第二章 少年王と王妃 (3)
(3)
鬱蒼とした森の中。
獣道の旧道沿いに見つけた木こりの住まいの裏手で、幼子は昨朝以来の食物を口にした。老騎士が人嫌いゆえ隠棲する木こりと何とか交渉し、大金をはたいて手に入れたそれは、パン一切れと小さな果物ひとつきりであった。
幼子は涙と嗚咽をもらしながら、夢中で貪った。彼を守る騎士たちの言いつけを守り、まず口の中にパンを含み、水で柔らかくしてから胃に流し込む。幼子がそうする間、ベノル=ライトが果物の皮を剥いた。彼らは一刻も早く出発し、日のあるうちにこの森を抜けねばならなかった。幼子は、甘い果物を全て飲み込んでしまってから、ずっと彼のそばに膝をつき、彼を見守っていた老騎士とベノル=ライトを交互に見上げた。
「おまえたちは、食べぬのか?」
泣きべそをかきながら問う幼子へ、2人の騎士は揃って目を細めた。
「お気づきにならなかったのですか? 今、殿下が召し上がる間に、こっそり済ませてしまいました。向こうにいる騎士たちも、もう食事を終えていることでしょう」
幼子は安堵し、ベノルに背に飛びついた。
ベノル=ライトは「王子を背負うため」と、国境を越えたあたりで騎士の鎧を脱いでいた。捨て置く鎧の胸の部分には、スリノアの紋章が誇らしく輝いていた。そこへ剣で傷をつける瞬間の、青年の背中。幼子は目に焼き付けるため、それをじっと見つめたのだった。そして、青年の覚悟に甘えることで、その心を慰めようと決めていた。
歩き始めてしばらく、幼子はベノル=ライトの背から、連れ立って歩く騎士たちの様子を観察した。彼らは一様に笑顔なく、疲れ切っていた。祖国を追われたので当然ではあるが、それでも昨日の早い時間までは、空元気を振りかざす者がおり、軽口が飛び交っていた。
休んだ方がよいのではないか。幼子はしかし、その言葉を飲み込んだ。夕日がつるべ落としの速さで、彼らを見捨てようとしていた。せめて、毒蛇のいない場所までは出ねばならない。
あ、と高い声が上がった。首を後ろへ回して見ると、女騎士が転んだようだった。鎧の胸や赤毛、まだ若く白い頬が、地面に触れている。転んだというよりは、倒れたと言う方が正しいかもしれない。
周りの騎士が駆け寄る中、幼子はベノルの背から降り、どこかへ潜むであろう蛇に怯えながら、ゆっくり近づいた。騎士たちは、若い女騎士に鎧を脱ぎ捨てるよう諭していた。何とか半身を起こした彼女は、唇を震わせて拒否をした。
「ソフィア」
幼子は、渦巻く不安とともに女騎士へ呼びかけた。地に降りた王子に気づき、女騎士を囲んでいた騎士たちが道をあける。女騎士は幼子の声を聞き、はじかれたバネのように土のついた泣き顔を上げたが、すぐに恥じてうつむいた。
「殿下、お見苦しいところを…」
「よい。それよりも、私の問いに正直に答えろ」
騎士たちの緊張が、ざわりと音を立てるかのように伝わってきた。すでに確信をもちながら、幼子は女騎士へさらに一歩近づき、問うた。
「この3日、水以外に何かを口にしたか?」
女騎士の鎧の肩が、わなわなと震えた。申し訳ございません。その小さな弱々しい言葉は、誰に対してのものだったのだろう。幼子か、それとも、共に空腹をこらえて王子へ悟られまいとしていた、仲間たちへか。
王宮で何不自由なく暮らしていた頃の幼子ならば、ここで泣きわめいたことだろう。しかし、彼は顔中に力を入れて耐えた。彼はこの女騎士が、どれほど娘盛りを犠牲にし、騎士となるため努力を重ねてきたかを、幼心に感じ取っていた。そして、つい先日、念願の昇格を経て、ようやく騎士の鎧を手にしたことを、知っていた。
「ソフィア。鎧を脱げ」
王族である幼子からのその台詞は、彼女にとって死にも等しいものであった。女騎士は歯を食いしばり、嗚咽をこらえながら、静かに従った。幼子の知らない鳥が、場違いに美しく鳴いていた。
「僕がやろう」
女騎士の恋人が、これ以上彼女を悲しませまいと、地面に置かれた彼女の鎧へ剣を向けた。国家の紋章を、そのまま捨て置くわけにはゆかぬのだった。
「待て」
幼子が制し、鎧へ歩み寄った。重厚な金属の端をつかみ、持ち上げようとした。己の体重と等しいほどの重さのそれは、当然、びくともしなかった。
女騎士が、「殿下」と、声を上げて泣き崩れた。
それを聞こえぬふりで、幼子はベノル=ライトを振り返った。
「ベノル。私は自分の足で歩く。この鎧を背負って行け」
言うが早いか、彼は進むべき方向へ堂々と歩んだ。ベノルより数歩先へ行ってから、王者の貫禄をもって、騎士たちへ向き直る。
「私はスリノアの王子だ。おまえたち、スリノアの騎士ならば私の命令をきけ。よいか、今後一切、私に嘘をつくな。これは命令だ!」
息を詰めて経過を見守るばかりの騎士たちであったが、まず老騎士が、将来の王へ膝を折った。ベノル=ライトが続いた。我に返ったように、全ての騎士が従った。
「顔を上げよ」
幼子の黒い瞳は、強い意志を湛え、遠い故郷を見据えた。
「私も嘘は言わない。皆でスリノアへ戻るのだ。何年かかろうと、どんなに苦しくとも、必ず私は生き延びてスリノアへ戻ってみせる。おまえたちを連れて、必ず!」
蛇の這う音が聞こえたが、七歳の幼子は必死に虚勢を保ち、それを見事に成功させた。故郷を追われてから10と3日後、辺境へ命からがら逃げおおせる道中のことだった。
命令だ、という言葉を使ったのは、あの時が初めてだった。
ジャスティスは窓枠に腰を上げ、背をもたれて夜風を受けながら、小さく笑んだ。
あれからまるで決まり文句のように使うようになった、「命令だ」。それが冗談に聞こえるうちは良かった。言ってニヤリとすれば、皆、笑ってくれた。しかし、実際に王になってしまうと、それはただの脅迫とも受け取られかねない、危険をはらむ言葉となってしまった。
面倒なことだ。
ジャスティスは嘆息する。
奪還軍のメンバーは皆、彼の冗談を察し、無遠慮なまでに笑ったものだった。なぜ笑われるのか分からぬときもあったが、彼は憮然とすることなく、共に笑った。笑えば、苦しみも苛立ちも面倒なことも、爽やかに流れ去っていく。笑う理由は、それだけで十分過ぎた。
このことは、無礼で粗忽な傭兵から教わった内の、一番の真理であった。それなのに、ここしばらくの間、忘れてしまっていた。そういえば、先の武術会に、その傭兵が来ていたのに、ろくに再会を懐かしむことも、恩人である彼に改めて礼を言うこともしなかった。怒りに支配された己への苦い後悔が、湖底の泥のようにジャスティスの心へ沈んだ。
「陛下」
昨夜笑い合ったばかりの妻が、寝室の戸口から、柔らかいソプラノで彼を呼んだ。そう、この女こそが、真理を思い出させてくれたのだった。ジャスティスは一呼吸の後、返事をして、背をあずけていた窓枠から身を起こした。
シュ、と風切り音が彼の耳をかすめた。
瞬時に脳が体中の筋肉へ警告した。窓から離れろ!
ジャスティスは身をよじり、転げ落ちるように窓枠の下へ身を隠した。しかし、すでに彼の左腕を矢が貫いていた。もう一瞬動作が遅れていたら、心臓を撃ち抜かれていたかもしれぬ矢であった。
「来るな!」
悲鳴を上げるカノンを鋭く制し、ジャスティスは部屋の入り口を守る近衛騎士を呼ぶよう指示した。
脳天まで突き上げてくる激痛。乱れる呼吸、かすむ視界。女の悲鳴。騎士たちの喧騒。
スリノアの白々しい平和を、二本の矢があざ笑った夜だった。
第三章へ続く