第四章 少年王の覚悟 (4)
(4)
ベノル=ライトは、やはり約束を違えぬ男であった。王の味方についた近衛騎士へ巧みに指示を飛ばし、三日の約束を二日に縮めてみせたのだった。
緊急に謁見がひらかれ、猿ぐつわを回された不届き者の姿が、王と謁見の間に詰め掛けた者たちへ晒された。犯人は、まだ若い青年であった。憎悪に燃える瞳は黒々と輝き、肌は褐色であった。「ワオフ族」「野蛮」という言葉が、人々の小さな声で飛び交った。
ジャスティスの脳裏には、かつてベノル=ライトの妻であったワオフの王女の姿が、鮮明に浮き上がった。あの女の憎悪を、ジャスティス自身は真っ向から受けたことはない。しかし、今目の前の青年はそれを代弁するかのように、矛先を真っ直ぐに彼へ向けているのだった。
騎士団長と近衛隊長が並んで、王へ事の次第を報告した。犯人捕獲に時間を要したことへの謝罪も、そこに含まれていた。核心部分の伏せられた、大衆用のどうでもよい問答は、早々に切り上げたかった。ジャスティスにとっては我慢を要する形式的な時間がようやく終わりを迎え、解散と同時に、彼はそばに控えていた近衛騎士の一人を呼んだ。
「騎士団長に、犯人と話させろと伝えておけ」
近衛騎士は驚いたようだったが、何も問わずに従った。
その後姿を見届けてから、彼は宰相の姿を探した。謁見の間中、無機質に佇んでいた初老の男は、しかし、もう見当たらなかった。
近衛騎士から伝え聞いた部屋を訪ねると、英雄と近衛隊長、そして数名の騎士が、少年王を待っていた。
部屋の中央のワオフの青年は、猿ぐつわを外されていたが、手足を固く縛り上げられた上、さらに椅子に座らされ、固定されていた。そして、ジャスティスを見るなり、届かぬと分かっていながら、唾を吐きかけた。
近衛隊長が、素早く剣を抜き払った。ジャスティスはそれを短い言葉で制し、距離を保ったまま、青年へ問うた。
「ワオフの民が、私を恨んでいるのは承知している。私の命を狙う理由は、山ほどあるのであろうな」
それを背負った上で、彼は少年王でなければならない。頭では分かっていたつもりだが、こうして憎悪を目の当たりにすると、臓腑をねじ切られかのような強い拒絶が湧き上がってくる。これ以上近付き、憎悪に中てられたなら、何かがバランスを崩しそうな予感がした。ジャスティスは身のすくむような恐怖をひた隠し、重く、ゆっくりと問うた。
「だが、なぜ王妃までもを狙った。王妃は政治に関与しておらぬ。ワオフの民とて、それくらいは知っておろう」
青年は、憎悪を宿した瞳のまま、冷ややかに口元を上げた。常軌を逸したような歪なその表情に、ジャスティスは寒気を覚えた。人間はここまで、誰かを憎むことができるものなのか。
「おまえは」
青年が、凍りつくような声色で、ジャスティスの心へ鞭を打った。
「本当に大切なものを、失くしたことがないんだろ」
少年王は、努めて冷静に問い返した。
「それが、私の問いに対する答えか」
「なんでクレアが死んで、おまえの女は楽しそうに生きてるんだ」
青年は、相変わらず冷ややかに笑んでいたが、それは時が経つにつれ、異常へ変化していった。およそまともな精神状態の人間が見せられぬような、泣いているのか笑っているのか判別しかねる、歪んだ表情であった。
「クレアを返せ。返せないって言うなら、おまえの一番大切なものを差し出せ。それを目の前で、滅茶苦茶に壊してやる。そのあとは、もう、どうにでも、なればいい」
ジャスティスは、この青年の人生について、思いを巡らせた。幸せな人生に、そのクレアという女性は欠かせぬ存在であったのだろう。戦乱によって、彼女は命を落としたのかもしれない。こんなにも人を愛することのできる青年の周囲に、家族や友人の存在がなかったとは思えなかったが、それも目に入らぬほどに、青年は心に深手を負い、喪失を埋めるために何かせねばならなかったのだ。自らを孤独に追いやり、異国の王都へ潜み、飢えをしのぎながら、憎悪のみ生きる糧として、日々を送ってきたのだろうか。
「おまえの名は、なんという」
青年は歪んだ表情のまま不気味に黙り、答えることはなかった。代わりに、ベノル=ライトが名を告げた。その名を一度、口の中でつぶやき、ジャスティスは己の内へ刻んだ。
「私がおまえにしてやれることは」
同情や憐れみを押し殺し、少年王は堂々と、力強く述べた。
「おまえを、その女の元へ送ってやることだけだ」
青年は、無反応であった。
彼にはもはや、失うものなど、何もないのだろう。
ジャスティスは、ベノル=ライトへ向き直り、この者への刑の執行を4日後にせよと命じた。少年王が失墜しこの世からいなくなるのならば、それを見てからの方が、青年の魂も慰められよう、との計らいであった。
英雄は、一旦じっと少年王を見据えたが、すぐに承諾し、部下達へ指示を出した。数名の騎士に引き立てたれ、青年は崩れた表情のままに部屋をあとにした。
「近衛隊長。ご苦労であった。扉の外で待っていろ」
ジャスティスはそう命じ、英雄と部屋で二人きりとなるように仕向けた。近衛隊長は英雄の様子を瞬時うかがってから、外へ出ていった。
「ベノル」
少年王は、佇む英雄へ、静かに告げた。
「少しだけ、おまえの気持ちが、わかったような気がする」
激しい憎悪を直に向けられると、強く引き寄せられるように負の感情が上がってくる。それは、怒りか、恐怖か、または、同じ憎悪か。ジャスティスにとって、憎悪に中てられることは、単純に恐怖であった。しかし、この男はどうであろうか。あんなにも一途にスリノアを奪還せんとしていた英雄の胸には、おそらくそれを奪った者たちへの煮えたぎるような憎悪があったに違いない。それが未だに、癒されていないとしたら。
英雄は、ただじっと、何も語らぬ緑の瞳に、少年を映していた。そうであろうな、と少年王はすぐに納得する。王子が威厳ある振る舞いをせねばならぬのと同じで、司令官も、憎悪や復讐が目的などと悟られぬわけにはいかなかったのだ。英雄などと呼ばれるようになった今では、なおさらのことと思われた。
ジャスティスは、やり切れぬ想いが収まるのを奥歯を噛んで待ったあと、今度は張りのある声で問うた。
「約束事は、どこでどう果たせばよいものか」
「宰相殿から、聞いておられませぬか」
ジャスティスは、英雄の冷たい声を聞き、怯みそうになった。だめだ、と己の弱さを叱咤する。最後の最後まで、この男を信じると、決めたはずではないか。自分の命を奪うのがこの男であることは、わずかな慰めであると、そう失望するのは、最後の瞬間だけでいい。
「三日後の、議会場か」
落ち着きを装って返すと、
「左様でございます。どうか、ご欠席されぬよう」
英雄は苛立ったかのように、台詞の途中で扉へ歩み始めた。ジャスティスは、ベノルが大事な話の締めくくりに動作を伴わせるのを、初めて見たように思った。
「わかった」
出て行く英雄の背へ、少年はそう投げかけた。聞こえたのか分からぬような去り行く後姿に、ジャスティスは不安を覚えそうになり、また奥歯を噛んで堪えた。
何かあるたびに揺れる。なんという弱さであろうか。あと三日、三日だけ、彼を信じるのだ。そうすれば、胸を張って死んでゆける。
ジャスティスは、己と戦いながら、ついにそのときを迎えようとしていた。
終章へ続く