊下を進むと、目の前に丈夫そうなスライド式のドアが見えた。
高梨は白衣のポケットからカードを取り出し、ドアの横に見える装置にかざした。すると、ドアは『ポンッ』と高い電子音を鳴らして開いた。
どうやら、ここからセキュリティが段違いに高くなりそうだ……高梨達に続いてドアを通り抜けた私は、そう思った。
そのまま彼女に付いて行く……横目で周囲の状況を探るが、どこも似たような造りのドアが連なるばかりで、このフロアがどのような役割を持った場所なのかは皆目見当もつかなかった。
「ついたわ。ここです。どうぞ」
そう言って彼女が手招きする部屋に、私は少し覚悟を決めて入る……室内は、まるで取調室のような空間だった。
「こちらのお席に座って頂けますか?」
私は高梨の言うとおりに、指定された席に座る。
その後、高梨はついてきた職員達と何か話しているが、小声の上に専門用語が飛び交って、私には理解できなかった。だが、『ちょっと待っててくださいね』と高梨がその職員達と共に部屋を出て数分後、高梨は白衣を着た見知らぬ男性と共にやってきた。彼のその手には小さなアタッシュケースが握られている。
男性は高梨の方を一瞥すると、私の方へと向き直った。
「こちらが、テスト用紙になります」
男性の口調は丁寧で優しかったが、その声音からは有無を言わさぬ強い圧力のようなものを感じる。常人ならば、ここですでに逃げ出したいと考えるだろう。
「では、そのままの状態でリラックスしてください」
私がうなずくと、男性はそれを確認したのちに部屋の外に出て扉を閉める。
「準備が出来ましたら、声をかけてください」
部屋に残った高梨がそう言って、私の対面に机を挟んで座る。私は準備できたと簡単に伝えた。
「それでは…始めてください」
高梨の声を合図に、私は特に気にすることなく、答案用紙に思った通りの言葉を書き込んでいく……が。
『今までの人生で一番後悔していることはなんですか?』
この問いに、私の手は止まってしまった……あらかじめ、与えられたプロフィールに沿った答えを書けばいい…だが、頭では分かっていても、私の手は一向に動かない。まるで、何かの呪縛に囚われたかのように……。
『家族が亡くなったこと』
結局、私は素直に答えたが、瞬時に消しゴムで答えを消そうかと迷った。相手が心理学のプロである以上、自分のことを素直にさらけ出すのは危険だ……そう考えて手を止めていると、突然、部屋の外から物音が聞こえてきた。それはまるで、誰かが暴れまわっているかのような、激しく乱暴な音だった。私は驚きながらも咄嵯に身構える。高梨も同様だ。
何が起きているのか分からずに少し混乱していると、不意に扉が開いて男が入ってきた。先ほどの男だ。高梨は男の姿を見かけるなり詰め寄るように話しかけた。
「ちょっと、いったい何を考えてるんですか!?」
おそらく、私のテストを邪魔されたと考えているのだろう。高梨が語気を強めると、白衣の男は困惑しながらも弁解を始めた。
「すみません、じ、実は、施設に侵入者が――」
侵入者――不穏なワードを耳にして、私の脳を一気にドーパミンが満たすのを感じた。同時に、今ここで本性を露わにして高梨や男を無力化するか、それとも、このまま無害な精神疾患持ちの人間を演じるか……私がそう考えている間も、部屋の外から漏れてくる様々な異音は徐々に大きく、こちらに近づいているような気がした。そして……。
「きゃっ!」
高梨が小さく叫んだと同時に、部屋の外に立っていた男性は頭部が弾かれたようにして倒れこみ、ほぼ同時に、私達がいる室内に二つの物体が投げられた。
閃光手榴弾に催涙手榴弾――私がそう認識した時には、すでにその二つの物体は爆発し、室内を閃光と爆音、CNガスが満たしていく。
「きゃーっ!!」
その現象に高梨は悲鳴を上げ、私は咄嗟に椅子から滑り落ちるようにして床に膝立ちになり、机を盾代わりにした。その瞬間、私は目を閉じて息を止めた…この状態でも、なんとか戦闘は行える。
周囲の様子を探るために気配を察知しようとするが、苦しむ高梨と部屋の外にいる数人の気配以外は感じない…どう考えても、この施設は今襲撃されていると考えるの妥当だろう。
考えられる可能性としては…『その者』が寄越してきた部隊の仕業だろうか?
だが、もし違っていたら……? 『その者』ではなく、『組織』のどこか別の部署や派閥が派遣してきた部隊だったとしたら……?
もし後者ならば、高梨に私の正体を明かすことを承知で、彼女を連れてこの施設を脱出し、あわよくば鬼島警部と合流する…? かなり厳しいだろう。
「っ!?」
そのようなことを考えている間に、室内に人が入ってきた。
だが……相手は一人のようだ。しかし……目を閉じていてもわかる……今、私の目の前にいる相手は、途方もなく強い。恐らく、今まで戦ったどの敵よりも……!
「ごほっ、ごほっ! い、いったい、何が――」
高梨がいる手前、下手に相対するわけにはいかない……無力なふりをするのがいいだろうか…だが、もしそれで襲ってきたら……。
私が思考している間も、目の前にいる存在は強烈は気配を持ってその存在を知らせている。まるで、自分の存在を誇示しているかのようだ。だが……なぜか、その人物からは殺気のようなものは感じない…いったい、何が目的なのだろうか?
「……」だが……その気配は、突然消えた。そして――。
「もう、大丈夫よ」
「っ!?」
いきなり、私の右手に何者かの手が重ねられる。それと同時に、気配も再び戻った。どうやら、この気配を醸し出す主は私の手を握っているようだが……その、少し低めの女性の声は、どこか聞き覚えがあり、不思議と安心する声色だった。
「だ、誰っ!? 誰なのっ!?」
これまでの余裕の態度が嘘だったかのように、高梨はわめき散らす……気配の主はそれが嫌だったのか、その周囲の空気に不穏な気配を感じた。
「少し、静かにしていて」
「うっ……」
……打撃音や銃声は聞こえなかった…物理的な手段ではなく、何か霊的な、非接触の方法を用いて、この者は高梨を気絶させたのだろう……だとすれば、相当な手練れだ。
私の手を握る相手は……そのまま……おそらく、私を見つめたまま…手を握っている…まるで、久しぶりに再会した家族との別れを惜しむように……自分でもなぜそのように考えるのかは分からないが、私にはそう思えてならなかった。
「……ここから先は、一人でも大丈夫よね?」
突然、相手は私にそう聞いてきた。私は……いつもの私らしくなく、その問いに戸惑いと迷いの感情を露わにしながら頷いた。
「……偉いわ。一応、一階の人達はまだこの事態に気付いていないわ。あなたの仲間も、変わらず見張っていることだし……とりあえずは、あなたがこの施設を脱出したら、すべてうまくやる手筈になっているから……大丈夫よね」そう言うと、相手は私の手を握る力を強めた。
「また……いつか、ね」
そうして、名残惜しそうに私の手を放し、その人物は部屋から出ていく……やがて、部屋の外に感じた複数の気配も消え去った。
……私はそれでも、しばらく目を閉じて呆然としていた…今すぐにでも、ここから立ち去るべきなのだろうが、ふがいないことに、今起きたことが信じられずにただただ、呆然としていたのだ。
しかし、なんとか落ち着きを取り戻して目を開ける。
すると、そこには私の手によって荒らされた室内と、若干のガスの臭い…そして、気絶して倒れている高梨の姿があった。部屋の外を見てみると、白衣の男も同じく気絶している。
私はこの隙に乗じて、この施設から脱出することにした。来た道を戻り、階段を上がって一階へ戻る。そこでも、誰も私を追ってくることはなく、地上ではいたって普通の日常が送られていた。
「あら、神牙さん」
――しかし、受付を通ろうとした時、そこで事務作業をしていた黒石に話しかけられた。私は内心焦りながらも平静を装った。
「もうお帰りですか? 一応、この施設の通院患者さんは閉館時間までご利用いただけますよ?」
……私は彼女のその質問に、あいまいな調子で今日は帰ることを伝えた。
「そうですか……それじゃあ、気を付けてくださいね」
……私は彼女の言葉に礼を言って、その場を後にする。無意識に駐車場に鬼島警部の乗る車がないか確かめたが……見つからなかった。
私は歩きながら鞄から専用タブレットを取り出して『その者』と連絡を取る。
『……』
だが、当然ながら返事がない。当たり前だろう、この辺り一帯は妨害電波が発出されて通信機器は使えない。いったい、私は何を考えているのか……。
自分の考えに嫌気がさしていると、なぜか通じるはずのないタブレットから『ポンッ』と軽快な音が流れた。
『どうした?』相手は『その者』だった。
(電波が通じた?)
私はそのことを不思議に思いつつも、奴に簡潔に説明をした。
『トラブル発生。サルスの施設は早急に制圧してほしい。あと、迎えの車を寄越してくれ』
『分かった。すぐに対応する』
それから、私はタブレットを持ったまま、森林地帯の一本道に入る。最悪なことに、すでに日が傾きかけていた。すぐにでもこの一本道を抜けて国道に出ないと、最悪ここで迷子になる。それはまずい。
そのまま、しばらく速足で歩いていると、国道側から数台の自動車がやってきた。車種や塗装の色は様々で、まるで業者の行列のようだったが、私はなぜだかその車列を警戒して森の中に身を寄せた。
車列はそんな私を気にすることなく高速で通り過ぎていくが、最後の二台だけが、私の目の前で止まった――。
私は反射的に鞄から使えるものがないか探すが、潜入調査のためか、いつも持っている武器や装備は持ってきていない。それでも何かないかと探っていると、停まっている二台のうち、後ろ側にある車の助手席側のドアが開く。警戒しつつその車内を見ると――。
「こんばんは」
……その女性の顔には、見覚えがあった。確か……『怪物と因習』事件で仁科祥子を引き渡した時に出会った女性だ。相変わらず、薄茶色のボブカットにされた髪型やダークグレーのスーツ姿は変わらない。
私が訝しんでいると、専用タブレットに着信が入った。
『あの施設にはタケミカヅチを送った。君には迎えの車を』
……この女性には見覚えがある。しかも、『その者』の配下の者として……少なくとも、危害を加えられることはないだろう。
『ありがとう。助かった』
『どういたしまして』
その通信を最後に、私は女性が運転する車に乗り込んだ。
私が乗車すると、女性は無言で車を発進させた。前にいた車は私の護衛だろうか、ぴったりとくっついてくる。やがて車は国道に出るので、私は彼女に、行き先は知っているか尋ねた。
「はい。ここから少し行った先の住宅街にあるアパートですよね?」
……どうやら、問題ないらしい……せっかくだから、もう少し質問してみようか?
私は女性に、上司には他に何か頼まれていないか尋ねた。
「いえ、私はただ、あなたがあの辺りを歩いているはずなので、迎えに行って拠点に送り届けるように、と……」
……必要以上の情報は与えない。実に、『その者』らしい手口だ。
私はしばらく緊張した状態で過ごし、やがて目的地のアパートにたどり着いて車が停車すると、居心地悪そうに車を降りる。
そして、女性に対して上司に助かったと伝えてほしいと、なるべく柔和な態度で伝えた。
「……もし出会ったら、そう伝えます」
女性は、少し困ったような笑みを浮かべた。私は車のドアを閉め、二台の車を見送る……どうやら『その者』は、自分の部下ともほとんど接触しないらしい。
何はともあれ……あの施設をめぐる、オモイカネ機関の任務は終わった。駐車場に目を向ければ、今回の任務のために借りた鬼島警部が運転してきた自動車がある。
私はそのままアパートの階段を上り、自室の扉の鍵を開けて中に入る。
「……よぅ」
……リビングのソファで横になっていた鬼島警部は、私の顔に目を向けた後にゆっくりと近づいて、不意に私の頬を指でこすった。
「……なんとか、終わったみてぇだな」
そう言って微笑む鬼島警部に対して、私は彼女と同じように微笑んだ。




