8話 ムーンデーヴァ
肉体から魂だけが抜け出たような解放感と、水面を揺蕩うのに近い浮遊感を味わった後、意識が水面に吸い寄せられる。
瞼を開けば、幾度となく夢に見た黄金色と影絵の丘。
いつもと違ったのは、ふわりと風に乗って、花の甘い香りが漂ってきたことだった。
(今まで、風なんて吹いていなかったのに)
いや、そもそもの話、この夢を見る時に匂いまで鮮明に感じ取れたことがあっただろうか?
否、匂いだけではない。
草を踏み締める感覚が、呼吸や心音が、今ははっきりと感じられる。
一際強い風が月成の横を吹き抜ける。
前髪が目に入りそうになったので、手で撫でつけていると、視界の端で白が弾け飛んだ。
「……あ」
小さく声を漏らした月成の視線が向けられた先。
真っ白なドレスを纏った少女は、今日も変わらずそこにいた。
解けた三つ編みが風に弄ばれるのも構わず、彼女は両手を胸の前で組んで、祈りを捧げている。
月成は呼吸も忘れて、彼女の背中に見惚れる。
あまりに神秘的で、自分などが容易に触れてはいけない領域の存在だと感じたが、ここで声をかけなければ先には進めない。
「ね、ねぇ。そこで何してるの?」
ようやく絞り出せた声は、震えていて。
数日間、朝から晩まで必死に思い悩みながら用意した台詞も、全て頭から抜け落ちてしまった。
なんとも締まりのない、無様な醜態を晒す月成を、少女はゆっくりと紫水晶の瞳に映した。
初めて少女と真正面から視線を交わした月成は、まずはその白さに驚く。
身近な人間で言えば、零音も色素が白い方だが、彼女の白さは常識の範疇を超えていた。
髪も、肌も、服も、全てが均等に純白で、長い睫毛に縁取られた紫水晶の瞳の鮮やかさを引き立てている。
不思議なのは色だけではない。
小柄ながらもすらりと伸びた長い手足に、細い首と腰、全てのパーツが黄金比で揃えられた小さな顔。
無機質な美貌は、至近距離から注視しても粗のひとつも見つけられない。
容姿の美醜に頓着のない月成でも、一瞬で魅了されてしまうほどに、彼女は非の打ち所がなかった。
月成が彼女に見惚れ、次の語句を紡げずにいると、彼女の方から口を開いた。
折悪く風が吹き、葉擦れの音に掻き消されてしまったが、唇の動きで彼女の言わんとする言葉を察した月成は、両眼を見開く。
「待って、それ、どういう……っ?」
質問しようとした瞬間、再び激しく吹き荒れる強風に遮られ、月成は反射的に目蓋を固く閉じる。
風が止んだ頃、恐る恐る目を開けたときには、すでに少女の姿は掻き消えていた。
「……消えた?」
結局、訊くつもりだった事柄は何も訊き出せなかったが、少女の残した言葉が頭の片隅にこびりつく。
(一体、どういう意図であんなことを?)
しばらく考え込んだが、答えは出ない。
「……それよりも、これからどうすればいいのかな?」
少女に話しかけるという当初の目的を達成したにも関わらず、月成は未だ目覚める気配がない。
何度かバーンの名前を呼んだが、返事がない。
月成にはまだやり残していることがある、とでもいうのだろうか。
「……そういえば、この場所はなんなんだろう」
知らない場所のはずなのに、見覚えがある気がする理由も分からない。
途方に暮れて顔を上げれば、満天の星空が迎えてくれる。
景色の美しさに心が洗われる。
殆ど無意識に流れる星に向かって手を伸ばしかけて、月成ははたと思い出す。
「……ここの空、こんな感じだったっけ?」
月成の記憶が間違っていなければ、色とりどりのガラスを散りばめて描いたような、ステンドグラスの空模様だったはず。
なのに、今見上げている空は、ガラスではなく本物。
もしやと思い足元に目線を落とせば、真っ黒な草原だと思っていたものは、紫色の小ぶりな花が敷き詰められた花畑だ。
「ここって……まさか……」
月成が、今よりもずっと幼かった頃。
祖父母が療養の為に暮らしていた別荘の裏手に、星がよく見える丘があった。
花が好きな祖母がいつでも花見を楽しめるように、祖父が世界中から様々な花を取り寄せて植えたらしく、一年中何かの花が咲いている場所だった。
特にクレマチスの花が咲く一角が幼い月成のお気に入りで、祖父母の元に遊びに行った際は、必ずそこで遊んでいた。
「……そっか、あそこだったんだ。真っ黒に塗り潰されてたから、気付かなかった」
月成は、穏やかに微笑む。
幼い頃のように、花畑に寝転んで夜空に浮かぶ星々を見上げていると、ふと夜空に瞬く三日月が奇妙に歪んだ形に変化していると のに気が付く。
注視している間にも月の歪みは酷くなる一方で、最早三日月を通り越して剣のように見える。
「剣? ……剣!?」
最初はいかにも無意識に思考が口から漏れてしまった様子だったが、次に同じ言葉を口にした時には、全く異なる意味合いに変わっていた。
『……アーキソード? それがあれば壊せるの?』
『そ。幻想核……この世界の核となるものを見つけて、ブッ壊せば全部元に戻る』
バーンとの会話が電流の如く脳を駆け巡る。
アーキソードの見た目や特徴については教えてくれなかったが、恐らく一目でそれと分かるものだから、敢えて言わなかったのだろう。
月に重ねるようにして手を伸ばせば、掌にひんやりとしていて重みのある金属の感触が伝わる。
(そっか。ここは夢の中だから、物理的な距離とか関係ないんだ……)
妙に納得した気分で握り締めた剣をまじまじと見つめる。
夕陽を彷彿とさせる黄金色の刀身は、三日月を折り曲げたような奇妙な形状をしていて、刃の側に三つの窪みがあり、反対側からは二つの枝刃が突き出ている。
持ち手には植物の蔓らしきモチーフの金色の装飾が絡み付いていて、剣としての取り回しは悪そうだが、不思議と振っても重さは感じず、まるで手足の延長のように体によく馴染む。
(これが、俺の剣)
逸る鼓動。
剣を握る手が震えている。
これが、武者震いというものなのだろうか。
脳内でドーパミンが大量に放出されているのを感じながら、月成は剣を構え直した。
剣の使い方は理解っている。
生まれ落ちたばかりの赤子が呼吸をする為に泣き叫ぶのと同じくらい自然に、本能で理解していた。
切先を空に向け、一思いに振るうと、天が真っ二つに裂けて溢れんばかりの光が雪崩れ込んできた。
* * *
『……あ、起きたか!?』
目蓋を開くと、白金色の焔に包まれていて、月成はぎょっとする。
慌てて体を起こすと、焔が自分を中心に半径一メートルほどの大きさの円を描いていた。
この焔はどこからやってきたのかと視線を巡らせ、自分の体が燃えていることに気が付いた月成の顔から血の気が引いていく。
全身が熱い。
神経や骨の髄を焼き切らんばかりに滾っている焔のせいで、言葉を発することすらままならない。
体から焔が噴き出るという異常事態にも関わらず、月成はまだ冷静さを失ってはいなかった。
(痛みは感じるし、息苦しいけど……不思議なことに、一向に服や体が燃え尽きる気配はない。ということは、いつもの"発作"か)
炎に灼かれても綺麗なままの掌を観察しながら思考を巡らせるが、いくら考えてもどういう原理なのかさっぱり分からないので、諦めて目を閉じる。
考えても分からないのなら、分かるまで試せばいい。
元々、考えるよりも感じる方が性に合っている。
この後どうすればいいのかは直感的に理解していた。
まずは大きく息を吸い込んで、心を落ち着かせる。
(――大丈夫。この焔は自分に害を与えない)
半ば暗示じみた念で、熱さや痛みといった原始的な危険信号を己から切り離す。
これは、今は不要なものだから。
スッと波が引くように苦痛が消え、月成は安堵に胸を撫で下ろす。
昔から魔力の暴走には慣れている。
体から焔が噴き出す様子は何度見ても慣れないが、実際に体に傷が残るわけでもないので、月成は少し痛みがあってリアルなだけの幻覚だと思うようにしていた。
症状が落ち着いた頃、そういえばバーンの姿が見えないことに気が付き、辺りを見回す。
すると、教室の隅に震えて縮こまる碧い火の玉を見つけた。
「バーン? どうしたの?」
『……えねぇ……』
「え?」
『白い焔とか、あり得ねぇぇぇえええええええええええええぇぇええええぇっ!!!』
月成が目線を合わせるようとしゃがみ込んだ瞬間、バーンは体積を二倍くらいに膨らませ、大きな声で叫んだ。
驚きのあまりコントのように綺麗に転がった月成は、耳を押さえながら恨めしそうにバーンを睨んだ。
「うっさ……急に大声出さないでよ」
『いやいやオマエ、分かってんのか!? 白い焔は本来自然界に存在しない色なんだぞ!? 白い焔を扱えるヤツがいるとしたら、それは……!』
そこまで口にして、バーンは再び体を震わせ、激しく室内を飛び回る。
(……元気そうだし、大丈夫かな)
「そんなことよりバーン君、あれからどのくらい経ったの?」
『そんなことって、オマエな……ほんの数分くらいだけど』
「そっか」
『"そっか"じゃねえんだよなぁ……こいつ怖え……感情一切読めねーの怖え……』
バーンは再び壁の隅に縮こまる。
単純に月成はシングルタスク型なので、ひとつの事柄に集中している間は他の事柄が目に入らなくなるだけなのだが、それを教えてあげられる者はこの場にはいない。
「よいしょ、っと」
すでに建物全体に火の手が回っているにも関わらず、何故か白い焔の周辺だけは赤い炎が回っていないのを不思議に思いつつ、月成は立ち上がる。
その際、掌に何かを握り締めたままなのに気がつく。
それは、夢の中で手に入れた剣だった。
剣を軽く振って目の前の炎を薙ぎ払えば、赤い炎は海を割ったように二つに裂けた。
『……ああ、そういやアーキソードを取りに行かせたんだっけな。ビックリしすぎて忘れてた』
「しっかりしてよ、バーン君」
『オマエのせいじゃい!!!』
バーン渾身のツッコミが炸裂するが、月成は顔色ひとつ動かさない。
「ちなみにバーンくん、核の場所ってわかる?」
『ここの屋上だぞ』
「分かった。色々ありがとう」
まっすぐ扉に向かって歩いていく月成の前に、バーンが慌てた様子で立ち塞がる。
『ま、待てよ! やるってんならオレ様もついていくぞ! オマエだけじゃ不安だからな」』
「そう? 分かった。頼りにしてるよ」
月成は扉を剣で叩き割りながら、もう片方の手をバーンに差し出す。
『……なんだ、その手は』
「これからもズッ友でいようの握手」
『だからなんでこのタイミングで……はぁ、なんかツッコミ入れるのも疲れてきたな』
半ば諦めの境地に達した顔で、渋々バーンが手を重ねる。
かくして、自称一般人と精霊の赤ちゃんの奇妙なコンビが結成されたのだった。
『そういや、その剣の名前どうするんだ?』
「……もう決めてるよ」
『へぇ、早いな。なんていうんだ?』
本当はまだ考えていなかったが、自分にも縁があり、更にこの剣にぴったりな名前があることを思い出した月成は、悪戯っぽく微笑んだ。
「この剣の名前はね――……」
タイトル回収