1話 1年C組の万屋
序章中は毎日投稿(予定)
教室という場所は、まるで水槽のようだ。
かつて師が吐き捨てるように漏らした言葉が、不意に月成の頭の片隅を霞めた。
狭い部屋いっぱいに規則正しく、一定の間隔で並べられた机と椅子。
そこに三十余名もの子供達が詰め込まれている光景は、いつ見ても窮屈だ。
群れに置いていかれないよう、必死になって泳いだ所で、結局己の命運は水槽の外側の飼い主が握っている。
理不尽な話だが、それが現実。
全ての努力が必ずしも報われるわけではない。
時には自然災害のような、自分の行いとは全く関係のない、回避不可能な理不尽が原因で、今ある平穏が壊れたりもする。
人はそれを、運命と呼ぶこともある。
(何をやっても結果が変わらないなら、終わりが来るその日まで、好きなようにすればいいだけだと思うのは、俺だけなのかな)
四時限目、歴史の授業。
窓際の一番後ろの定位置で、鳴海月成は一人、授業とは全く関係のない物思いに耽っていた。
光の当たり方によっては黄金色にも見える琥珀色の双眸は黒板に向けられてはいるが、鉛筆を握る手は数分前から止まったまま。
授業や先生が嫌いだとか、問題が分からないが故の現実逃避ではないのが余計にタチが悪い。
彼としては真面目に授業を受けるつもりで、しっかり板書もしていたのに、突然意識が全く関係のない方向へ逸れてしまったのだ。
生来の気質なのか、月成はひとつの物事に集中するという行為が酷く苦手な子供だ。
おまけに空想癖が強く、一度脱線すればドミノのように次々と崩れ、中々現実に戻ってこれなくなる。
結局、月成が自らの脱線に気付いたのは、殆ど授業も終わりかけた頃合い。
慌てて板書を再開するが、元々手を動かす速度が遅い月成は黒板が消される前にノートに書き写すのに必死で、授業の内容など殆ど頭に入ってこなかった。
* * *
必死の健闘虚しく、半分ほど板書が進んだ辺りで無慈悲なチャイムが鳴る。
委員長の号令に合わせ、クラスメイト全員が立ち上がり、礼をする。
教師の姿が見えなくなった途端、水を打ったように静かだった教室は一瞬にして無法地帯と化した。
奇声を上げながら外に駆け出す者、友人同士で固まって談笑する者、取っ組み合ってじゃれあう者、机に突っ伏して居眠りする者。
チャイムが鳴った後も板書を続けていた為に初動で大きく出遅れる運びとなった月成は、どの輪にも入ることができず、オロオロと周囲の様子を窺っていると、後ろから肩を叩かれた。
「鳴海、ちょっといいか?」
「あ……うん」
突然話しかけられた月成は肩を跳ねさせながら、か細い声で返事をする。
そして、すぐに後悔した。
(……せっかく声をかけてもらったのに、気の利いた返事のひとつもできないなんて、本当にダメだなぁ)
月成は、社会性を母の腹に置いて生まれてきたと自負するほどのコミュ障だった。
相手を楽しませる話術どころか、愛想笑いすらまともにできない有様なので、同年代の子供には早々に『つまらない奴』と見切りを付けられ、省かれてきた存在だ。
今まではそもそも月成自身に他人と親しくする意思がなかったので、さほど不便を感じてはいなかったが、中学進学をきっかけに交友関係も改善しようと試みている今の彼にとって、他人との会話ほど複雑な問題はない。
何せ、教科書と違って百パーセント正しい答えが用意されているわけでもないのだから。
(他人との付き合い方がさっぱり分からない。みんなはどうやって、他人と話してるんだろう?)
月成が貼り付けたような無表情の下で後悔と自己嫌悪で目を回しているとは露知らないクラスメイトは、話を続ける。
「あのさ、この前預けたゲーム機だけど、今どうなってる?」
どうやら彼が話しかけてきたのは、依頼の進捗を確認する為だったようだ。
月成は表情こそ変えなかったが、内心では安堵に胸を撫で下ろしていた。
目的のない雑談に誘われるよりも、単純に用件があって話しかけられた時の方が、選択肢が少ない分、反応が取りやすいからだ。
「それならもう直ってるよ」
「マジか!?」
「うん、持ってくるから待ってて」
月成は徐に席を立ち、教室の一番後ろにある自分のロッカーから紙袋を取って戻ってくる。
預かっていた依頼品を紙袋ごと手渡すと、彼は瞳を輝かせながら飛びつき、待ちきれないとばかりに電源を入れる。
期待半分、不安半分といった様子で画面を覗き込んでいた彼の表情が目に見えて明るく変わってゆく。
その様を無言で見守る月成の口角も、自然と緩んでいた。
「おおぉ……! ちゃんと動いてる! 鳴海ってすげーな! マジで1年C組の万屋じゃん!」
「これに懲りたら次からはもっと大事に扱ってね。タッチパネルは傷だらけだったし、脂汚れも酷かったからできる範囲で綺麗にしておいたよ。それから……」
「わ、分かってるって! あ、これお礼な!」
説教が長引く気配を感じとったのか、彼は一方的に月成の胸に小箱を押し付けると、逃げるように教室を出て行ってしまう。
後ろ姿が見えなくなるまで、月成は半眼でじっとりと睨みつけていたが、やがて力が抜けたように椅子にへたり込んだ。
(……あの調子だと、また近い内に泣きついてきそうだ)
そもそも、彼に修理を依頼されるのはこれで何度目だろうか。
毎回それなりに豪華な謝礼をもらっているし、月成自身も好きでやっている仕事だから文句はないのだが。
「……そういえば、今回のお礼はなんなんだろう」
謝礼として渡された小箱の存在を思い出した月成が鼻先を近付けると、ほのかに苦く、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「……チョコだ」
どこか虚ろだった琥珀色の瞳に、はっきりとした光が灯る。
何を隠そう、月成が一番目に好きなお菓子はチョコレートだ。
ちなみに二番目が乾燥昆布、三番目に好きなのがスルメだ。
実に統一性のないラインナップである。
「しかも、高いチョコだ……」
上品かつ丁寧な包装は高級感に溢れていて、コンビニやスーパーで買えるような安物ではないのは一目瞭然だ。
月成が思わず感嘆の声を漏らしてしまったのも無理はない。
わざわざこれを買ってくるくらいなら、正規の修理業者に頼んだ方が安上がりなのではないだろうか、と思わないこともないが、本人が良いと思うなら良いのだろう。
リボンを解き、包装紙を一枚ずつ、花弁を開くように丁寧に剥がしてゆくと、仕切り版で一粒ごとに分けられた箱の中に、小さなチョコレート達が慎ましく座り込んでいた。
見た目にも華やかで、食欲をそそるチョコレート達の中から最初に選んだのは、真っ赤なクランベリーで表面をコーティングされた、ハート型のチョコレート。
一口かじった瞬間、どろりとしたクランベリーのソースが溢れ、舌の上でチョコレートの苦味とベリーの酸味が絡み合う。
異なる風味同士がぶつかるでもなく、調和して互いを引き立て合っている。
月成はチョコソムリエではないので、どこのメーカーかまでは分からないが、良い品であることに間違いはない。
というか、美味しければそれでいいという考えなのでメーカーを意識して食べたことがない。
「……うまい」
「『うまい』じゃないでしょ!」
「あいてっ」
月成が上機嫌にチョコを口の中で転がしていると、突然後頭部を強い力で叩かれる。
驚き、振り返った月成が目にしたのは、お下げ髪の小柄な女子が、鬼の形相でこちらを睨みつけている姿だった。
「叶未ちゃん、なに?」
「『なに?』じゃないでしょ! いかなる場合においても校内に飲食物を持ち込むことは禁止とする、って校則に書いてあるのを知らないとは言わせないんだからね!?」
「むぅ……?」
「ちょっと、首傾げないでよ。初耳みたいな顔してもダメなんだからね?」
「えぇと……ごめんなさい、ホントに今初めて知りました」
「マジで知らんかったんかい!」
月成の緊張感のない態度が気に食わないのか、叶未は早口にツッコミを捲し立てる。
持ち込んだというか、もらっただけなのだが、叶未からしたらどちらでも関係ないのだろう。
不可抗力だったとはいえ、月成がチョコを口にしたのは事実なのだから。
(叶未ちゃん、真面目だからなぁ)
叱られながらも、目の前で起きている出来事に焦点が合わないというか、自分のこととして認識できていない月成は、他人事のようにぼやく。
彼女は同じクラスの白藤叶未。
人の顔と名前を覚えるのが大の苦手な月成だが、彼女とは席が近く、接触する機会も多いので、記憶に残っている。
小学生にも間違われる小柄な背丈に、大きな瞳が印象的な低身長童顔女子の叶未だが、その小動物然とした見た目に騙された者は最後、彼女の舌鋒鋭い口撃で撃墜される……というのは、叶未と同じ小学校出身の生徒の間では有名な話らしい。
よく分からないが、可愛い顔の割に毒舌だからギャップに気をつけろ、という意味なのだろうか。
月成がまたも思考を脱線させていることに気が付いたのか、叶未は尚も眦を吊り上げる。
「――ってちょっと月成くん、聞いてる!? また魂飛ばしてない!?」
「ん……あ、ごめん?」
ようやく現実に返ってきた月成が首を傾げると、叶未は「まったく……」と呟き、大きな溜息をついた。
「大体、月成くんは普段からぼーっとしすぎなんだってば」
「それは……うん。そうだね」
「あと頼まれたからって何でもかんでも引き受けるのも良くない。月成くんがクラスの子からなんて言われてるか知ってる? 万屋よ、万屋! 何頼んでも断らないから良いように使われてるだけっていい加減気付いたら!?」
「は、はぁ……」
怒涛の勢いでマシンガントークを浴びせられ、あまりの威圧感に後ろに退いてしまう。
十人中十人に鈍感と言われるほど他人の感情に鈍い月成でも、自分が周囲にどう認識されているかくらいは知っている。
だが、月成からすれば別に大した問題でもなかった。
例え自分が不利益を被ったとしても、代わりに誰かが幸せになるのなら、それは善いことであるはずだ……というのが、月成の持論だ。
だから、月成は叶未が何故ここまで怒っているのかが理解できない。
(たまたま虫の居所が悪かったのか? ……いや、顔を合わせる度に不機嫌そうだし、心なしか表情にも疲れが滲んでいるように見える。もしかして、疲労で苛立っているんだろうか?)
もしこの場に月成の思考を読める者が居たのならば、『お前のせいじゃい!』と声を荒げていたことだろう。
無防備そうに見えながらも感情を悟らせない無表情の仮面の下で、月成は叶未の怒りを鎮める方法を考える。
『やっぱり疲れてる時は甘い物を補給して休むのが一番よね〜』
……その時、月成に電流が走る。
頭を過ぎったのは、かつて母が仕事帰りに呟いていた言葉。
鳴海家の母は少し……いや、かなりの変わり者だし、実際に糖分が疲労に対して効き目があるのかは分からないが、月成の目の前には都合良くチョコレートの箱がある。
(試してみる価値はあるかな)
「そもそも月成くんはお人好しすぎ――」
「えいっ」
「――むぐっ!?」
隙を突いて、叶未の口にチョコレートを押し込む月成。
突然の暴挙に、叶未は大きな瞳を更に大きく見開いて、茫然としている。
あんまり見開くと目玉がこぼれ落ちそうだな、と場違いな心配をしている月成をよそに、叶未の顔がみるみる朱を帯びてゆく。
茹で上がったタコか、郵便ポストか、夏の夕焼け空か、縁日のリンゴ飴か。
どの色合いが一番近いだろうと考えていると、叶未は体を震わせながら、拳を大きく振りかぶった。
(……あれ、これはまずいのでは?)
月成が遅れて危機を察したのと、渾身の平手打ちが飛んでくるのはほぼ同時だった。