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第二章 少年王と王妃 (2)

(2)


 公務を終えジャスティスが自室へ戻ると、カノンが読んでいた本を置き、微笑む。

 「お帰りなさいませ、陛下」

 儀式のように繰り返されるそれは、ジャスティスをうんざりさせた。

 この王妃とは、ジャスティスが五歳のときから面識がある。そのときに、婚約者となったからである。彼女は有力貴族リッケンバッカー家の長女であり、現宰相であるレイバー=グリンベルの外戚でもある。由緒で言えば最高級の令嬢である。

 更に、カノンは文句のつけようもなく美しい。腰まで伸びた、絹糸のような金髪。スリノアが誇る湖の色の、大きな愛らしい瞳。太陽に触れたことのないかのような、透き通る白い肌。甘い木の実のような小さな唇。柔らかな微笑とソプラノ。体の線は頼りなく細く、しかし胸元は男を満足させる柔らかな魅力を持ちえている。

 完璧な美。女は美しいに限るという男もいる。当然ながらジャスティスも、女は美しいのが良い思う男の一人だ。しかし、美しいだけで良いとは思わない。それでは人形を愛すのと同じだ。

 「ベノルに贈られた本か?」

 ジャスティスは単に話題をふっただけのつもりだったが、その声に何か含みを感じたのだろうか。カノンは微笑のまま、わずかに身を固くした。

 「はい。とても興味深い書籍ですのよ」

 ジャスティスは「そうか」と大して意味のない相づちをうち、着替えるために寝室へ入った。独り身の頃より二回りは大きくなったベッドをしばし眺め、眉を寄せる。

 結婚して10日ほど、ジャスティスは舞い上がっていた。初めて覚えた女の体の素晴らしさに、まだ16の少年は夢中になった。しかし、思い出すだけで血が昇りそうなあの日以来、彼は冷徹な男へ変わらねばならなかった。妻の心を知りたい故に、手を伸ばした読みかけの本。しおりのように使われていたのは、一枚の便箋であった。いけないと思いながら、彼はそれを開いてしまった。愛するカノン、と始まり、王妃の体や心を気遣う内容の下に、オーウェンとサインがあった。ジャスティスに心当たりのある男の名であった。

 本を読むふりで、他の男へ思いを寄せていたのか。

 嫉妬か、または自尊心ゆえか。ジャスティスは怒り狂った。たまたま王妃は一族の用でその夜は帰らなかったのだが、そうでなければ、どれだけ傷つけても足りないほどに彼女を罵ったことだろう。

 その苛烈な怒りも、一晩眠れずに持て余した朝には、燻ぶる程度にまで鎮火した。むしろ、幼少の訳もわからぬ頃に決められた男に嫁がねばならなかった少女を、憐れむ気持ちにさえなった。そして、何も察せず快楽に溺れるだけだった己を、彼は猛烈に恥じた。

 今更、婚儀を取り消すことはできず、世継ぎを求める声が激しい中で、突然妻を抱かなくなるのも不自然だ。彼は背徳感に沈みながら、可愛そうな少女をそれまでと変わらず抱いた。知ってしまった真実をなかったことにできなくなることを、ジャスティスは一番恐れた。カノンを責めたところで何も変わらないと、悟っていたからだった。そもそも彼自身も、突然あてがわれたような妻を愛しているのかどうか、正直、わからぬのである。

 寝間着に替えたあと、ジャスティスは儀式の続きをなぞりに居間へ戻った。行儀良く応接ソファに腰掛ける精巧な人形へ近付き、その向かいの応接椅子へかける。

 「謁見の後は、変わりなかったか?」

 「はい」

 柔らかなソプラノと、作られた微笑。

 「すぐにこちらへ戻り、献上された書籍を読んでおりました」

 「そうか。私はその後、エインズワース家の嫡男の誕生式典へ出た」

 「まあ。バーナード様ですわね。おいくつになられましたの?」

 「十だ。だからこそ私が出向き、華やかな式典であった」

 「皆様、さぞお喜びのことだったでしょうね」

 「当主がおまえにも会いたがっていたぞ」

 「光栄ですわ」

 これくらいでいいだろう。ジャスティスは嫌気が顔に出ぬうちに、儀式を切り上げようとする。仲睦まじい夫婦の会話が、平均して一日にどの程度なされるのか、彼は知らない。だが、カノンは特に不満を感じていない様子であるし、一日の報告以外に話す内容も思い当たらないのであった。

 まだ眠いわけではないが、寝室へ行こうと思った。ジャスティスは腰を上げかけて、ふと、カノンの前にある読みかけの書籍に目を留めた。第一巻、と書かれてあるのを、彼は読み取った。

 「その書籍は、難解なものなのか?」

 いつもならば、このような問いかけなど、面倒に思って口にしなかったに違いない。今回の理由はただ、それを贈ったのがベノル=ライトだからというだけだ。あの騎士団長は、遠征から帰ると、名目上の献上物を謁見の間で見せた後、あとでこっそりとジャスティスの本当に喜ぶものを渡してくれたものだった。それがなくなってしまった今、望むものを贈られたカノンに対し、小さな嫉妬のようなものがあったのかもしれない。

 ともかく、特別な意図など全くない、単純な質問であった。それなのに、王妃はひどく動揺したように見えた。

 「どうして、ですの?」

 聞く者の同情を誘うほどに、慄きに揺れるソプラノ。その理由ははっきりとは分からなかったが、ジャスティスは知らぬふりを決めた。そして、いらぬ問いかけをした己を悔いた。妻の態度に男の影がちらつくきっかけを、何よりも恐れていたというのに。彼は会話を切り上げたいと焦り、早口に言い捨てた。

 「謁見から帰った後にすぐに読み始めたにしては、進みが遅いと思っただけだ。おまえはいつも驚くほど、本を速く読み上げる」

 それを聞いたとたん、カノンの美しく整った顔から、中途半端な微笑と恐れがきれいに消え去った。

 愛らしい唇がぽかんと開き、大きな碧眼が更に大きくなった。

 なんだ、これは。初めて見るぞ。

 今度はジャスティスが狼狽した。彼はカノンがみっともなく微笑んだまま、うろたえ続けるであろうとばかり思っていた。しかし、彼女は何か不思議な現象でも目撃したかのように、口をあけたまま目を瞬かせている。作られた精巧な微笑とはかけ離れた、人間臭い、だらしのない表情であった。

 速まる鼓動に戸惑い、ジャスティスはわざとしかめ面で問うた。

 「私は何か、おかしなことを言ったか?」

 カノンは王の不機嫌を恐れ、また半端に微笑を作った。それはジャスティスを苛立たせた。今を逃せば二度と手に入らぬ、そんな焦りがジャスティスを突いた。ろくに推敲されない言葉が、そのまま口から出た。

 「おまえはいつもそうして笑っているが、作ったように笑うより、もっと泣いたり怒ったりしてみたらどうだ。その方が」

 その方が。

 少年と少女の間に、その言葉がぽつりと取り残された。

 その方が、どうだというのだ。

 ジャスティスの全身に、カッと血が巡った。目をそらすのも恥じらいを認めるようで、できなかった。カノンも同じであったか分からないが、潤むように輝く碧眼は、真っ直ぐに彼に向けられたままだった。

 早鐘のような鼓動。今何か言えば、声の震えを抑えることができないだろう。彼は黙り込んで、胸の内の燻ぶりを意識するよう努めた。この女は別の男を好いているのだぞ、と。それでも、鼓動は落ち着かなかった。

 「陛下は、わたくしが、本を読むのが速いと思われますか?」

 やがてカノンのソプラノは、そんな言葉をつむいだ。この場に似つかわしい言葉とは思えなかった。ジャスティスは小さな落胆から、かすかに眉を寄せて答えた。

 「ああ。いつもすぐに片付けてはいるが、尋常ではない速度で次の本へ移っているだろう。私は本を好かないので、ひそかに舌を巻いていた。教養のあるおまえが、まさか斜め読みをしているわけではあるまい」

 話すうちに冷えてきたジャスティスの身が、次の拍子に、沸騰するほどに赤く染まった。

 カノンが、こぼれるように、笑顔になったのだ。

 蝶がさなぎから羽化して飛び立つ様を見守ったかのような感動が、ジャスティスをいっぱいに満たした。カノンの細く儚い肢体から、喜びや愛に類する美しい何かが一遍に溢れ出し、この部屋中へ広がるかのようだった。いや、部屋だけでは足りない。王宮中へ、王都中へ、遠い辺境の地までも。少年王の治める、この緑と湖の国全体が、次々とそれに覆われていくようだった。

 静謐な決壊。

 矛盾した言葉を並べてみて、ジャスティスは可笑しくなった。この魔法のような滑らかで優しい決壊により、ジャスティスの心の底へ燻ぶっていた小さな火も、すっかり押し流されてしまったのであった。

 「陛下は、私が作り笑いをするばかりだとおっしゃいましたけれど」

 カノンは少年王を虜にしたまま、恥じらうように上目遣いで言った。

 「陛下こそ、いつも投げやりな、つまらなさそうなお顔ばかり。もっと、今のように微笑まれてはいかがですか? その方が」

 カノンは口の端をかすかに上げ、わざとらしく言葉を留めた。

 その方が。

 ジャスティスは、驚きも照れもない交ぜにして、大きな声で笑い出してしまった。

 自分はどんな顔をしていたのだろう。この1ヶ月間。そしてたった今。

 「その方が、お互い良いのだろうな」

 ひとしきり笑ったのち、彼は悪戯めいた笑みの妻に、ニヤリとして見せた。そして、今夜はこの女を抱かず、ただ並んで眠りたいと思った。欲を言えば、彼女の細く白い手を優しく握ったまま。更に欲を言えば、彼女の柔らかい金髪を、ゆったりと撫でながら。

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