(番外編)対峙、山の荒神
長沼五郎三は、一度口に出した事を取り消す訳にもいかず、とある山で人身御供となって山の神を鎮める事となった。
宝治三年(西暦1249年)の事である。
長沼五郎三郎宗村は藤原秀郷の子孫である下野小山氏の分家・長沼家の更に分家、その庶子であった。
当初は「長沼」を名乗る事も許されていなかった。
父や兄も分家として、住まいを与えられた地を苗字として使っていたのだ。
文献に「長沼」と書かれたのは、寺が清書した際に過去に遡って名を書き直したのである。
最初は苗字抜きで「〇〇住人、五郎殿、太郎殿、五郎三郎殿」とされていた。
つまり、系図にも載せて貰えない武士が、長沼本家に認められる功を立てたという事になる。
それこそが三男・五郎三郎宗村の「山の神鎮撫」であった。
宝治年間は、各地で怪異が相次ぎ、人々はそれを戦乱の予兆と捉えていた。
……平和な時期の方が珍しいのだから、「戦乱が起きる」と言い続ければ十年以内くらいには当たりそうなものであったが。
ただ、この時の戦乱は思った以上に大きくなる。
三浦氏を族滅させた宝治合戦が勃発したのだ。
戦乱が終わっても、この下野国の山間では怪異が収まらない。
薪を取りに山に入った者が帰って来ない。
笑い声のような音を立てて山風が鳴り響き、稲が倒されてしまう。
女の腹が膨れ上がるものの、そこから産まれるのは紐のような虫で、女はその後に死ぬ。
そういった事が相次ぎ、生贄を捧げねばという話になっていたのだ。
そこに、百姓たちからはどういう経緯は分からないものの、村外れに住む貧乏武士の三男坊が自ら生贄として名乗り出た。
この地を含む荘園を治める地頭に、人身御供の報告が行く。
なお、これより前に定められた御成敗式目で、鎌倉に届け出無しの無断出家は禁止されている。
上野国の大豪族・新田政義は無断任官要求、京都大番役の役目放棄での無断帰国に、この無断出家が重なった大三元への一発放銃で、所領没収、惣領権没収という処罰をされている。
宗教絡みでいうと、水垢離もきちんと届け出をしないとしてはいけない。
普通に死ぬからだ。
つまり、禁制を出さないとやってしまう人間がゴロゴロいたという証拠である。
五郎三郎は、まず父に詳しい理由を言わないまま、自分が人身御供になると告げる。
鎌倉武士である父は、一々理由等聞かない。
「立派に死ね。
山の神を叩きのめせ」
と励ました。
兄は密かに喜ぶ。
元々、父が村娘に産ませたこの弟は、ある程度の成長後に出家の予定であった。
だが、次男夭折により庶子であるこの五郎三郎が残る。
五郎三郎という名乗りも、暫定的なものであった。
父の小五郎、署名時は小を取って五郎としていたが、その三男という事で五郎三郎。
次男が死んでいるのだから、又次郎とかにしても良かったのだが、そうしないテキトーな名乗りのままとされた。
そんな軽い扱いの弟が、山の神を鎮めるという大役に挑む。
この功で、今は父の死後返却の約束で借りている田畑が、正式に自分たちの所領となるかもしれない。
そして、その所領を分割相続する筈の弟は、生き埋めとなるから相続から外れる。
兄弟というのは、合戦時には嫡子を守る郎党にもなるし、万が一嫡子が討たれた場合の替えにもなる。
相続の時までは居た方が良い。
だが長子である彼には、既にあと数年で元服する庶子もいるから、戦力や労働力は然程落ちない。
その上で、立派な弟を持ったという事で、同じ下野の大武士団足利党の一員から正室も貰える事となった。
この妻に嫡子が産まれたら、もう自分が死んでも家は残る。
相続問題が起こる前に邪魔な弟が消える上に、家格が上がる。
こんな美味しい話はまたとない。
父は淡々と、兄は嬉々として、同じ小山党の地頭にこの件を報告。
出家・生入定(即身成仏)に相当する案件であったが、
「よし、許す!」
と鎌倉へは事後承諾として、さっさと小山一族で決めてしまった。
この天晴れな行動で、五郎三郎には初めて「宗村」という名が正式に与えられる。
それ以前の諱は、実は不明なのだ。
民の為に自ら生け贄となる行為を執権北条氏も褒め称えた。
それで長沼家の「宗」に加えて、時の連署・北条政村の一字「村」を貰うという破格の改名となった。
更に今まで許されなかった「長沼」の苗字も許された。
(もう引くに引けない。
止めたなんて言ったら、父と兄に殺される)
そう思ったかは知らないが、周囲が手際良く死ぬ為の手続きを進めるから、あれよあれよという内に人身御供として山中に埋められる事となった。
小山本家からは名刀である小刀と多数の破魔矢が、縁続きとなった足利党棟梁・足利義氏からも多数の絹や数珠等が、遅ればせながら鎌倉の連署・北条政村からも甲冑や旗等が埋葬品として贈られて来た。
生き埋めとされ十日後、意識が朦朧として来た中、ついに五郎三は神の姿を見る。
「お前は食い応えがありそうだな」
そう言って来た相手に、問答無用で小刀を突き刺した。
小刀と言っても、武勇の秀郷流の得物らしく、重ねが厚い後世の鎧徹しに近いもの。
しかも大和国千手院派の作だという。
(秀郷流からしたら、山城国の三条派とか粟田口とかは、刀身が細くて戦闘用ではない模様)
「おのれ、山の神にそのような事をして、ただで済むと思うな」
「如何する?」
「麓の者どもに祟りをなさん」
「情けなや」
「何だと?」
「其方に手傷を与えしは、下野住人小山朝臣長沼五郎三郎宗村に御座候由。
わしに臆して祟りを為さず、百姓どもに八つ当たりとは、これ如何に?
もしや神に非ざりて、ただの妖か?
わしを食すと申したが、まずそれをせんとや」
「こな悪口三昧、許し難し」
こうして山の神と生き埋めとされた五郎三は戦いとなる。
そして、最近やさぐれていたとは言え、山の神もまた鎌倉武士同様の性格であった。
「面白い、実に面白い。
我にこうも抗する者など、久しく居らなんだ。
百姓どもに祟りを為すのは止めた。
お前が居れば、我は退屈せぬ。
我を楽しませる為、お前は決して死なせん。
肉体は朽ちようと、決して成仏等させぬ呪いを掛けた。
我と永劫に戦い続けよ」
こうして山の神に不死の呪いを掛けられた長沼五郎三だったが、これはこれで本望であった。
「有り難し。
わしは魂魄となろうとも、死なぬのじゃな」
「何を死とするかは、その者の気の持ち様じゃ。
お前は死なぬ。
わしと悠久の時を戦い続けるのじゃ」
こうして長沼五郎三の肉体は滅ぶも、魂はその場に残り続け、山の神と七百年に渡り戦い続けた。
お互い、殺しても死なないのだ。
気兼ねなく殺し合える。
こうして長い時間の中で長沼五郎三の武術の腕は上がり、山の神より神性も伝染させられ、強大な存在となっていく。
そして、生き埋めとなった上に、宗教的な法で封をされている長沼五郎三の霊体は、普通の霊体では有り得ない構造となっていた。
まずは死神が訪れていない為、魂がそのまま残っている。
残留思念だけの霊とは、その時点で存在感が違う。
さらに、肉体は朽ちて粉となり、粉も更に微粒子となって目に見えないものとなったのだが、行き場の無いその粒子に霊体が宿る。
つまり、目に見えないだけで、この霊体は実体を持っているのだ。
その為、新しい記憶をどんどん注ぎ足す事が可能であった。
こうして七百年を過ごした山の神と長沼五郎三であったが、先に山の神の方が消滅する事となる。
原因は人間が山を恐れなくなった事と、それに伴う山の破壊等である。
山の神秘性、人々の畏怖、山に暮らす様々な生き物の生命エネルギー等が長年溜まって出来た神だったが、それらが無くなる事で「山の神」と人格での神性を維持出来なくなったのだ。
「五郎三、我は消えるようじゃ。
お前が我と遊ぶようになってから、我は満ち足りておった。
消えるのは口惜しいゆえ、我が形見をお前に授ける。
甘んじて受け取れ。
さすれば我は消えても、我そのものは死なぬ。
山の神という恵みや祟りをもたらす存在は消えても、我という一柱のモノはお前と共に在り続けようぞ」
それは山の神が持っていた超常的な能力であった。
人々の信仰が無くなり、相当弱体化していたが、それでも人間の能力を超えた贈り物である。
五郎三は礼を尽くしてそれを受け取った。
「お前はこの先、如何する?」
消えゆく神の問いに、長沼五郎三は答える。
「何処かの国の守護とならん」
鎌倉幕府は既に存在していない。
守護なんて役目は既に消滅している。
しかし、七百年以上を鎌倉武士として過ごしたこの霊は、世俗的な新しい情報を取り入れる気が全く無く、今でも鎌倉時代が続いているような感覚であった。
また神や霊には時間というものは無意味なもので、あれからどれだけ時間が経ったのかは気になっていなかった。
「そうか。
満願成就せん事を」
神はそう言い残して消滅した。
いや、会話したり意思を持つ人格が消えただけで、神格は長沼五郎三の中でいまだに存在し続けている。
単に信仰されなくなった「山の神」が消えただけであった。
そして長沼五郎三は、一国の守護には成れなかったものの、子孫にあたる者の「守護」霊として、今や21世紀の鎌倉武士ライフを満喫しているのであった。
なにせ不死の呪いはまだ有効だ。
霊だが生きているから、ライフで間違ってはいない。
おまけ:宝治合戦にて
北条時頼「三浦と戦う気は無い! これが誓紙だ」
三浦泰村「良かった、本当に良かった……」
安心して、朝餉を吐き戻したと言う。
安達泰盛「誓紙とか、合戦が始まったら関係ねえ!
鶴岡八幡宮突っ切って、三浦の館を攻めるぞ!」
集まった武士たち「流石安達殿、やって欲しい事を平然とやってくれるぜ!
そこに痺れる、憧れるぅ!」
こうしてなし崩し的に開戦。
北条時頼「政所、急ぎ合戦を止めよ!」
北条政村「無駄だ。
政所別当の二階堂殿からして三浦を攻めてる」
こうして合戦は止められず。
三浦泰村「頼朝公廟所の法花堂に立て篭もるぞ。
あそこなら手を出せない筈だ!」
だが、あちこちで三浦攻撃の火の手が挙がる。
大半は「戦だ、ヒャッハー!」なのだが、三浦泰村には父・三浦義村以来のあれやこれやで三浦が憎まれているという自覚があった。
そして、心が折れてしまい
三浦泰村「皆で死のう。
ここで死のう……」
と呟き、各地で抵抗する一族へも集合と自刃を命じる。
こうして三浦本家、族滅。
武士たちはいきり立った。
「手柄立てられない最期を迎えてんじゃねえよ!」
「どうする?
これじゃ恩賞に預かれねえ。
ここまで来た手間分だけでも貰いてえものだ」
「上総の千葉家は三浦の親族だ。
あそこを代わりに攻めようぜ」
「おめえ、賢いな!
よし、三浦の縁者を殺そうぜ!」
「気に食わない奴を殺して、三浦の縁者って事にして恩賞要求しようぜ!」
「よし、合戦継続だ!」
なお、この時期の鎌倉武士には
「恩賞として得た土地は返すから、三浦の生き残りの助命を」
「恩賞は寺社に寄進し、三浦の菩提を弔いたいと思う」
というのも出て来ていた。
しかし、そういうのは少数派。
多数派である長沼の庶家では
小五郎「殺した奴が三浦と無関係だと知られた……」
太郎「敵味方定かで無く仕方ないと釈明しておきました」
五郎三郎「恩賞無し、むしろ処罰されて苦しくなった。
面白くない、酒を飲んでくる!」
こんな感じであった。