第三章 少年王と戦友 (1)
第三章 少年王と戦友
(1)
少年王に矢が向けられた事実は、国民を大きく動揺させた。森と湖の国は、賢く神聖な王の下、静かな夜を約束されていたはずであった。
幸いにも、少年王は左の二の腕を負傷したのみで、公務にさほど支障はない様子であった。謁見の間に押し寄せた国民は、少年王の力強い微笑と振る舞いを見ることができたが、いつにも増して多い検査や近衛騎士の数は、彼らに一抹の不安を抱かせた。
騎士団長は王国の威信をかけて、不届き者の捜索に激を飛ばした。宰相は王の外交公務を極力減らし、自ら文字通り矢面に立つ政治を行った。
そうして5日が過ぎたのだが、今度は幸福な報せが国民を騒がせた。
王妃の、懐妊である。
正式にカノンの妊娠が発表される2日前、ジャスティスは幸運にも、妻本人の口からそれを聞くことができた。公務を終えて自室へ戻り、恒例の儀式を行う最中のことであった。
こんなとき、男はなんと言うものなのだろうか。ジャスティスは困窮した。困窮している様を見せるのも、良くないのだろうと焦った。焦ったからといって、答えが出るはずもなかったが。
ここ数日、吐き気に悩まされていたカノンは、若干血の気のない顔で、じっと夫を見つめている。彼女もまた、戸惑っているようだった。
仕方がないので、彼は観念し、思い切り困って見せた。
「何を言えばよいか、分からない」
目を瞬かせたカノンだったが、やがて強張りが溶けるように笑顔になった。ああ、美しいな、とジャスティスは飽きずに心を動かされた。カノンの自然な笑顔は、彼の顔を綻ばせる力をもっていた。
「おまえのことを真に想うならば、喜ぶべきなのかどうか」
ジャスティスは、右手で左腕の包帯に触れながら、苦笑した。
「スリノア王家の正統な血を継ぐ者は、私と、おまえの中の子のみだ」
少年王が反逆の刃に倒れたならば、身重の王妃はそれこそ厳重に守られるだろう。ただし、それは条件つきの憶測である。スリノア王家の血が尊重されている、という条件。
全ては、あの英雄が味方であるかどうかにかかっている。
ジャスティスは祈るように目を閉じた。矢が射られてより、すでに3日。命に代えても犯人を見つけ出すと誓ったベノル=ライトだったが、その優秀な英雄が、3日かけてなんの成果もあげていない。何か大きな力が働いているとしか、考えられなかった。または、犯人の捜索自体が、実を伴わない見せかけのものであるか。
「英雄王」という、彼が呪いに呪って記憶の彼方へ追放した言葉から、目を背けられなくなってしまった。果てしない苦労の末に、ようやく帰郷したジャスティスを待っていた、一部の国民からの声。英雄こそ王にふさわしい。ベノル本人は野心を怒りでもって否定したが、心変わりをせぬとも・・・。
ジャスティスは思考を遮断させた。そして、こみ上げてくる涙を、息を止めてこらえた。
もはや、こうまでベノルを疑わねばならぬのか。
ベノル=ライトは彼にとってかけがえのない戦友であり、血のつながりを超えた絆で強く結びついていたはずであった。彼は誰よりもジャスティスのことを理解し、時には父のように叱咤し、時には兄のように抱きしめてくれた。英雄はいつも彼のそばにあり、それは揺るぎない永遠の契約であるはずだった。なぜこんなことになったのか。
ジャスティスはふと、通り過ぎかけた言葉に違和感を覚え、反芻した。
契約。
少年王と英雄の絆は、言葉に置き換えると、そんなにも乾いたものになってしまうのか。
彼が王族であり、ベノルが騎士の家の子息であるから。代々続いてきた、慣例であるから。だから、そばについて守り、いとおしんでくれたのか。彼が王である以上に、理由はなかったのか。いくら言ってもベノルが彼を「ヘイカ」と呼んだのは、その頃からすでに友人と認められていなかった証拠なのか。
ジャスティスは深い失望と共に、ようやく、己を省みた。
彼を友人というのなら、その大事な友人の婚儀を祝福しなかったのは誰だ。
彼の悲恋の傷を、更に靴底で踏みにじるようにしたのは誰だ。
喪失に嘆く彼の話を聞くこともせず、ただ当たり散らしたのは。自害を図るほどの絶望を、理解しようとしなかったのは。牢を出た後の、もの言いたげな悲しい微笑を見ぬふりをしたのは。与えてもらうばかりで、彼を思いやることをしなかったのは。
ジャスティスは、己が次々と道を踏み外してきたことを認識した。彼は差し伸べられた手を振り払い続け、強引に腕を引いてもらえるのを、わめき散らしながら待っていたのだった。いつもならば、意固地になった彼を、ベノルは愛のある厳しさで諭してくれたからである。
私はいつまでも幼子のつもりで、英雄へ甘えていたというわけか。体裁だけは友人気取りで。見放されたとしても、仕方がない。もっと言うならば、怨まれていたとしても。
そこまで思い至ってから、ジャスティスは目を開けた。
「カノン、妊娠の兆候に気づいたのはいつだ」
カノンはは少年王の強い眼差しに少々怯えつつも、的確に答えた。
「はい。侍女頭が冗談めいて口にしたのが、6日前でございます。念のためお医者へかかったのが4日前。間違いないと判断されたのは今日でございます」
ジャスティスは、そうか、と再び目を閉じた。医者へかかって以降は、懐妊の情報がどこまで流れたか、把握できぬというわけだった。襲撃者からすれば、ジャスティスが亡き者になろうともスリノア王家の血が絶えぬ状況であったのかもしれない。ずいぶんと軽率なようだが、無事に子が産まれるのを待てぬ裏でもあったならば、考えられないことではない。
皮肉にも、その可能性は彼を安堵させた。そうであってくれ、とさえ思った。何の罪もない美しい少女に害が及ぶことなど、あってはならない。今や自分はなんの力も持たぬ傀儡の王になりつつあるが、男として、身重の妻だけは守らねばならない。
「陛下」
はっと我に返り目をあけると、カノンが彼を咎めるように、小さな唇を曲げていた。
「何をお考えでいらっしゃいますの?」
また初めて見る妻の表情に、彼は心を奪われた。ベノル=ライトとの確執から、ちょうど妻のことに考えが至ったところだったというのに、「おまえを想っていた」とは言えなかった。早まる鼓動を抑えるように黙り込むと、カノンは白い頬をかすかに膨らませた。これも新たな表情だった。
「わたくしのことを想うなんておっしゃっておいて、すぐ後にはご自分の世界へ引きこもってしまうなんて。あんまりですわ」
「……私はそんなことを言ったか?」
「ひどい!」
ジャスティスは吹き出した。照れ隠しもあったが、彼は単純に、白い頬がもっと大きく膨れるのを見たかっただけであった。腹を抱えて笑ううち、彼の思惑通りにふくれていたカノンも、根負けしたように笑い出した。
耳に心地良いソプラノ。少年のはしゃいだ笑いも止まらない。決壊、という言葉が、またもや浮かんだ。今度は二人で、派手に、壮快に。決壊した。
あのときと似ている。小さな頃に駆けた緑の丘を、ジャスティスは思い出した。夢中で駆け上った先には、光を浴びて輝く湖が眼下に広がっている。片隅には黄色の花が群生しており、彼はそこへ飛び込んで転げた。あのときも、こんなふうに笑っていた。何が可笑しいのか、問われても答えることなどできない。ただ胸の底から湧き上がる喜びがあり、それが笑い声となって溢れ出るだけなのだ。
あの場所はまだあるだろうか。カノンを連れて行ってやりたい。子どもを産んだあとでもいい。そうだ、せっかくならば子どもにも、あの素晴らしい景色を見せてやろう。この美しい国の王族へ生まれたことを、誇れるように。
ひとしきり笑い終えると、ジャスティスは無邪気な少年の笑顔のまま、カノンを見据えて告げた。
「カノン。私の戦友で、つい最近、子どもを授かった夫婦がいる。その手紙を受け取ったのはだいぶ前であるから、今はもう赤子が生まれていることだろう。次の休みに、彼らに会いにいこうと思う。子をもうけるということがどういうものなのか、久しぶりの再会ついでに聞いてきてやろう」
恩着せがましい言い方をしたものの、他ならぬ彼自身が、もし叶うのなら我が子を万全の気持ちで迎えたい、というだけの話であった。
行く先の村の名を告げると、カノンは表情を曇らせた。大陸の端から旅をするように戻ったジャスティスにとってみれば、たいした距離ではない。しかし、王都しか知らぬカノンにしてみれば遠く感じたのだろう。ましてや、彼は命を狙われたばかりであった。
「心配いらぬ」
ジャスティスは言い切った。彼の休日は10日後であり、それまでに犯人が捕らえらていなかった場合、出かけようと出かけまいと、彼の運命はすでに決まっているようなものだ。だったらなおさら、生きて自由に動けるうちに、旧友に会っておきたい、と思った。
少年王は妻を安心させるため、ニヤリとしてみせた。
「そんな顔をするな。スリノアの英雄が、すぐに事を片付けてくれるはずだ」
願いにも似た言葉だった。しかしそれは叶うことはなく、無情にも10日が過ぎていった。