4話 お砂糖とスパイスと
星の降る丘に、月成は立っていた。
そこは、空を除いた全てのオブジェクトが真っ黒な切り絵で構成された、影絵の世界。
風に揺れてさざめく木々も、可愛らしい歌声を聴かせてくれる小鳥達も、遠目に見える三角屋根の小さな建物も、全てが薄っぺらいハリボテ。
黒々とした影の世界で、見上げた空だけが鮮やかに色付いているのが妙に印象に残った。
絶えず黄金色の光を零す三日月と、同じ色に輝く月成の瞳。
そして虚ろな影絵だけが存在する静寂の丘に、生きて動いているモノは月成だけ。
足元の草が波打っても、実際には風のひとつも吹いていないことに、月成はひどく違和感を覚えた。
そうして取り留めのない思考の渦に身を任せながら、足を一歩前に進めれば、景色が揺れ動きながら頭の後方へ流れてゆく。
空気に匂いはない。
視覚、聴覚、触覚のみが、世界と月成とを繋いでいる。
頭は霞みがかったように不明瞭で、水面を漂うクラゲのように、無意味な思考の奔流が流れては消えてゆく。
此処は何処で、自分は何をしようとしているのか。
分からないけれど、確信はあった。
――これは、明晰夢だ。
眠っている間も正常な思考と精神性を保てる人間がどれほどいるかは知らないが、睡眠中の人間の思考回路ほど支離滅裂で複雑怪奇なプログラムは無い。
今までも何度か、睡眠中に夢を知覚することはあった。
かといって自由に動けるわけでもなかったし、感情が昂ったり、深く物事を考え込もうとするだけですぐに目が覚めてしまうから、あまり夢を堪能できなくてがっかりした覚えがある。
もしかしたら、今日こそは夢の世界を存分に楽しめるかもしれない。
昂ぶる心を鎮め、微睡みと覚醒の狭間を保ったまま前へ前へ進んでゆく。
(……今更だけど、俺は何処に向かおうとしてるんだろう)
月成の意思とは関係なく、足は勝手に前へ前へと踏み出す動作を繰り返している。
その原動力は何処からやってきているのだろう?
この先に何があるか、少しだけ興味が湧いてきた月成が視線を上げてみれば、丘の頂上に聳え立つ一本の大樹が目に入る。
その木も例に漏れず影絵なので、何の木かまでは分からないが、ひどく懐かしい感情が胸の内から迫り上がってきた。
ずっと昔に訪れたことがあるような、不可思議なデジャヴ。
その既視感が何なのかと思考を巡らせていると、ふと、木の根元に人影らしきものが映る。
見渡す限り黒と金の色彩の中で、唯一何者にも染まらない純白を纏った少女の後ろ姿を認めた瞬間、段々と全身の感覚がはっきりしてくるのが感じられた。
……嗚呼、もう時間切れみたいだ。
せめてあの子の元に辿り着きたかったな、と思っている内に、あやふやだった五感が鮮明に蘇った。
* * *
目が覚めて真っ先に感じたのは、蒸すような熱気と、埃のにおい。
そして、背中に感じる冷たく硬い感触。
ちぐはぐな感覚に驚き、重たい瞼を開けば、自宅よりも見慣れつつある物置部屋の天井が視界いっぱいに広がる。
体を起こそうと肘を動かすと、皮膚にひんやりと硬いものが当たる。
眼球だけを動かして見てみれば、自分の周りに工具が散らばっていた。
月成が横たわっているのは、床の上に広げたブルーシートに、薄い座布団が何枚か重ねて敷いてある即席の作業場だ。
意識がはっきりしてくるとと共に、段々と意識を失う前の記憶が蘇ってくる。
いつも通りの教室、代わり映えのしない日常。
一番新しい記憶は昼休み。
いつものように作業場にこもって、頼まれた品を修理していたことまでは思い出せるのだが、その後の記憶がどうも曖昧だ。
脳裏に燻る微かな記憶では、午後の温かな空気と、程良い静けさに当てられ、修理を終えると同時に倒れ込んだような……何分眠かったもので、はっきりとは憶えていない。
(それよりも、今の夢はなんだったんだろう)
月成の脳裏には、未だ黄金色の丘と、白い少女の背中が焼き付いていた。
夢とは、脳が記憶を整理する過程で見せる一種の幻覚だと、何かの本で読んだ覚えがある。
だが、月成は生まれてこの方、あんなにも幻想的な風景を目にした経験はないし、あの少女にも見覚えはない。
何かの映画やアニメで見た風景が混ざったのだろうと考えるのが自然だが、十三歳男子の心理的には、もっと神秘的なものであってほしかった。
それは例えば、運命と呼ばれるもののような。
(顔は見れなかったけど、お砂糖みたいにふわふわしてて、優しそうなオーラが見えたな。また、会えないかな)
そこまで考えた後、月成は目を真ん丸に見開いて瞬きし、困ったように微笑んだ。
「……何考えてるんだか。夜霧にご飯作ってあげなきゃいけないし、早く帰ろう」
夜霧というのは、一つ下の弟の名前だ。
大きく上体を反らして伸びをすると、凝り固まった首や背骨が音を立てて軋む。
此処には時計はおろか、窓もないので、正確な現在時刻は分からないが、どうやら随分長い時間、同じ体勢で眠りこけていたらしかった。
ポケットから携帯を取り出し、電源を入れれば、時刻は午後五時過ぎを指していた。
修理を開始したのが昼休みに入ってすぐだから、かれこれ四時間以上は気を失っていたらしい。
月成は午後の授業を丸ごとサボってしまったことよりも、こんな薄暗く埃っぽい場所で平然と眠りこけてしまった自分の神経の図太さに驚いていた。
確かに昔からガサツだ無神経だと散々言われてきたが、流石に外で無防備な状態を晒していたのは良くない。
明日からは気をつけようと胸に刻みつつ、床に脱ぎ捨てた上着を羽織り、散らばった工具を拾い集める。
そして邪魔にならないよう部屋の端に寄せてから、扉に手をかけた。
「……あ」
「……おっ?」
月成の手が引き戸の取っ手にかかるより早く、独りでに扉が開いた。
扉のレールを挟んで向かい側、二人の男が並んでいる。
片方は整髪料で前髪をピシッと七三に固め、黒縁眼鏡をかけた、堅物そうな男子生徒。
小柄な月成と並べば、丁度月成の目線が彼の胸の高さになるほど身長差がある。
おまけに顔立ちや纏う雰囲気も大人びていて、中等部の制服を着ていなければ、教師だと間違えていたかもしれない。
もう片方は、珠のようなシルバーブロンドに真っ白な肌を持った、二十歳前後の神秘的な美青年。
こちらは馴染みのある顔だったので、月成は迷うことなく彼の名前を呼んだ。
「零音君。どうしたの?」
「それはこっちの台詞だよ。もしやとは思ったけど、本当にこの時間まで作業してたなんて」
零音は困った表情を浮かべながら、月成の額を小突く。
月成はぱちぱちと瞳を瞬かせた後、首を傾げた。
「えっと……ごめん?」
「なんで疑問系なのさ」
「……怒ってたから?」
「別に怒ってはいないよ。それより、もう下校時間過ぎてるから帰りなさい」
「ほな、俺が教室まで送っていきますよ」
手を挙げたのは、零音の隣に立つ七三頭の男子生徒だった。
月成は同級生の中でも発育が遅く、身長順で並ばされる時は常に前から三番目を維持している小柄な少年なので、大柄な彼と並ぶと、丁度彼の胸あたりの高さに視線がくる。
なので視線を合わせようとする度に見上げなければならず、首がとても痛い。
巨人と小人のようだ、とふざけた感想を抱いている内に、話が進んでゆく。
「そう? じゃあ折部君にお願いしようかな。くれぐれも寄り道はしないように。最近この辺物騒だからね」
「はいはい、わざわざ注意されなくても分かってますがな。ほな鳴海、行こか」
折部と呼ばれた彼は堅そうな見た目とは裏腹に気安い態度で、月成を手招きする。
(……バラエティ番組で聞くようなコテコテの関西弁だ。ううん、それよりもこの子の声、聞き覚えがあるような……)
これだけ目立つ生徒がクラスメイトなら絶対に印象に残っているはずなので、少なくとも同じクラスではないと結論付ける。
ではどこで聞いたのだろうか? そう遠くない過去に聞いた気がしたのだが。
折部の斜め後ろをついて歩きながら、探るように視線を送っていると、不意に折部が肩を震わせる。
それは、どう見ても笑いを押し殺している仕草だった。
「……どうしたの?」
「いや……万屋なんて呼ばれとるから、どえらい目立ちたがり屋なんやろなと思っとったけど、案外地味というか、普通やなって」
そう言って、折部は上半身を屈め、月成の顔をまじまじと覗き込んでくる。
身長差を考えれば不自然な動作でもないのだが、月成は子供扱いされていると感じたのか、眉をひそめる。
「……よく言われるけど、別に目立ちたくてやってるわけじゃないよ」
「ほな、なんで面倒な仕事ばっか引き受けとるんや? 備品の修繕も、本来は生徒会とかの管轄やろ? ただの一般生徒の領分を超えとる。上級生や教師のご機嫌取りにしたって、他にもっと楽で上手いやり方があるやろ」
「興味ないし」
「ふーん……」
分厚いレンズの奥の瞳が、月成の真意を推し量るかのように細められる。
対する月成は、落ち着いた様子で折部を見つめ返していた。
同じ質問をされるのは、これが初めてではない。
掃除当番、飼育係、壊れた物の修理、探し物……人が嫌がる仕事を率先して引き受ける内に、すっかり学校の名物と化してしまった月成をよく思わない人間も一定数存在する。
そういった人間に幾度となく絡まれてきたので、すでに対処マニュアルが頭の中に入っている。
ここで怒ってしまったり、挑発的になれば相手を面白がらせるだけだ。
だから余計なことは言わず、笑ってやり過ごせば、向こうから話題を変える。
貼り付けたような静かな微笑を浮かべて相手の出方を伺っていると、折部はばつが悪そうに頭をかいた。
「……なるほど、お前がホンマに目立ちたくてやってるわけやないってことはよう分かったわ。不快にさせてすまんかった」
月成は瞳を真ん丸に見開く。
今まで嫌味を言われはしても、謝られたことなど一度もなかった。
冗談だから真に受けるなと言われて笑われるか、逆ギレされるかの二択だったから、折部の謝罪に戸惑う。
(……いや、この様子だとそもそも嫌味のつもりだったのかも分からない。俺が勝手に警戒しすぎていただけなのかも)
無意識の内に張っていた肩肘から、力が抜ける。
緊張の糸が切れた月成は、愛想笑いをやめ、いつものようにのんびりとした態度に戻った。
「いいよ別に、慣れてるから」
「……ホンマに言うとるんか、社交辞令で言うとるんか、違いが分からへんなぁ……」
月成は本当に気に留めていなかったが、折部はやりにくそうに肩を竦める。
だが、次の瞬間には人懐っこい笑顔を取り戻していた。
「ま、でもお前は悪いやつやなさそうやな。隣のクラスやし、今後ともよろしくお願いします」
「あぁ、えっと、こちらこそ……?」
改まって丁寧に頭を下げられ、月成も反射的に頭を下げる。
夕暮れの旧校舎で、男子生徒二人が向かい合って営業マンのように頭を下げ合っている光景は、実に奇妙なものだった。
その後、二人は校門に着くまでの間、ささやかな世間話を楽しんだのだった。