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第一章 少年王と宰相 (3)

(3)


 レイバー=グリンベルが地下牢を訪れるのは、これで2度目のことであった。看守たちも慣れたもので、面倒な押し問答もなく、名家出身の宰相を通すようになっている。それは彼の来訪が初めてであるという理由からではない。本来ならばこの場へ足を踏み入れることさえなかったかもしれないスリノアの英雄が監禁されているなどという、異常事態ゆえのことである。

 考えるたび、レイバーは嘆息する。ここへ無慈悲に放り込まれたのが、あの若き英雄以外の誰かならば、ここまで塞いだ気持ちにならなかったものを。

 初老の彼には、スリノアの英雄と同じ歳の息子がいる。剣を振るう出自ではなく、戦や過酷な運命とは無縁のためか、才気、配慮、覚悟、どれをとっても、英雄とはまるでかけ離れた器の、愚息である。……表向きにはそう吹いて回っているものの、レイバーの本音は違う。そもそもかの英雄のように、運命に立ち向かって戦い、優雅に勝利を収め、その後も謙虚に国政へ尽力できる者など、存在することの方が異常だ。彼の息子は英雄と引き比べさえしなければ、親の贔屓目を差し引いても、人並み以上に頭の切れる、熱意と野心に溢れた若者であるはずだった。相手が悪すぎるだけなのだ。

 それほどまでに有能な若者が、王の子どもじみた癇癪などで投獄されている。レイバーが歩みを止めた場所には、その恐ろしい現実が静かに待っていた。

 「ベノル殿」

 レイバーは、牢の中でろうそくを頼りに本を繰る英雄へと、呼びかけた。慈しみと憐れみと、わずかな恐れを抱きながら。

 ベノル=ライトは立ち上がり、痩せた頬を緩ませ、白髪の宰相へ向き直った。すっとした背筋、洗練されたスマートな動作。薄汚れた暗い地下牢において、英雄のまとうオーラそのものが、異質なものとして浮き上がっていた。伸びた金髪と同じ色の髭のみが、彼が囚人であるという現実味を帯びており、上品な顔立ちを幾分損ねていた。

 「宰相殿。このようなところへ再度おいでいただくとは」

 曖昧な微笑み。

 レイバーの目には、今やはっきりと映っていた。この齢30のまだまだ前途ある者を蝕む、計り知れぬ喪失と絶望が。

 『あの英雄には、大きな責務が必要だ』

 彼の胸を強く打った言葉が、鉄格子の向こう側の悲しい真実を、そのままに物語っていた。レイバーが1度目にこの地下牢を訪れたとき、若き英雄は生きる気力を持たぬように、虚ろに宙を眺めるばかりであった。そのとき露呈された、英雄が抱える心の奥底の闇は、触れれば何が起こるか知れぬ危うさを武器に、今や、なりを潜めている。過酷な戦に希望を失わず勝ち抜いてきたはずの彼が、一体なぜスリノアを取り戻した今、念願叶ったはずの今、心のバランスを崩さねばならぬのか。それを知る者はいない。触れられぬ以上、推測するしかないのである。そして、レイバーの知る限りのことを考え合わせた結論として、先の言葉がある。この英雄には、大きな責務が必要だ。己が何を得て何を失ったのかなど、想う暇もないほどの、責務と繁忙が。

 「ベノル殿」

 レイバーは無機質な声を装うため、いったん呼吸を整えてから問うた。

 「スリノアを統べる、英雄王となっていただけませぬか」

 英雄から、微笑が消え失せた。相手の真意を見極めようとする緑の双眸が、剣呑に輝く。

 美しい、とレイバーは率直に感想をもった。この若さでこれだけの悲哀を瞳に秘める者を、今までもこれからも、彼は知らないだろうと思う。

 「ベノル殿。現在のスリノアを平和と繁栄へ導いているのは、あなたが率いた奪還軍の元メンバーたちです。あなたのカリスマに惹かれ、それに中てられた光栄な者たちが、各地でリーダーシップを発揮している。貴族の中には、あなた方を妬む者もおります。しかし、国民の絶大な支持を得るあなたがたに、平伏すしかないのが現実であり、それがスリノアを平和たらしめている。違いますか?」

 英雄は応えない。たたずむ姿は、岩のように、ただそこへ在るだけだ。

 レイバーは、急く己を抑え、ゆっくりと続けた。

 「さて、ここで仮定の話をしてみましょう。考えたくもないことですが、今、スリノアに何らかの危機が訪れたとします。あなたがたった一声呼びかけたなら、元奪還軍の優秀なメンバーたちは、強い結束の下に再び集うことでしょう。それは誰の目にも明らかです。しかし」

 レイバーは、緑の輝きへ呑まれぬよう、声をを低く、強めた。

 「同じことを陛下がされたとき、結果はどうなりましょうな」

 ベノル=ライトの表情は、微塵も変わらない。双眸だけが、力強く輝き続けている。

 その視界に捉えられた状態での沈黙は、ある種の恐怖であった。多くの者は、耐え切れずに持論や弁解をまくしたてるだろう。そして、言葉の端に小さな失態を犯す。

 英雄はそれを熟知しているかのように、その瞬間を逃さぬというように、レイバーを射抜いているのであった。

 永遠とも思えるような、張り詰めた沈黙。

 折れたのは、なんと歴戦の英雄の方であった。ふと瞳が穏やかになり、静かな声で問う。

 「温和なあなたから、そのような言葉を聞こうとは。もしや、何かお困りなのでは?」

 レイバーの背を、冷たい汗が流れた。悪寒を悟られまいと、言葉を探す。いや、それではこの英雄の覇気に呑まれてしまう。黙るのだ。問いかけは成した、真意も伝えた。あとは返答を待つのみでいい。

 ベノル=ライトは、長く宰相の言葉を待った。が、無駄と悟ると、やがて目を閉じた。呪縛から解き放たれたように、レイバーの体が弛緩する。いや待て、と彼は己を叱咤した。まだ終わったわけではない。

 「時間をいただきたい」

 目を閉じたまま、英雄は唐突に言った。そして、穏やかに目蓋を上げ、緑の瞳を自嘲気味に細める。

 「幸い、ここではそれが山のようにあります故。ほんの数日で結構です」

 「申し遅れましたが」

 レイバーはようやく緊張を解き、晴れ晴れと吉報を告げた。

 「明日をもって、貴公は自由の身です。王の結婚による恩赦が降りたのです」

 英雄は、何も言わなかった。やはり曖昧に微笑している。弟のように、我が子のように見守ってきた少年の祝事を、どのような気持ちで受け止めたのか。レイバーに知るすべはない。

 「正式には、明日、看守より告げられることでしょう。式典の間は、どうか体をお休めください。全ては滞りなく進められます」

 「あなたが指揮をとっておられるのであれば、当然です、グリンベル殿」

 役職ではなく姓名で呼ばれ、レイバーはひやりとする。取り繕うように、破顔一笑して見せた。

 「では、これにて。突然の不躾な問答、失礼いたしました」

 ゆっくりと一礼し、牢を数歩離れた。

 そのときだった。

 「今ならば、これは冗談であったと笑うことができますよ。グリンベル殿」

 突きつけられた刃の切っ先に思えた。

 一旦その場に凍りついた宰相であったが、しかし、英雄を振り向かぬままに歩み去った。


第二章へ続く


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