第二話 名付けの時間
後には引けないという場面は、誰にでも訪れるのだと思う。
たった今、俺も現世に転生するか、異世界に転生するかの究極の二択に迫られている。
名付けの経験といえば、ゲームのキャラクターを相手にしたくらいだ。それも、ただ見た目から連想した、食べ物の名前を付けるくらいだった。
だが、今の状況は、そんな軽い気持ちで乗り切れるものでは到底ない。ここでは、インスピレーションに依存することも、入力ミスも許されないような場面だ。どこかで気を抜けば、現世に石ころに転生する未来だってあり得る。
つまり、いい加減チョコケーキに伸ばす手を止めて頭を働かせろということだ。
この空間で、俺が案内役さんに対して抱いた印象は一つだ。とにかく、つかみどころがない。
地球で蓄えた二次元についての知識を総合しても、俺の相手には全くお約束が通じない。
まず何よりも、姿が見えない。声からして、女神よりの存在だとは分かる。しかし、どれだけ目を凝らしても、影すらも見当たらない。
それでも、説明を淀みなく進めていくところに、不可思議だとか正確というイメージが浮かぶ。
しかし、それほど単純な相手ではない。俺がお願いを聞き入れる返事をした際には、僅かな間ではあったが、明らかに声のトーンと話す速度に変化が生じた。休日にお出かけすることを知った子供と比べたら、百分の一程度かもしれないが、案内役さんのオーラにあどけなさが混じった、ような気がする。さらに、名前を褒めたりケーキと紅茶でもてなしたりもする。
これらは全て、紛れもなく案内役さんの個性だ。そして、その個性のどれもが、俺に大きな印象を受けた。ならば、それを全て総合して一つの名前に落とし込むだけだ。
「決まったぜ、案内役さんの名前」
「では、聞かせていただきます。あなたが私に対して抱いたもの、それと結び付けてあなたが考えてくれた名前を」
この緊張は、まもなく異世界に転生することへの期待の表れか。それとも、俺が考えた名前を本人に告げることへのプレッシャーか。その両方なのか。
いずれにせよ、印象を素直に名前に結びつけただけだ。ここで縮こまるのは相手に対しても失礼だろう。だからこそ堂々と、背筋を伸ばして前を向き、そして名前を告げてやろうじゃないか。
「よく聞け、案内役さん。あんたの名前は、ハクだ」
「......理由をお聞きしても?」
「空間と声、それに雰囲気だな。俺は霧のせいで何も見えないから、案内役さんのイメージは今もまだ不思議なものだ。ただ、俺に対する振る舞いから穏やかな性格が垣間見える。さらに、穏やかな中にどこか子供らしいところも混ざっている。それもまた個性の一つだ。恐らく、俺はまだまだ案内役さんのことを分かっていないだろう」
「これらの感想を総合すると、何の個性も感じ取れないようで、実のところいくつもの個性を有している。ただ、俺が完全に理解することなんざ到底不可能だ。だから、何にも染まっていないようで、何にでも染まる可能性を感じる。そこで、俺は白を連想した。だが、案内役さんは、そう単純な存在じゃないだろうからな。そこで、漢字の白を音読みにした。ゆえに、俺はこれからこう呼ばせてもらうぜ、ハク」
堂々と、かつそれらしい内容に仕上げたつもりだったが、何の返事も帰ってこない。もしかすると、結局のところ霧が由来だと推測して不満を爆発させたいのかもしれない。霧の動きも、かなりせわしくなっている。
「もし嫌なら、また考えますけど」
だから、どうか生まれ変わりはご勘弁を!
「ハク。染まっていないけれど、何にでも染まることができる」
相手の口から言われると、やたらと恥ずかしい。それと、根拠が絹豆腐のようなもろさであることを、再認識されられる。
「私は、私はとても感動しています。あなたへの印象もそうですが、蒼と同じく色を表す言葉。それを私に付けてくれたことに」
「気に入ったならよかった。恐縮だよ」
「ハク、大切にさせていただきます」
機嫌を損ねなかったことに安心していると、魔法陣の発光が一段も二段も強くなっていた。それに感覚的にも理解できる。足元の魔法陣から魔法が発動する。
「どうか、あなたに幸あらんことを」
「世話になった。ハクのおかげで第二の人生を始めることができるし、感謝もしている。それじゃ、俺を見守っといてくれ。それと、ケーキと紅茶のセンス、誇っていいぞ」
まさか十六歳で最初の人生が閉幕して、すぐに第二の人生が開幕するとは。かかってこい異世界。俺は死すら経験した男だ。
「では、また」
その台詞を最後に、俺は霧の空間から解放された。そして、ついに
「やってきました、異世界!」
そうそう、この感じだよ。一面に広がる青空、軽く整備された石の道、初めて生で見る種族たち。これぞまさに異世界転生、そのスタート地点。
いざ第二の人生、その最初の一歩を踏み出す! 行き交う人からすれば、これはちっぽけな一歩だ。だが、俺からすれば偉大なる一歩に他ならない。俺はこの一歩を忘れない。
そのはずだった。俺の注意の矛先は一歩を刻んだ右足、ではなく左足だった。
なぜ、俺は偉大な一歩をあっさりと済ませてしまったのか。どうして、意識を傾けなかったのか。その理由は実にシンプルだ。
「たべもの、たべものをめぐんでくれ」
そう言って、俺の左足首を掴んだ金髪碧眼がいたからだ。