2話 万屋の憂鬱
生徒が食堂や中庭に散らばるのと同時刻。
喧騒からは遠く離れているはずの保健室には今、静寂の代わりにくぐもった笑い声が満ちていた。
「ふっ、くく……それで、ビンタされたってわけか……ふふっ……」
月成の頬にくっきりと残った小さな紅葉がお気に召したらしく、低く喉を鳴らして笑っているのは色素の薄い青年。
降り積もったばかりの雪の色をした髪と瞳、ロマンス小説や乙女ゲームの世界だったら白磁の肌という言葉で形容されていそうな、透明感溢れる白い肌。
高い鼻梁はすっきりとしていて、薄い唇と細い眉はやや冷たい印象を与える。
端正だが何処か人を寄せ付けない美貌は、遠くから見れば職人が精魂込めて彫った氷像のよう。
その美貌に加え、誰が相手でも素っ気ない態度を崩さないことから、氷の貴公子という二つ名が付いた彼の名前は葉月零音。
女子生徒は愚か女教師からも熱の籠った視線を向けられ、非公式のファンクラブまで存在する氷の貴公子は今、保健室で腹を抱えて大爆笑していた。
もし彼の信者が見ようものなら、真っ先に救急車を呼ばれそうな豹変っぷりに、月成もやや引き気味だ。
「ふっ、あはははははははは!」
「そんなに面白い?」
「あー、お腹痛い……本人に自覚がないのが一番面白いよ」
「はぁ……」
零音は片手で脇腹を押さえながらも薬品棚から湿布を一枚取り出し、手際良く月成の頬に貼っていく。
「……勝手に使っていいの?」
借りてきた猫のように大人しく治療を受けている月成の口から、ふと疑問がこぼれた。
「先生が居ないんだからしょうがないでしょ。僕が後で説明しておくよ」
悪びれる風もなくそう答えた零音だが、そもそも彼は保健医ではなく、用務員である。
ただ彼はこの学校の保健医とは親しいらしく、保健室にもよく出入りしているので、彼がこの場所に我が物顔で居座っていること自体は珍しい出来事でも何でもない。
事務机にまだ中身が残ったマグカップが二つ置いてあることからして、つい先程まで零音の他にもう一人……恐らくは保健医の先生がいたのだろう。
月成が保健室を訪れた時にはすでに零音しかおらず、顔に付いた見事な紅葉模様を見るなり爆笑され、事情を説明した後もずっと笑われ続けているのが現状である。
強盗が家に押しかけてきても呑気にお茶請けを出して仲良くなりそう、と揶揄されるほど穏和な月成も、この態度には流石に思う所があるようで、半眼で零音を睨みつける。
「……いくらなんでも笑いすぎじゃない?」
「くくっ……ごめんごめん。怒った?」
「怒ってはないけど」
実際、現在月成の頭を占めている感情は呆れと、何故そんなに長時間笑い続けられるのかという疑問の二つで、怒りにまでは達していない。
零音は笑いすぎて涙が浮かんだ眦を擦りながら、月成の柔らかい猫っ毛を乱さないよう優しく撫でた。
「ごめんってば。別に月成を馬鹿にしたわけじゃないよ。マンガみたいに綺麗な手形だったのと、怒られた理由が可笑しくて笑ってただけ」
「おかしい? どの辺が?」
月成が首を傾げていると、零音は眉尻を下げ、困っているのか笑っているのかよく分からない表情を浮かべる。
「……確かに、これでは苦労するだろうね」
「え? 何か言った?」
「ううん、何でもない。手当ては終わったし、戻っていいよ」
零音のはぐらかすような答え方が気にかかったが、学生の昼休みは短い。
保健室に寄り道という予定外のタイムロスをしてしまった以上、急がなければ、昼休みが終わってしまう。
今日も昼休みの内に片付けておきたい仕事は山ほどあるのに、こんな所で時間を無駄に潰している余裕はなかった。
「……わかった。またね」
「うん、また後で」
月成は渋々そう言うと、保健室を後にする。
道中、名残惜しそうに何度も零音を振り返る月成の姿が目撃されたとかされてないとか。
* * *
昇降口で上履きから私物のスニーカーに履き替えた月成が向かった先は、部室棟。
ここ、私立秀園大附属中学高等学校は中等部から大学まで存在する一貫校であり、複数の棟で構成された広大なマンモス校だ。
月成の通う中等部棟から部室棟までは片道十分の距離があるが、それは徒歩の場合。
月成はイヤホンでお気に入りのメドレーを流しながら、踵に仕込んだローラースケートを蹴って、舗装された並木路を高速で滑り下りてゆく。
忌々しいくらいに澄み渡った空の下、健康的に陽に焼けた肌を、涼しい風が撫でる。
だが、暑さに弱い月成の肌にはすでに薄っすらと汗が浮かんでいた。
「……アスファルトが焦げる匂いって、こんな感じなんだ」
額を流れ落ちる汗を手の甲で拭いながら、月成は故郷の土草の香りに想いを馳せる。
都会とも田舎ともつかない、中途半端な地方都市。
何もない場所だと思っていたが、あらゆる物資が飽和する大都市・大阪に越してきてからは、むしろ故郷の静けさが恋しくなっていた。
それに何より、大阪は暑い。
登校前に見た天気予報によれば、今日の最高気温は二十五度。
この時期、この場所であれば例年通りの気温だが、東北地方で人生の大半を過ごしてきた月成にとっては、夏と変わりない暑さだ。
じっとりと湿気を含んだ嫌らしい暑さに、月成は早くも白旗を上げそうになっている。
今すぐにでも半袖に着替えたい衝動に駆られるが、この学校では衣替えが解禁されるのは六月以降。
後ひと月以上も長袖で耐えられるだろうか、と内心でぼやきながら正面に視線を戻した月成は、入学時には淡いピンク色に染まっていた並木道が、今は花が散って青々とした葉に変化しているのに気がつく。
以前住んでいた土地ならば、まだ桜が咲いていてもおかしくない時期だが、こちらは暑いからか、四月の初めには桜が散ってしまうらしい。
「こんなに早く散るって分かっていたのなら、もっと早く花見をしたのにな」
結局、今年は花見ができないまま桜のシーズンが終わってしまったことに月成は落胆していた。
来年はこちらの開花時期も考慮に入れた上で花見の計画を立てよう、と内心で誓う。
「……その頃までには、百人とは行かずとも、それなりに友達ができていればいいんだけどな」
自虐めいた呟きに、苦笑が浮かぶ。
万屋などとあだ名されていることもあり、修理の依頼をしてくる生徒は多いが、友人と呼べるほど気安い関係なのは片手で数えられるほどの数しか居ない。
そもそも、友達とはどうやって作るものなのだろうか。
一つ下の弟は月成と違って明るく社交的な性格の持ち主で、初対面の相手でもすぐに友達になっていたから、簡単そうに見えていたが、現実はこの様である。
(たかが友達を作るのがこんなにも難しいとは予想外だったな……)
今度弟に友達の作り方のコツを教わろうと思いながら、月成は歩みを進める。
並木路を抜けた先、昭和の頃に建てられたという古めかしい三階建ての木造校舎が見えてきた。
昇降口で靴を履き替えた後、階段で最上階まで登った月成は、廊下の端にぽつぽつとバケツが置いてあるのに気が付いた。
そのまま視線を上方向にずらせば、天井板が雨漏りで所々腐っているのが目に入る。
最新の設備を凝らした一般教室棟とは比べ物にもならない寂れ具合だが、これでもここは現役の部室棟のひとつだ。
あまり人気のない文化部や、実績のない娯楽部が追いやられていると噂の僻地中の僻地だが。
(今日も誰もいないなぁ)
この時間帯だと、月成の他に利用している生徒はいない。
廊下の一番奥の教室の前に辿りつくと、月成は軽く息を吸い、扉をノックした。
「失礼しま――……」
――ガタガタガシャーン!
月成が言い終わるより早く、重量のある物体を勢いよく床に落としたかのような轟音と振動が扉の向こうから響く。
扉に手を伸ばしかけた格好のまま、月成がびくりと肩を震わせていると、少し遅れてバサバサと紙の束が崩れ落ちる音と、男性の呻き声が漏れ聴こえてくる。
「……はぁ」
月成はやれやれと頭を振ると、相手の返事を待たずに扉を開けた。
保健室で嗅いだものよりも強烈な薬品臭と、古い木材の香り、そして埃が混ぜ合わさったような奇妙な香りが鼻をつく。
足の踏み場もないほど書類や実験器具で埋め尽くされた教室の真ん中で仰向けに倒れている男を見咎めると、月成は男に向かって歩みを進める。
その間も、男はぴくりとも動かない。
何も知らない人が見たら死体と勘違いされそうだ。
月成は男の目の前にしゃがみ込み、目を細めてじっくりと舐め回すように観察した後、両手で拳を握り、男の頭を左右から挟み込んだ。
「……えい」
「いだだだだだだだだだ!?」
軽いかけ声と共に、力を込めて手首の関節をグリグリ捻ると、男が勢いよく跳ね起きた。
「いだっ、なっ、ちょっ、ギブギブギブ! 止まれ!」
「あ、生きてた。おはよう、そーちゃん」
「……せめて"先生"を付けろっていつも言ってんだろ、鳴海月成」
「んー、そっちがフルネームで呼ぶのやめてくれたら考えてあげてもいいよ」
「ほざけ。つーか、毎回起こし方が雑なんだよな、おまえ……」
月成はすぐに解放したが、それでも痛かったのか、男は長い前髪の隙間から月成を忌々しそうに睨みつける。
男の名前は鈴宮奏助。
今年で三十三歳になる、冴えない生物教師だ。
背中を丸めていても尚威圧感を与える大柄な体躯に、寝癖なのか元々なのか分からないほど絡まった髪の毛。
手入れをされていない髭は伸び切り、髪の毛と同化してしまっている。
くたびれた白衣とスーツを纏っていなければ、山から降りてきた熊にしか見えないだろう。
奏助は冬眠から目覚めたての熊に似た緩慢な動作で体を起こすと、崩れた書類を拾い始める。
それを見た月成も、己の足元に散らばっていた書類を拾い集め、奏助に差し出す。
「どうぞ」
「ん? おお、サンキュ」
書類を渡す為に奏助に近付いた瞬間、月成は両眼を僅かに細める。
髪と髭で殆ど覆われた奏助の顔に、よだれの跡が残っているのを見つけたからだ。
「そーちゃん、お昼寝してたんだね」
「意地でも先生って呼ぶ気ないなお前。こっちは徹夜明けなんだよ」
「……………………また?」
言い訳がましい奏助の反論に、月成の片眉が跳ね上がる。
たっぷりと間を空けてから口を開いた月成の声は、普段の五割増しで低い。
鳴海月成は元々表情の変化に乏しく、感情の読み取りにくい子供だが、その時の瞳と声色は底冷えするほど冷たかった……と、後に奏助は語る。
「……この前も徹夜して学校で寝落ちしてたよね。その時、徹夜は体に悪いからやめるべきだとも言ったはずだけど」
「うぐ……」
長い睫毛に縁取られた鮮やかな琥珀色の瞳に射竦められ、奏助は大きな背中を縮こまらせる。
十三歳の子供に説教をされて項垂れる熊のような大男(三十路)という奇妙な絵面が、白昼堂々展開されている。
「と……ところで、鳴海月成。こんな辺鄙な場所まで一体何の用事だ?」
尋問するような空気に耐えられなかったのか、奏助が露骨に話題を逸らすと、月成の眼差しが更に険しくなる。
「そーちゃんが呼んだんでしょ。修理してもらいたいものがあるって」
「そういえばそうだったな。すでに作業場に運んでおいたから、様子だけでも見てきてもらえるか?」
「了解」
月成はまだ目線で何事かを訴えかけていたが、大人の腕力の前に成す術もなく、半ば強引に教室から押し出される。
去り際にふと、何かを思い出した様子で月成が振り返った。
「そーちゃん、ご飯もちゃんと食べるんだよ」
「オカンかよ!」
言いたいことを言って満足したのか、月成は大人しく理科準備室から出て行くと、隣の倉庫と書かれたプレートがかかっている教室の扉を開けた。
締め切られていた室内は蒸し風呂のように暑く、月成は僅かに眉を動かしたが、文句を垂れることもなく、慣れた手つきで窓という窓を全開にする。
新鮮な緑の香りを胸いっぱいに取り込むと、月成は改めて室内を振り返った。
ただでさえ広くない空間は埃を被った大きな棚と、中身の分からない段ボールの山に占拠されているせいで、実際に人が踏み入れるスペースはほんの三分の一ほどしかない。
その一角にブルーシートが敷かれたスペースがあり、古ぼけてペラペラになった座布団が何枚か重ねて敷いてある。
これらは全て、床に座って長時間作業する月成を見かねた事務員や教師が差し入れてくれた物だ。
この畳一つ分ほどの小さなスペースこそが、月成の作業場だった。
自分の部屋よりも馴染みのある場所になりつつあるそこに腰を下ろす。
「頼まれたのはコレかな?」
持参したお弁当箱を脇に置きながら、備品の状態をチェックする月成。
かなり古い……恐らくは昭和の頃に作られたであろう扇風機だ。
元は白かったのだろうプラスチックは日に焼けて全体的に黄ばんでいて、金属の格子部分は錆びつき、羽はガムテープで何度も補強した痕跡がある。
今まで動いていたのが不思議なくらいのオンボロだが、大きな損傷は見当たらないし、モーターも思いの外綺麗だ。
「……ただ、一部のパーツは老朽化が激しいから、取り替える必要があるな。そーちゃんに買ってもらおう」
月成はメモ帳を一枚ちぎって必要なパーツを型番まで細かく指定してまとめると、隣の教室の奏助に渡しに行くべく席を立つ。
準備室の前まで戻ってきた月成が扉に手をかけようとした瞬間、中から微かに人の話し声が聞こえて、反射的に手を引っ込めてしまう。
(ついさっき訪ねた時にはそーちゃんしかいなかったはずだけど、誰と話してるんだろう?)
理科準備室は化学研究会の部室でもあり、奏助は化学研究会の顧問教諭である為、普通に考えれば部員の誰かが訪ねてきたと考えるのが自然だ。
それはさておき、どうやら扉が十センチほど開いていて、そこから声が漏れてきているようだ。
月成はちゃんと部屋を出る時扉を閉めた記憶があるので、後から入ってきた誰かが閉め忘れたのだろう。
人の会話に聞き耳を立てるなんてよくないと理性が語りかけてくるが、結局は好奇心に負けて覗き込むと、ちょうど入口に背を向けるようにして立っている男子生徒の背中が見えた。
成人男性の平均身長を大きく超える奏助と並んでも殆ど変わらないくらいの背丈だ。
化学研究会の面々とは顔見知りだが、あんなにも大柄な部員がいただろうか。
(いや、いない。あれだけ分かりやすい特徴があるなら、流石に俺でも憶えてるはず)
部員でないのなら、奏助と親しげに話す彼は何者なのだろう。
妙に気になって、その場から立ち去るタイミングを逃してしまう。
「……でな、さっき廊下で人とすれ違ったんやけど、化学研究会の子?」
扉の前で固まったまま、月成の心臓がどきりと高鳴る。
この時間帯に旧校舎の最奥部を訪れる奇特な生徒は、月成くらいしかいない。
鈍い月成でも、自分の話をされていると分かったが、さっき廊下を歩いている時に自分以外の気配なんてあっただろうか。
(……いや、単純に俺の探知能力がガバくて気付かなかっただけって線もありそうだから困るな……)
月成が扉の前で考え込んでいる間にも、二人の会話は進んでゆく。
「鳴海月成のことか? あいつはうちの部員じゃないが、俺の……あ、いや、色々と雑用を手伝ってもらってるんだ」
「……ああ、なるほど。あいつが噂の"万屋"なんやな」
合点が行ったという様子で大きく頷く男子生徒に、奏助が呆れたように肩を竦めてみせるのが見えた。
「その呼び名、お前のクラスにまで広まってるのか……」
「そらそうやろ。うちの学年に失せ物探しに掃除に動物の世話、果てには校内の備品の修繕まで手広くやってる外部生がいる、って話は有名やからな。名前までは知らんかったけど」
「あいつそんなことまでやってんのかよ……暇人かよ……」
月成が予想外に幅広く手を出していた事実を知り、奏助がこめかみを押さえる。
一方の月成も、男子生徒の情報収集能力に内心で舌を巻いていた。
(……驚いた。他のクラスにも広まっているなんて知らなかったな)
確かに入学してからこの方、毎日のように誰かの手伝いをしている気がするが、時には生徒会や風紀委員会の領分に踏み込んでしまうこともあったし、派手に動きすぎたのかもしれない。
そんな風に思考が逸れている隙に、いつの間にか二人の話題は噂話から次の学校行事へ切り替わっていた。
話が長引きそうな気配を感じた月成は、音を立てないように細心の注意を払って扉を閉めると、彼らの話が終わるまで適当に時間を潰しておこう、と来た道を戻って行くのだった。
だから、その続きは月成の耳に入ることはなかった。
「……へぇ、じゃあ月成のやつ運動会の手伝いもやらされてるのか。いよいよただのパシリだな」
「だから万屋なんやないの? 俺からしたら、そんだけ色んな技能持ってはるのに、どこにも所属せんと雑用だけやらされとるって方が信じられへんけどな。何か一つに絞って専門的にやったらええのに」
「ああ、無理無理。あいつはただ人助けするのが好きなだけで、地位や名声には一切興味ないんだよ。本当に変わったヤツだよな」
「…………ふーん?」
男子生徒は納得いかなさそうに唸りながら、背後の扉を振り返る。
そこには当然誰もいなかったが、僅かに隙間を開けておいた扉がぴったりと閉じているのを確認すると、彼は眼鏡の奥の瞳をそっと眇めるのだった。