第四章 少年王の覚悟 (3)
(3)
英雄は、終始無言で実況検分を行った。やがて得心したのか、見守っていた少年王と王妃にかしづき、「夜更けに失礼をいたしました」と一礼した。
王と共にやって来たベノル=ライトの姿を見てから、カノンは落ち着かぬ様子であった。彼女は英雄が去ろうとしたその時、彼をを呼び止め、涙声で一言告げた。
「後悔しております……」
なんの懺悔であるか、英雄は瞬時に理解した様子であった。わずかに表情を和らげ、しかし何も言うことはなく、そのまま扉へ向かった。
2人の近衛騎士は部屋の内側の扉付近で、いつになく直立不動で ベノルの検分の様子を見つめていた。英雄が近づいてくると、彼らは息を飲んで肩を張った。そもそも英雄は彼らにとって恐れと敬服の対象であったが、近衛隊長であった老騎士が亡くなった後は、臨時の直属の上司でもあるのだった。
はたして、ベノル=ライトは、彼らの前でおもむろに立ち止まり、よく通るその声で命じた。
「近衛隊の決定権は、近衛騎士の一番年長の者へ委譲する。これより先は、独立して動け」
まさに一番年長であったベテランの近衛騎士は、あまりのことに体中をひきつらせた。
「ライト様。突然そのようなことを言われましても。一体どうすればよいのですか」
「その決断を下すのが隊長の仕事だ」
多少苛立った固い声で言い捨て、英雄は部屋を去った。
ジャスティスは、困惑に暮れる近衛騎士の前へ、格別の少年王の演技で歩み寄った。ここで英雄の迫力に負けては、彼らの心を捉えることはできない。
「近衛隊長よ」
王の威厳ある呼びかけに、ベテラン近衛騎士は、はっと我に返ったようだった。そして、少年王の強い視線に触れた瞬間、弾かれたように膝を折り、ひれ伏した。隣にいた近衛騎士も、慌てて追随した。
ジャスティスは彼らの上から、最大限に低い声で問いかけた。
「騎士団は、中立の立場であると聞いている。近衛隊長、おまえはどうするのだ。近衛隊を、同じく中立とするか。決定権をもつのは、近衛隊長、おまえだ」
繰り返される役職名の重圧に、ベテラン騎士の体がぐらついたように見えた。もう一押しか、とジャスティスはたたみかける。
「おまえの前に隊長を務めていたアラディン=バグウェルは、歴代稀に見る、優秀で気高い近衛騎士であった。彼ならば、この場でなんと答えるであろうか」
二人の近衛騎士が、揃って息を呑むのが伝わってきた。少年王は、彼らに選択の余地がないよう追い込んだわけであったが、彼らはその思惑以上に感銘を受け、王と妃を守り抜くことを高らかに誓い上げた。
「期待している」
ジャスティスはきびすを返し、王妃の元へ戻った。カノンは離れていたにも関わらず、気圧されたように固くなっていた。ジャスティスはそっと彼女の肩に触れ、共に寝室へ来るよう促した。カノンは恐る恐る従った。
「……疲れた」
寝室へ避難した瞬間、ジャスティスは思わず愚痴をこぼした。
驚いて目を見開いたカノンは、まだ身を固くしたままである。ジャスティスは、ニヤリとして見せた。
「どうだ。少年王は、なかなかに威厳があろう」
カノンはぽかんと口を開け、次には笑顔となった。ああ、もう一度これを見ることができた。ジャスティスは満たされ、幸せな吐息をついた。そして、大きなベッドの端へ腰掛け、隣へカノンを招いた。彼女の細い肩を抱き寄せ、絹糸のような金髪に頬を寄せた。
「散々な夜であったな」
自虐的な彼の声に、金髪がふるふると揺れた。
「いいえ。今まで生きていた中で、一番に幸せな夜でした」
強い女だ、とジャスティスは金髪の上で微苦笑する。彼女の一言一言は、彼の心に幸福の色を落とし、ぬくもりをもってそれを広げていくのだった。
「カノン。今すぐおまえを抱きたい」
彼は見つめ合っていないのをいいことに、素直に気持ちを打ち明けた。
「だが、子に障るようなことは、よくないであろうな。体調はどうだ。吐き気はないか」
「…はい」
力の抜けた、様々なことを放棄するかのような声で、カノンは答えた。そして、ただジャスティスの挙動に従うだけであったその身を、自らの意思で彼に預けた。持ち上げられた細い手が、少年の肩の衣服を軽く握った。
「陛下。わたくしは、本当に、幸せでございます」
言いながら、衣服を握る手が震え始め、つかむように力が込められた。
「でも、わたくしは、陛下に想っていただけるような女では、ないのです。本当は、卑劣で、弱くて、愚かな女です。陛下に、お話しなければならないことが」
「よい」
ジャスティスは彼女の言葉を制し、震える細い手を取った。そして、それをそっと自分の膝の上へ置き、手を重ねた。
「知っている。おまえは、私の動きをある者へ伝えていた。理由は言うな。私は、おまえを信じると決めたのだ」
温厚な宰相の不可解な反逆に、王妃の不審な行動。残る謎は、英雄の数々の選択だけであったが、カノンの安全が保障された今、それは彼を動揺させるものではなくなった。
「おまえは何も知らずに、ただ言われた通りに従っただけだ。それでよい」
カノンの身が縮こまり、嗚咽がもれた。ジャスティスは、彼女を抱く腕に、より力を込めた。
「私は、5日後の議会で、王座から下ろされるかもしれぬ。そうなっても、騎士団長や宰相が、おまえを守ってくれよう。腹の子も、守ってやれたら良かったのだが。何もできぬ夫で、すまない」
昂ぶる感情が、声の震えとなって露呈されてしまった。
カノンがわずかに身を引き、顔を上げてジャスティスの表情をうかがった。
潤んだ美しい碧眼を真っ直ぐに受け、ジャスティスは感銘を覚えた。これこそ、彼の心の奥底の湖の色だ。幼い頃より、静謐に彼の底へ横たわり続けた、スリノアの色だ。
「カノン…!」
彼は激情のままに妻の名を呼んだ。思いがけず、声は上ずって、ひどくかすれた。彼はまるで抱えこむように、両腕で彼女の体を強く寄せた。
「どうか、聞いてほしい。私はスリノアを故郷と思っていた。だが、幼かった私には、この地の記憶は曖昧で、三年も経つと忘れてしまった。代わりに私を支えていたのは、当時の仲間達であった。私は彼らを愛し、彼らは私を愛してくれた。いつしか、彼らこそが、私の第一の宝となった。スリノアへ帰らずとも、私はそこに故郷を見出したように思った。だが、それは違ったのだと、今、わかった」
彼の湖はずっと、優しく、穏やかに、静謐さを保っていた。それに気づかぬふりで、彼は目の前の明るさへ手を伸ばそうと、苦しみ続けてきたのだった。
「私は帰ってより、この故郷を愛してこなかった。奪還軍が解散となったのは、この地に戻ってきてしまったからだ。気の知れた仲間とは離れ離れになり、最も信頼できる騎士たちこそを、遠方の責任者へ任じねばならなかった。王宮の暮らしや慣習は、七年間も離れていた私には、耐え難く窮屈であった。苦労して戻ったにも関わらず、ベノルを王に、という国民もいた。なにもかもが、辛かった。唯一、話を聞いてくれたベノルも、私から離れていった」
彼は、しばしカノンのぬくもりを味わい、己に認めさせるように、重く言った。
「故郷を、国を愛せぬ男が、王座に居てはならない。故郷を愛せぬ者は、故郷から愛されぬ」
彼から離れていった全ては、彼自身がそう仕向けたものに他ならない。彼は奪還軍を失った悲しみを、議員や高官、国民を疎むことで解消しようとした。ベノル=ライトのことだけは信じ続けたかったが、英雄王を望む声を憎むあまり、彼をどこかで恐れ、ここ最近は疑っていた。スリノアを奪還するという情熱を遂げた英雄へ、奪還軍への想いを語ることなど、できぬ話であった。思えばこの崩壊は、王子と英雄がスリノアへ還ったそのときから約束されていたのかもしれぬ。ジャスティスは皮肉を笑いたくなった。
カノンは彼の腕の中で、しばらく、動かずに黙っていた。吐き出したいことは山ほど胸に詰まったままだったが、ジャスティスは苦い後悔とともに口を閉じた。つまらない愚痴を聞かされて、さぞ退屈であっただろう。誰かに話を聞いてもらいたいという悲願と、相手への配慮を天秤にかけ、ジャスティスはいつも葛藤する。結局は、配慮のない人間であると思われたくない気持ちが先立ち、言葉を飲み込むのが常であった。それは彼を、過ぎた忍耐と孤独へ追いやってきた。
カノンは長くジャスティスの沈黙を確認したあと、そっと身を引き、何か決意したかのように固い表情で、彼をじっと見つめた。
「陛下」
彼女は、わずかな恐れを瞳に滲ませながら、問うた。
「わたくしのことを、愛してくださっていますか?」
ジャスティスは、その美しいソプラノと瞳の青に惹かれるように、「ああ」と答えた。答えてから、彼の頬には瞬時に赤みが差した。口元が震え、息苦しい中、少年はようやく、勇気をもって彼女へ告げた。
「おまえを、愛している」
カノンは、喜びと安堵の混じった華やかな笑顔を、褒美として彼に贈った。こんなに素晴らしく愛しい笑顔を見られるのならば、何度でも口にしてやりたい。彼はもう一度繰り返した。
「カノン。愛している」
ところが、今度は彼女の笑顔は歪み、大きな瞳から涙がこぼれた。泣き顔さえ愛しい、とジャスティスは切なくなった。彼が見つめる中、カノンは嗚咽交じりに問うた。
「ならば、わたくしのいるこのスリノアを、愛してくださることは、できませんか。陛下が、わたくしを信じてくださったように、スリノアの全てを、信じることは、できませんか」
ジャスティスは、息を呑んだ。彼の妻の言葉は、彼の胸の扉へ鍵を差し入れ、軽やかに開放したのだった。
そうか。私はまた、忘れていた。
与えられることばかり期待せず、相手に何か与えることを考えねば。信頼されたいならば、まず相手を信頼せねばならない。愛されたいならば、まず自分から愛さねばならない。
ジャスティスは微笑んだ。この少女が愛しい。彼はまだ、誰かを愛し、慈しむことができる。
「おまえの、言うとおりだ」
ジャスティスは、カノンの頬の涙の跡を、手で包み込むようにぬぐった。
「おまえは美しい女だ。もっと早くに、気づくべきだった」
彼は小さな唇へ、静かにキスをした。そして、三日後には安心して夜風にあたりながら、カノンともっといろいろな話がしたい、と思った。
英雄は、その願いを叶えてくれるはずだ。彼は、ベノルを揺るぎなく信じようと思った。そうすると、彼はひとつの気づきに出会った。信じるということと、信じようと努めることは、よく似ているが、違う。信じていた相手が疑わしければ激昂したくなるが、信じようと思う相手が疑わしい行為に及ぼうとも、彼が努力をやめぬ限り、信じようとする気持ちは揺るがない。つまるところ、相手任せなうちは幼子と変わらない。自分を拠り所にしてこそ本当の成長であり、本当の信頼や愛情を得られるのだ。
少年は、その夜、ようやく故郷へ戻れたという感慨に浸って、眠りについた。これから先は、湖が波立つことがあっても、冷静にその正体を見極めることができるであろうという、確信めいた予感があった。