7話 炎と月
赤やオレンジ、黄色と、色とりどりの炎が飴細工のようにうねりながら、建物を絡め取ってゆく様を、少し離れた場所から見守る人物がいた。
「まさか君がここに来ているとはね」
背後からの声に、青年は振り返る。
振り向いた拍子にフードの隙間からこぼれ落ちた銀髪が、炎に照らされて、黄金に煌めいた。
冷ややかな色を湛えた銀色の眼差しの先で、丈の長い白衣と白金色の髪が翻る。
終末の様相を呈した世界に降り立った女神と勘違いされてもおかしくないような美貌の男は、零音の隣に立つと、人誑しな甘い笑顔で微笑みかけた。
「君の"予言"はもう使えないんじゃなかったのかい? 羅夢音零音君」
名前を呼ばれた瞬間、零音は端正な顔に静かな怒りを滲ませながら、鬼灯を睨みつけた。
「その呼び方、やめてくれる?」
「ふふ、君のそういう態度も懐かしいね。あの頃は毎日のように蔑んだ視線を向けられていたものだけれど」
視線だけで人を射殺せそうなほど鋭い眼差しで睨みつけられても、鬼灯はどこ吹く風といった様子で低く喉を鳴らして笑うだけだった。
一頻り笑った後、鬼灯は何処か遠くの景色を懐かしむように淡い碧眼を伏せると、瞳を縁取る長い睫毛が白い肌に陰を落とした。
「……君も大きくなったね。昔はこんなに小さかったのに」
鬼灯がからかうような素振りで自分の腰くらいの高さに手をやると、零音は瞳を伏せる。
「…………そりゃ、十一年も経てば変わるでしょ。人も、世界も」
そこで零音は意味深に言葉を切ると、再び旧校舎に視線を向けた。
全体を炎に包まれながらも、未だ崩れることなく形を保ち続けている建物からは、炭化した木材が爆ぜる音に混じって、複数の足音と、少年の声が響いてくる。
「ところでアレはなんなんだい? 新手のショーか何か?」
「………………」
「あれ? 無視? 僕は放置されるのはあまり好みではないのだけれど」
零音は質問には答えなかった。
だが、一瞬だけ鬼灯に向けられた視線に憐憫が含まれていたことに気付く者は、この場にはいない。
* * *
――時刻は、零音と鬼灯が出会うよりも少し前に遡る。
「もう! しつこいって!」
月成は脚に強化をかけながら、全力で廊下を走り抜けていた。
本来なら、とっくに旧校舎を出ていてもおかしくない時間が経過しているが、炎や瓦礫、そして黒い犬達に阻まれるせいで、同じ場所を何度も行ったり来たりさせられている。
(これじゃあ、いつまで経っても埒が空かない)
先程黒い犬を倒した偽・月虹魔剣は、魔力の消耗が激しく、何より使い捨てで燃費も悪いので、おいそれと多用できない。
そもそも、練習での成功率は五十パーセントにも満たなかったのに、何故あの場で成功したのか不思議なくらいだ。
だから黒い犬達に追いかけられたら基本的に走って逃げるしかない。
(でも、三匹同時に相手するのは流石に無理だろ……!)
背後には三匹の黒い犬が迫っている。
すでに足の感覚がないが、力尽きて立ち止まった瞬間に待ち受けるのは死のみなので、強化をかけて無理矢理足を動かしている。
しかし、それも長くは保たないだろう。
何処か、一時的にでも身を潜められる場所がないか、目線だけを動かして探っていると、数メートル先の曲がり角に動くものが見えた。
(あれは……なんだ? いや、それより、あそこに逃げ込むしか……!)
月成は更に強化を重ねかけして犬達との距離を引き離し、曲がり角で彼らの視界から外れた隙を突いて、手近な教室に滑り込む。
どうやら上手く隠れられたらしく、犬達が駆け抜ける足音が段々と遠ざかっていくのを確認すると、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
「はぁぁあああぁぁあぁ……」
限界を超えて動かした足が、肺が、気管支が、鉛のように重い。
その上、この暑さのせいか、走ったせいか、全身が汗で濡れていて、服が肌に張り付く感触が気持ち悪い。
早く家に帰って着替えたいが、まずは旧校舎から脱出しなければ。
けほ、と小さな咳が漏れる。
煙を吸ってしまったせいで喉が焼けるように痛いし、複数の言語を同時に、正確な発音で発さなければならない詠唱も喉に負荷をかけている原因だろう。
詠唱がなくても魔術は使えるが、精度がかなり落ちてしまうので、致命的とはいかないまでも困る。
「……ところで」
痛む喉を押さえながら、月成はゆっくりと声を絞り出す。
「きみは、どうして俺を助けてくれたのかな」
教壇の上に浮かぶ碧い光が、上下に跳ねた。
炎のような見た目をしているが、目玉や口が付いているので、火の玉のお化けといった方が近いだろうか。
火の玉お化けは、体を膨らませて威嚇しているが、教壇の陰に隠れながら威嚇されても全く迫力がない。
『……その前に、オレ様からも訊きたい。これは、オマエが起こしてるわけじゃないんだよな?』
「……質問の意図が分からない。はっきり言ってくれる?」
『だから、この幻界化のことだよ。この空間で形を保っていられるってことは、オマエも創造主じゃないのか? なんで創造の力を使わないのか疑問だけどよ』
「……んん?」
月成は眉をひそめる。
先程からどうにも話が噛み合わない。
それに、聞き覚えのない専門用語が次々に飛び出してくるせいで、話の内容が全く頭に入ってこない。
ただ、この火の玉お化けが月成の知らない情報を持っているのは間違いなさそうだ。
「……えーと、俺にも分かるように話してくれる? まず、幻界って何?」
『はぁ?オレ様達が今いるココのことに決まってんだろ。ニンゲンどもの集合意識とか夢が何かの拍子で異空間化してしまったもの。ココでは実在も非実在も曖昧だから、オレ様達みたいな魔獣が存在証明も依代もなく存在できるんだよ』
「創造主は?」
『創造の力を持った能力者どもだよ。空想の産物を存在証明なしに現実に定着させることができる、イカれた連中だ。ったく、なんでオレ様がこんな初歩的なことを教えてやらないといけないんだ……』
ぶつくさと文句を言いながらも、律儀に質問に答えてくれるあたり、碧い火の玉は悪い子ではないのかもしれない。
「じゃあこちらも君の質問に答えるけど、俺は何もしてない。偶々巻き込まれただけの一般人だよ」
『一般人? 魔術まで使っておいてよく言うぜ』
「……訂正。偶々巻き込まれた魔術師見習い」
「いや変わんねーよ。オマエ変なやつだな」
火の玉は呆れたように目を細めるが、ひとまず月成への警戒心は解けたらしく、教壇から姿を現す。
ちょうど掌に乗せたくなる絶妙なサイズ感だが、触れようとしたら逃げられたので手を引っ込めた。
「ところできみの名前は?」
『お、オレ様はバーンだ。炎の精霊なんだぞ。すごくえらいんだぞ! だから軽々しく触るな!』
「それは見れば分かるよ。……でもきみ、たぶんまだ生まれたばかりの精霊だよね?」
『うぐっ……!?』
軽くカマをかけると、バーンは頭から炎の柱を噴き出し、分かりやすく動揺する。
それを見て月成は確信を強める。
「やっぱり。まだ形も定まってないから赤ちゃんだろうなとは思ったよ」
『うううううるせーーーよ! 幻界のことすら知らなかった創造主モドキが調子に乗ってんじゃねえよ!』
「あ、そういえばそのことについてまだ訊いてなかったな。どうして俺を創造主だと勘違いしたの?」
『はぁ?』
激しく室内を飛び回っていたバーンは、ぴたりと動きを止めると、馬鹿にしたような顔で振り返った。
『勘違いじゃねーよ。幻界に入れるのは、創造主の適正を持ったニンゲンか、元々幻想の産物である魔獣だけだ。……いや、でもオマエからは魔獣のニオイもするな……キメラかなんかか?』
「だから俺は人間だって」
『うーん、たしかにニンゲンだけど……』
バーンはまだ納得いってなさそうだったが、考えても仕方ないと思ったのか、話題を変える。
『まぁいい。それよりオマエ、この後どうするつもりなんだ?』
「……確かに、どうしよう。外の壁をツルハシかスコップで壊そうと思ってたんだけど、どっちもダメだったし」
『外の壁って、境界のことか? ムリムリ、アレは物理的に破壊できねー仕組みになってんだ。それでも退かしたかったら幻界そのものを破壊するしか……』
「どうやったら破壊できるの?」
物理的な破壊は不可能と言い切られ、月成の表情が一瞬曇ったが、その後に続いた言葉に、身を乗り出して反応する。
『うぉっ、近えよバカ! 離れろ!』
「どうやったら破壊できるの? ねぇ、どうやったら破壊できるの? ねぇ?」
『bot化すんな! あーもう、教えてやるから落ち着け!』
至近距離で詰め寄られ、完全に怯えた様子のバーンは嫌々ながらも破壊手段を月成に耳打ちする。
「……アーキソード? それがあれば壊せるの?」
『そ。幻想核……この世界の核となるものを見つけて、ブッ壊せば全部元に戻る。オマエがアーキソードを使えれば話は早かったんだが、まさか幻界のことすら知らねード素人だとは……』
目の前で溜息を吐かれ、月成は少し申し訳ない気持ちになる。
「で、でも、俺にもアーキソード? の適正はあるってことだよね?」
『まぁ、そうなるな。オマエ、最近なんか変わったことなかったか? 視えないモノが視えるとか、立て続けに同じ夢を見るとか』
「…………あ」
黄金色の空、影絵の丘。
そして、木を見上げる真っ白な少女。
それらの光景が、まるで現実のように目の前に組み立てられる。
『……どうやら心当たりはあるみたいだな。なら、後は背中を押してやるだけか』
急に黙り込んだ月成を見て察したのか、バーンは体の焔を腕の形に変化させ、月成の目の前にかざす。
「何を……」
『いいから黙って眠れ。揺り籠は未だ空のまま』
バーンの腕から柔らかな白い光が発せられたと認識した瞬間、月成の意識は闇へと落ちた。