第四十一話 推し
「ごめん、手が滑った」
「べ、別に気にすることはない。次から気をつけてくれればいい」
「何の問題もない。目で追うことができない速度でスプーンが飛んできたが、当たらなかったから問題ない。壁の装飾が変わったようだが、俺たちに変形した箇所はなかったから問題ない」
調理実習に油断は禁物だな。スプーンに呆気にとらされることも、動体視力を鍛えようと考えることになるとも思っていなかった。それに何より、あと数センチ横に立っていたらスプーンが眉間に刺さっていた、たった今そこにあった危機が無視できない。
「前回の調理実習はどうしたんだ?」
「鮭のムニエルだったの。何でか分からないけど、今みたいに先生がじっと見ていた」
「調理はどのパートを?」
「火を通す時間と盛り付けの担当」
「それは、特に問題はなかったか?」
「だいじょうぶ、だったと思う。先生は安心した顔だった」
火や包丁を使う以上、調理実習でもある程度慎重にはなるが、いまだかつてここまで神経をとがらせたことがあっただろうか。いや、ない。
「混ぜ終わった」
「では、肉に火を通すとするか」
最高の注意を払うパートであったタレ作りの後は、俺とサファイアが中心となって、紙に記載された手順をそつなくこなした。
「二人とも、手際良い。私も料理、教えてもらいたい」
「そ、そうだな。すぐには難しいかもしれないが、俺たちの覚悟が決まったらいつでもいいぞ。そう頻繁に、ってのも厳しいだろうが」
「じゃあ今度、お願いする」
「私たちに任せておけ。あくまで、料理の練習だ。そう、決して戦闘スキルを強引に上げる時間ではない」
最後の一言を強調したいが、うれしそうに笑うクラースを前にして、そんな罪深いことは俺たちにはできない。
それと、家庭科の先生とは一度よく話したい。斜め後ろで深々と礼をしているが、料理の練習を俺たちに丸投げされるのは困る。そもそも、練習を完遂する前に大切なものを失いかねない。
そのあたりのことを、よく先生に理解してもらわねば。いや、理解はしているだろうから、調理実習という現実から目を背けさせないようにしなければ。
教師という仕事は、なかなか苦労が絶えないな。それでも、現実を直視させることに変わりはない。
「先生、豚の生姜焼きが完成しました。ちなみに、次の調理実習は何を?」
「次回は趣向を変えてわらび餅の予定です。その次からは、いよいよ皆さんがメニューを考えて作ることになります」
「わらび餅か。俺は作り方も想像つかないが、クラースは分かるか?」
「作ったことはないけど、家でよく出るの」
「それなら、次の調理実習はクラースに中心となってもらおう」
「え!?」
「そうだな。私もわらび餅を作った経験がない。それに、今回はクラースを活躍させることができなかったからな。次回は頼んだぞ」
「期待に応えてみせる!」
「......あの~」
「お、先生がアドバイスをしてくれるらしい。よく聞いておけよ」
「え! そ、そうですね、アドバイスです。いいですか、クラースさん。わらび餅を作るうえで、包丁は必要ありません。特別に、力を加える工程もありません。だから、どうか身構えないでくださいね!」
「分かったの。ありがとう」
「いえいえ。それでは、別の班も見てきます」
どれだけ怖かろうと、あの先生は家庭科を受け持っている。その先生が、頑張って取り組もうとする生徒のやる気を阻害できるはずがない。
これぞ、料理は道連れというやつだ。
「はい、どの班も完成しましたね? では、試食の時間です。次回につながるように、感想や反省点をきちんと記入してください」
二枚の豚肉を議論の末に三等分して、早速一口。
「おお、ちゃんと豚肉の生姜焼きだ。いい意味で、全く変わらないな」
「私がいれば、このレベルへの到達は約束されていたな」
「今回お前がしたことは、火加減の調節くらいだろ」
「それを言うなら、お前だって同じようなものだろ」
豚肉の生姜焼きを作るうえで、肝心な工程はタレ作りだ。それが済んでしまえば、豚肉を火にかけ、それからタレを加えるくらいのものだ。
しかし、その重要な工程を、身の安全と純真な瞳を確保するためにクラース一人に任せたところ、調理実習特有の達成感はかなり薄まってしまった。もちろん、無事に生き残ったことへの達成感であれば言うまでもない。
「どうした、クラース? 早く食べないと冷めるぞ」
「私、こんなに料理に関われたの初めて。それに、二人との調理、すごく楽しかったなって思って」
「その気持ちはありがたく受け取るが、やはり料理は作りたてが一番だ。一番おいしい瞬間を逃すなよ」
「うん、いただきます」
調理実習の達成感はここにあったな。こんなにきらきらとした瞳を見れるとは。
クラースがラノベにでも出てきたら、間違いなく推しになる。クラースグッズが出ようものなら、確実に観賞用、保存用、布教用のために一つにつき三つ買う自信がある。
落ち着こう。かなり危険な思考に陥っていた。三次元にいる存在を、もし二次元にいたらという考え方は、非常にまずい。どこか、大切なものが欠けていってしまう気がする。
「おいしい。二人のおかげ。ありがとう」
欠けてもいいだろ。何かを得るためには、何かを犠牲にする必要がある。この眼福を味わえるなら、失うことも怖くない。
それに、どうせ俺は見る専だし。人として失ってはいけないものは、きっと残るだろう。
この笑顔が見れるなら、次の料理も楽しみになっちゃうな~。
「ごめん、手が滑った」




