幸せの作り方
人は周りに誰も居ない独りになると、周りと比べたがる。
なのに、人混みにまみれて周りに人がたくさん居ると途端に周りと比べたがらなくなる。
なんと、我が儘な生き物なのでしょうか。
家に居ると、余計な事を考えてしまう。
外に出ることでそれが何の解決もしていないのに、考えないようにしてしまう。
そんな日々を送ることで満足の積み重ねを今日も一つ得た気持ちになる。
家の中で過ごすことによって得られるものもあれば、制限されて出来ない行動もある。
かといって、外に出れば無制限に行動できるわけでもない。
人は有限の生き物であり、常に倫理や道徳、法によって制限されている。
なのに今さら制約された気になって、不満や鬱憤の捌け口を探す旅に出てしまう。
そうやって、家の中で流浪する迷い子なのだ。
だが、それらによって過ごしやすい環境になっている事もあることに気付く。
無制限な行動ともなると、無秩序が付きまとう。
足手まといのそれを払い落とすには、制約はどうしても必要だ。
制約というものは、いい加減ですると過ごしやすくなるものなのだ。
幸せの作り方とは、制約の作り方とも通ずる部分があるのかもしれない。
計り知れない、未だかつて知らないそれを作ろうとすること自体が、陳腐な荒唐無稽の足枷となる。
その結果、前に進む足取りが重くなった人々の有象無象の動機たちが焦りもせずに人々を留めることは容易に想像ができる。
そんな人々を包み込むような優しさで文句も言わずに抱き締めてくれるものこそが『おうち』である。
人々は、苦悩して苦労して疲弊して徒労して四苦八苦して、哀しんで憂いて、色んな感情や疲労を外から家に持ち帰ってくる。
そんな冷えた心を温めてくれる相棒のような頼もしい存在が『おうち』というものだ。
人々は、おうちによって助けられている。
これは、今一度おうちに対しての向き合い方を考え直す良い機会なのかもしれない。
家の中で過ごす時間が増えて、外に出掛けたり遊んだりする時間が減ってしまった事によって不満を感じてしまう事もあるかもしれない。
だが、外に出ることによって鬱憤を感じないこともない。
また、感じた鬱憤を晴らす事や、溜めた不満を解消することをレシピとして書き留めている人もいる。
幸せとは不幸せを感じることによって、得られる不条理な代償なのかもしれない。
代償を支払わないと得られないものなのであれば、その代償の支払い方を考え直す必要がある。
代償を支払わなくても他人の代償を奪うことによって、対価を得る人も居る。
他人の不幸せを自分の幸せの肥やしにしてしまう恐ろしい生き物だ。
とはいえ、それらを否定するつもりもなく、ともすれば見方を変えると効率が良い、幸せ変換器なのである。
この世の幸せと不幸せの均衡を保つために、彼ら彼女らは今日もどこかで変換している。
だが、人々は代償を払わなくても日々無条件で代償を払っているような気もする。
寿命という制約の元で命という代償を一秒未満の単位で支払っている。
一見、支払っていることに気付かないこの最大の代償を気付く事が出来る人にだけ、特別な代償を支払わなくても幸せを感じることができるのかもしれない。
人々は、常に危険と隣り合わせという感覚を持つことによって、安心を得ている。
危険であるという認識を持っていることに安心をしてしまうそんな側面も持ち合わせている。
危険であるという認識を持っていることに安心してしまうことを危険と呼べる人間だけが、本質的な世界を見ているのではないか。
家に居る時間が多くなると、安心する時間も多くなる。人によっては、不安になる時間が多くなる。
安心の無駄遣いをしている人には気付くのが難しいかもしれないが、帰るべきおうちがあることに今日も人々は感謝する事だろう。
おうち時間によって、人々は幸せの作り方を模索しているに違いない。
レシピなどないそれを作るために今日も人々は必死に懸命にもがいている。
そして、この時間を有意義に使った者だけがそれを手にする事のできる。
人それぞれ違った手順で違った形のそれを。
今一度、時間というこの世で最も有限なものの使い方を見直すべきなのかもしれない。
それが、おうち時間なのである。
というのは詭弁である。