6話 狂宴は烈火の如く
色々起こってる回
ずっと昔。
思い出すのもやっとなくらい、遠い、遠い夜。
星の降る夜だった。
両親の目を盗んで、こっそりと家を抜け出した少年は、とても立派な赤い鱗に全身を覆われた生き物と出会った。
絵本に出てくるドラゴンそのものの姿をした彼は、神様だと名乗り、友達になろうと言ってきた。
少年は大いに喜んだ。
何故なら、物語の中の幻想が、自分から逢いに来てくれたのだから。
幼い少年は何度も頬をつねって、これが夢でないことを確認したのだった。
短い逢瀬の合間に、神様は少年に様々な魔法を与えてくれた。
キラキラしたオーラを固めて、宝石に変える魔法。
物にちょっとだけ力を分け与えて、強度や耐久力を増す方法。
物の視え方を変えて、全く違うものに見せる魔法。
どんな失敗でも一度だけ"なかったこと"にしてくれる魔法。
それらを教えた後、神様は『自分と出会ったことは誰にも明かさないように』と言い残して、姿を消してしまった。
そして気がつくと、少年は自宅のベットで目を覚ました。
どう帰ってきたのかも覚えていないし、やはり夢を見ていただけなのかもしれない、と少年は落胆する。
しかし、少年の枕元には、朝陽を受けてキラキラと輝く石が転がっていたのだった。
* * *
「……困ったな」
頬をかきながら、月成は呟く。
ロクに働かない表情筋のせいで、全く困っているようには見えないが、実際に今、月成は困ったアクシデントに遭遇していた。
信じられないことに、旧校舎に辿り着いた瞬間に背後の入口が崩れ、瓦礫の山と化してしまったのである。
元々老朽化していたことに加え、先程の地震で建物の基盤が歪んでしまったのだろうか。
あと一歩遅ければ瓦礫の山に押し潰されていたかもしれない、と考えると肝が冷えたが、結果として無事だったのならそれでいいとすぐに思い直し、月成は旧校舎の探索を開始する。
(どうせ後戻りもできないんだから、進むしかない)
月成は大人しそうな外見に反して、意外とポジティブだ。
……というより、細かいことを考えるのが苦手だけなのだが、そのお陰でこんな状況でも惑うことなく前進できるのだった。
* * *
旧校舎の一階及び二階は瓦礫や、教室から溢れてきた家具で進路が塞がれていたが、不幸中の幸いで、階段だけは無事だった。
三階まで一気に駆け上がると、一番奥の倉庫まで直行する。
倉庫は相変わらず雑多かつ無秩序に物が溢れていて、どこに何があるのかも分からないような状態だが、入学してから一ヶ月間、毎日のように倉庫に入り浸っていた月成は、内部の構造を完璧に把握している。
工具が置いてある一角へ辿り着くと、月成の記憶通り、使われなくなった鉈やノコギリ、折り畳み式のスコップなどが入っていたが、ツルハシは見つからなかった。
かなり古くなっていたし、零音あたりが処分してしまったのかもしれない。
とりあえず鉈とスコップ、それから怪我人の治療に使えそうなものを片っ端から鞄に詰めて倉庫を出ようとした月成は、ようやく異変に気が付いた。
(……さっきから、暑さが増しているような。それに、トーストを焦がしたみたいなにおいがする)
胸の内側をちくりと小さな針で刺されたような、些細な不快感。
なるべく急いでこの場から離れた方がいいかもしれない。
月成は扉へ手を伸ばし――……
ドアノブに手が触れた瞬間、反射的に手を引っ込めてしまう。
「熱……っ!?」
触れた瞬間、ジュッ、と指先の焦げる音が鳴った。
焼けた鉄板に触れでもしない限り鳴らないだろう音に、最悪の想像が月成の頭を過ぎる。
「まさか……!」
慌てて逆走し、採光用の小窓から身を乗り出した月成は、真っ赤な炎が校舎を包み込もうとしている様を目の当たりにし、さっと顔から血の気が引く。
(火の粉が風に乗って引火したのか……?)
嫌な予感に限って、よく当たるとはよく言ったものだ。
外れて欲しいと願うほど、逆に当たりやすくなるような気がする。
「……さぁ、どうする?」
ここは三階だ。
生きて外に出られる可能性がある出口はここだけ。
しかし肝心のドアノブが熱くて、とてもではないが、触れたものではない。
躊躇している内にも、火の粉は迫ってくる。
「……冷静になれ、鳴海月成」
――ドアノブが熱い? 手を火傷する? それがなんだというのか。
ここで時間を無駄にしていれば焼け死ぬだけだが、火傷は生きていれば治る。
悩む余地もない。
選ぶべき道は、たった一つだ。
深く呼吸をした後、月成は手にハンカチを巻いて改めてドアノブに手をかけた。
布越しにも伝わってくる熱さに歯を食い縛りながらも、扉を開くと、すでに床や壁には赤い炎が這っていた。
(火の回りが早い……!)
心なしか、息苦しさが増した気もする。
少しでも煙を吸い込まないよう、ハンカチで鼻と口を覆いながら、来た道を戻る。
しかし、階下を覗き込んだ瞬間、月成は顔をしかめた。
二階から下はすでに炎の海と化していて、とてもではないが降りられそうにもない。
幸いにも、階段はここだけではないので反対側の階段を目指して踵を返そうとした時だった。
自分でも気がつかない内に緊張していたのか、足がもつれて、バランスを崩す。
ふらつきながら床に倒れ込んだ瞬間、生き物の気配と共に月成の頬を一迅の風が掠めた。
脊髄反射で横に転がるようにして避けた月成が目にしたのは、上空を跳ぶ真っ黒な犬の姿だった。
「い、犬……?」
黒い犬は自分の攻撃をかわされたことを悟ると、軽やかなステップで床に着地し、凶悪な牙を剥き出して月成を威嚇する。
近くで見ると、普通の犬よりも一回り体格が大きく、牙や爪も鋭い。
野犬というよりは、狼に近い見た目だ。
(なんで学校に犬が? いや、それよりも今、俺を襲おうとしたのか?)
動物に思考がまとまるのを待ってくれる気遣いがあるはずもなく、犬は再び大口を開けながら、月成に飛びかかってくる。
最初の攻撃よりも距離が近い。
避けきれないと察した月成は、咄嗟に手に触れたものを盾代わりに目の前にかざした。
それは壁を掘削する為に持ってきた、キャンプ用の折り畳みスコップだった。
上手い具合に柄の部分に犬が噛みつくが、思ったよりも顎の力が強く、スコップごと噛み砕かれてしまいそうな勢いだ。
(なんて馬鹿力だ)
スコップを持つ両腕にありったけの力を込めて粘るが、自分よりも体格の大きな犬にあっさり押し倒されてしまう。
(……くそ。迷っている暇はない、か)
月成は琥珀色の瞳に強い光を宿すと、口を開いた。
「『状態付与:硬度増強』
複数の言語を圧縮して同時に放ったような、音の重なりが発せられると同時に、今にも折れそうだったスコップに金色の焔が宿る。
瞳が熱い。
校舎を取り巻く炎のせいではない。
まるで眼球が内側から燃えるような感覚に顔を顰めながら、月成は更に詠唱を重ねる。
「『状態付与:筋力増強』
今度は月成自身が金色の炎に包まれ、一方的にのしかかっていた犬を徐々に押し返し始める。
犬が驚いた様子でスコップから口を離した隙に、これでもかと詠唱を重ね掛けする。
「『乾坤一擲、偽・月虹魔剣!』」
スコップ自体が黄金色に輝きながら溶けたと思うと、粘土をこねくり回すようにくるくると形状が変化し、黄金の剣の形に固定される。
「やぁぁああああああぁぁあ!!!」
月成は巨大な黄金の剣を思い切り振りかぶり、犬の頭に叩きつけた。
キャン、と仔犬のような悲鳴が響き、骨が砕ける感覚が直に手に伝わってくる。
柔らかい脳髄や赤い飛沫が飛び散る様が生々しく月成の脳裏に再生されるが、それらが現実になることはなく、犬は体ごと真っ黒な霧に変わって消えてしまった。
残された月成は肩で息を切らしながら呆然と霧散してゆく犬だったものを見つめていたが、手の中の剣が徐々にひび割れ、粉々に砕け散った瞬間に我に返る。
「あ……今のは、一体……?」
とても鮮明な幻を見せられた気分だったが、手に残った感触と、散らばった剣の欠片が、これは現実だと訴えかけてくる。
「……嫌な感覚だ」
爪が掌に食い込むのも構わず、拳を強く握り締めながら呟いた声は、炎に吸い込まれて、誰にも届くことはなかった。