第四章 少年王の覚悟 (2)
(2)
彼の遊び場への扉は、今夜は運命の扉となって、ジャスティスの前に重く立ちはだかっている。
まず灯りが漏れていることに安堵したものの、彼はしばらくノックをためらった。
怖い。
死ぬことではなく、死に至るまでの過程を、彼は恐れた。唯一無二の存在であるベノル=ライトに、拒絶され、裏切られ、王座にふさわしくないと言われてしまうのか。それは死よりも耐え難いことのように思われた。いっそのこと、何も言葉を交わすことなく、わけの分からぬまま一刀両断にされる方が良いとさえ、彼は考えた。
しかし、ジャスティスは深呼吸とともに、己の弱さを追いやった。あの笑顔を、ぬくもりを、守らねばならない。それには、他に方法はないのだ。
決意したが早いか、彼はそばの近衛騎士に震えを悟られぬよう、堂々と力強く、扉を叩いた。入室を許可する英雄の声が、やけに遠く感じられた。近衛騎士が、少年王のために扉を押し、先に入室して扉を押さえた。
デスクについている騎士団長と、少年王を演じるジャスティスとの空間が、繋がり、広がった。緑の瞳が王の姿をとらえ、わずかに大きく開かれたのが、ジャスティスの黒い瞳に映った。
私は、どのような顔をしているのだろうか。必死に虚勢を張りながら、ジャスティスは場違いにそんなことを考えた。ここまで重圧がかかる演技は、あのとき以来だ。蛇がいる。蛇の這う音。彼は幻聴に苛まれた。怖い。怖いが、彼は王子であり、今や王であった。恐れや涙など、見せてはならない。騎士や仲間たち、国民が彼を誇らしく思い、喜んで彼に従うように、振舞わねばならない。
そうだ、ずっとそうしてきたのだ。幼い悲劇の王子の大人びた演説や、威厳ある立ち振る舞い。全ては演技で、作為的で、スリノアへ還った頃には彼をうんざりさせていた。本当の彼は、傭兵の苛烈な生き様や、元盗賊女の率直さに惹かれるような少年だったのだから。しかしながら、彼は今この時、飛び切りの王者でなければならない。飢えと疲れで、誇りまでも折られかけていた騎士たちを昂ぶらせた、あの時以上に。
ベノルはその緑の瞳に、ジャスティスの何を映したのだろうか。それを推し量る間もなく、英雄は相変わらずの洗練された動作で立ち上がり、デスクの前まで出た。そして、慣例通り片膝をつき、頭を下げて王を迎えた。
「陛下。このようなお時間に、直々においでになるとは。いかがいたしましたか」
ジャスティスは、大股に歩んで入室した。扉を押さえたまま控える近衛騎士に、「もうよい」と退室をうながす。近衛騎士は一礼の後、すぐに部屋を出て行き、扉が重い音を立てて閉じられた。
ベノル=ライトは動かない。何から話すべきか、まとまらないジャスティスにとって、それは救いであった。同時に、涙腺が緩みそうになる。ジャスティスが抱えきれぬ気持ちを持て余すとき、必ずこの男がそばにいて、ジャスティスが何か言うのを辛抱強く待ってくれたものだった。彼にとって宝のような過去が、鮮やかに蘇った。
「ベノル」
落ち着きを装った声で、彼は英雄の名を呼んだ。彼はその単語を何千、何万と口にしたか知れず、彼の体中がそのリズムを覚えていた。その呪文は、彼の奥底にある静かな湖に、小さな石を投じる合図でもあった。
「……ベノル」
懐かしさが溢れ、彼はもう一度、その名を口にした。湖には波紋が広がり、やがて岸に着くころには細波となる。押し寄せるそれの正体が分からぬまま、堪えきれずに、いちいちベノルの背や足にしがみつき泣いたあの頃。いいや、そうしたい気持ちは、今も全く変わらない。変わったのは、周囲の目。体裁を気にした己のくだらぬプライド。
「助けて欲しい」
命令だ、という言葉の代わりに、少年王は、ただ素直にそう言った。
英雄はやはり動かない。王の言葉の続きを、待っている。
ジャスティスは顔中に力を入れて、涙を押し戻した。そして、飛び切りの少年王を演じ続けた。
「騎士団が中立をとっていることは、知っている。王位や私の首など、喜んで差し出そう。この身は、どうなろうと構わない。だが、カノンだけは、不幸にしたくない」
最後の言葉に反応し、英雄の肩が、ふと緊張したように見えた。次には、ベノル=ライトは顔を上げ、少年王へ静かに問うた。
「王妃の身に、何か危害が及んだのですか」
強張ったベノルの顔つきからは、ジャスティスの知りたいことは何も読み取れなかった。当然か、と少年は諦める。今、彼が少年王を演じているのと同様、ベノル=ライトもスリノアの英雄を演じているのだろうから。
「つい今しがた、矢が窓際のカノンを狙った。私が負傷したときと同じ窓だ」
ジャスティスは静かに告げたつもりであったが、英雄の顔は屈辱に大きく歪んだ。それを見て確信を得たジャスティスは、畳み掛けるように言い募った。
「私が思うに、ベノル、おまえは本気で不届き者を捕らえようとしていた。しかし、別の方面から圧力がかかり、それは妨げられ、思うようにならなかった。そうであろう」
英雄は無言でジャスティスを見据えた。それを肯定と受け取り、彼は続けた。
「ここでひとつの疑問が、解消されぬまま残る。騎士団長が騎士を思うように動かせぬほどの圧力を、私は王の命令以外に知らぬ。言い換えれば、おまえはその圧力をねじ伏せ、責務を果たすことができたはずだ。なぜ、甘んじて圧力に屈する?」
英雄は、やはり無言であった。ジャスティスは早々に見切りをつけ、別の切り口で迫った。
「カノンの命を奪うことは、宰相も望んでおらぬ様子であった。見たところ、おまえも同じであろう。ならば、騎士団が動くことになんら異存はあるまい。私の命は、おまえの好きな時に、好きなように散らしてくれてよい。宰相の思惑通りに使うのもよかろう。この約束により、わざわざ第三者の手により、私が偶然に殺されるのを期待する必要もなくなる」
パズルをややこしくしていたのは、まさにこの点であった。矢の襲撃は単独犯の突発的な犯行であり、王都周辺で渦巻く一連の動きとは、切り離して考えるべきだったのだ。
「犯人を捕らえることは、ひとつもおまえたちの不利益とならぬ。違うか」
ベノルを反対勢力とひとまとめにし、自分を裏切っているという前提で話をするのは、辛かった。だが、こうする以外に、カノンの安全を確保する手段は、ないに等しい。この英雄を、どうにかして動かさねばならない。
「ベノル、頼む。カノンを守ってほしい。そうしてくれるならば、私はどんなことにも耐えてみせる。今この場で命を絶てと言われたなら、喜んでそうしよう。これまでの行いを謝罪しろというなら、ひれ伏して懺悔しよう。おまえは約束を違えぬ男だ。そのおまえが、カノンを守ると誓ってくれたならば、私はなんの未練もなくあの世へいける」
ベノル=ライトは、王の言葉を真摯に受け止めている様子であった。ところが、しばしの間の後、彼は真顔のまま意外な言葉を吐いた。
「おかしな話でございますね」
一瞬、ぞくりと悪寒を覚えたジャスティスであったが、平静を装って「何がだ」と問うた。ベノルは頭を下げてから、抑揚なく応えた。
「陛下は、私を疑っていらっしゃる。にも関わらず、王妃のことを私に任せてくださると。矛盾しているようにしか、思えませぬ」
ジャスティスの身から、どっと冷たい汗が噴き出した。
失敗だ。失敗した。
ベノルの物言いには含みの欠片もも感じられず、まるで振るう者なく無造作に置かれた抜き身の剣の切っ先のようであった。冷たさ、そして得体の知れぬ不気味さが、ジャスティスの胸へ押し広がった。もはや立っているのがやっとの有様であったが、そんな彼を王の立ち位置へ引きとめてくれたのが、やはり王妃の笑顔であった。彼は手放したくなるほどに遠い意識の隅で、望みを捨てられずに醜く足掻いた。彼女を不幸にしたくない。だが、英雄を説得できぬならば、他にどんな手があるというのか。あるはずがない。他に手段がないからこそ、彼は意を決してここへ来たのだ。それなのに、失敗した。どうすればいい。カノンを守るために、どうすれば。
「悪かった」
焦燥と逡巡の挙句、ジャスティスは自分でも冗談かと笑いたくなるほどに月並みな台詞を吐いた。ところが、その瞬間に、彼方へ遠ざかっていた意識をぐっとつかんで引き戻せたような手応えを、彼は感じた。
そうだ。心からそう思うのだから、心のままに謝罪するのだ。
「おまえを疑うようなことを言って、悪かった。本当は、おまえを信じている。正確に言うと、私は、おまえを信じたい。どんな状況になろうとも、私はきっと、おまえを心底から疑うことなど、できぬのであろうな」
言いながら、自身の言葉が腹の中へ落ちていくのを、ジャスティスは感じていた。その通りだ。状況は絶望的であるが、それでも、彼は英雄の存在を心の拠り所とし続け、こうして頼っている。最後の最後、瞬く星のように頼りない希望の灯を、消すことができぬままに。
「陛下」
ベノル=ライトは、頭を垂れたまま、静かな声で言った。
「貴方は、変わりませぬな」
ジャスティスは狼狽した。その言葉に、わずかながら優しさが含まれているように感じたのである。 英雄はやはり頭を下げたまま、恭しく誓った。
「3日以内に、不届き者を引き立ててご覧にいれましょう。それまでは、どうか王妃様共々、外出を控えるようお願い申し上げます」
ジャスティスは安堵すると同時に、己のカウントダウンを始めた。宰相の指定した議会まで、あと5日。新たな恐怖が沸き上がるかと思われたのに、彼の内の湖は静謐を保っていた。
「頼んだぞ」
王者の声で言い置いて、少年王が踵を返す。英雄は、すぐに呼び止めた。
「陛下。私がお送りいたします。部屋の様子や矢の形状なども、拝見させていただきたいので」
断る理由はなかった。ジャスティスは承諾し、近衛騎士に後ろを、ベノルに己の前を歩かせた。
英雄の背筋は、いつも嫌味なくスッと伸びている。大きく、何にも揺るがぬようなその背に負われていた頃を思い返し、ジャスティスは自分が背だけはある程度伸びたことを、痛烈な皮肉のように思った。体は食べさえすれば勝手に成長するが、心は明確な意思を持って努めぬ限り、いつまでも幼子のままとなる。戦いさえ終われば、スリノアさえ取り戻せば全ては終わると思っていた彼にとって、この一年強は振り返ると空虚に近かった。彼は己を偽ることに疲れ、白々しさを周りから追いやるのに必死であった。そんな彼が行う少年王の演技はさぞ迫力に欠け、その分、英雄の覇気が際立ったであろうことは明白であった。
ジャスティスは、奪還軍にいた様々な大人たちの勇姿を真似ることで、多くのことを学んできた。今、前を歩く男はまさにその第一人者であった。しかし、ベノル=ライトの初志への一途さ、言い換えれば、ひとつのものへの異常なまでの執着、それを真似ることだけは、未だに彼にはできぬのだった。いつだったか、ジャスティスはベノルに誓ってみせたことがある。スリノアのため、そしてベノルのために、絶対に命を粗末にしない。どんなに惨めな想いをしようと、生き抜いてみせると。しかし、こうも簡単にその誓いを覆してしまった。それを、ベノルは責めようとしない。
ジャスティスは、いたって平凡な少年である己へ失望した。大切なものは、時が流れれば移り変わっていってしまう。スリノアを取り戻すこと、共に落ち延びた騎士たち。次々に加わる戦士達と、奪還軍という場所。スリノア帰還後は、ただ一人そばに残したベノル=ライト。そしてその心が離れた今は、これまで考えもしなかったカノンという妻。
これから先も、一番大切に想うものは、そのときそのときで変わってしまうのだろうか。それはとても悲しく、恥ずべきことのように思えてならなかった。