第三章 少年王と戦友 (4)
(4)
少年王は、レイバーが自室を訪ねてきたのを見ても、さして驚きはしなかった。彼は王妃と何か話していたようだったが、すぐに話を切り上げた。
「カノン。先に寝室へ行け」
王は無表情な顔と声で、妻へ命じた。そして、空いたその席につくよう、レイバーに目でうながした。一礼し、レイバーは柔らかなソファへ腰かけた。
そうして、同じ高さで向かいに座る少年を改めて視界に捉えてみると、やはり疲れの色が濃い。昼間の遠出での騒動も原因であろう。しかし、それ以上に、この少年の力は日々を重ねるごとに削られているように見える。「英雄を失った少年王は、太陽を失くした月のようなものだ」。レイバーはその言葉の主を思い、なんと的確な表現であろうかと感嘆した。
「陛下、本日の危機についてはすでにうかがっております。ご無事で何よりです」
レイバーは神妙な顔つきで、軽く一礼した。すると、少年王はつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「御託はよい。用件はなんだ」
やはり野蛮な子どもか。レイバーは、この王家の最後の生き残りに対して苛立ちを覚えるのと同時に、己への動機付けの材料が増えたことに安堵した。彼は真っ直ぐに少年王を見据え、迷いなく告げた。
「陛下。あなたに、王座から降りていただきたい」
王は一見、無表情、無反応であった。だがレイバーは、少年の頬の筋肉がごくわずかに収縮したのを見逃さなかった。おそらく、奥歯を強く噛んで何かを堪えたのであろう。
レイバーは、じっくりと間を置き、少年の表情を観察しながら、続けた。ひとつひとつの言葉が、この少年にとっては突き立てられるナイフのようであろうと、自覚しながら。
「私は、あなたのお父上である前王に、語りつくせぬ恩がございます。だからこそ、あなたが、スリノアの血を受け継ぐ者が戻るまで、あの卑怯者に付き従う屈辱の日々を耐え抜いたのです。言うなれば、私も、このスリノアで、戦っておりました。さぞ立派になられたであろう王子を、待ち望みながらです。しかし、あなたもすでに、お分かりのことと思われます。あなたの他に、王にふさわしい者、王に望まれている者が、存在していると」
少年の顔から、ふっと力が抜けた。何かを奪われたように、まぶたや視線、口元が下がり、やがて、やるせなく瞳が閉じられた。
「陛下。このスリノアのため、ご決断を」
気持ちがぶれぬよう、レイバーは無機質を装って低く言い放った。ここにきて同情は禁物である。レイバーはここで少年王が承諾をしてくれることを願った。冷酷な最後のカードを出す前に、この場を去りたい。
「王妃はどうなる」
目を閉じたまま王が唐突に言った言葉は、レイバーを驚かせた。まず第一の心配が、まさかこれまで顧みなかった、あの少女のこととは。
「修道女として、人生を全うしていただきましょう」
王妃はグリンベルの外戚でもある。保護する理由はあっても、命を奪う理由はない。それくらいは少年も承知しているはずであった。レイバーは迷いを断ち切るように、続けた。
「腹の中のお子については、王妃に薬を飲んでいただきます。いらぬ争いの種にならぬよう。これも、スリノアのためです」
言い終えると、己の身に闇が広がる気がした。人間を死に追いやるような恐ろしい行為とは、生涯無縁でいたかった。レイバーは慄きをひた隠しにしようと、王を射抜くように視線を強くした。
ところが、次の瞬間、彼は違う慄きに打たれることとなった。
「宰相よ」
王は落ち着き払った声で言って一呼吸後、目を開き、真っ直ぐに宰相を見つめ返した。
レイバーは、思わず息を止めた。少年の瞳の黒は、全てを飲み込むかのような強大な力で、彼を引き込まんとしていた。その黒の中に灯る強靭な光は、まるで少年の可能性を代弁しているかのようだった。
一体、何があったというのだ。レイバーは混乱した。つい先ほどまで、この少年は計画通りに力を削がれ、諦めに似た表情を見せていたではないか。それなのに、この瞳の強さは、何事であろう。
王はしばし、身を固くしたレイバーの様子を眺めた。たった一瞥で、たったこの数瞬で形勢が入れ替わったことを、レイバーは悟った。そして、このように冷たい汗が背をつたう緊張感には、覚えがあった。かの英雄に見据えられた、あの時である。
「宰相よ」
長い間の後、少年は再度そう呼びかけ、言葉を続けた。落ち着いた、王者の声であった。
「私は王座を降りることになろうとも、特別未練はない。だが、このままではどうにも納得がいかぬ。おまえほどの男がなぜ、このような回りくどい方法をとるのか。手を汚したくないとはいえ、私を始末したいのであれば、他にいくらでも良策があろう。それに、外戚であるカノンを早く嫁がせるように仕向けたのも、おまえだ。なぜわざわざ、王家の血族が増えるリスクを冒した。このわずかな期間に、突然、私を王座から引きずり下ろす必要が出てきたのか」
レイバーは、混乱から抜け出せぬまま、ただ、少年を凝視していた。血の気が引いていくのが自分でも分かった。少年が言い募るたびに、周囲の空気から己が切り離されていく。息が苦しい。
少年王は、またじっくりと宰相を観察した。そして、一層落ち着き払った、冷たささえ感じさせる声で、問うた。
「宰相よ。おまえには息子がいたな」
胸に直接手を入れられ、心臓をつかまれたように、レイバーは感じた。息がつまり、声が出ぬうちに、王は言葉を続けた。
「おまえの有能な息子は、最年少で貴族院入りし、現在も貴族代表として議会にいるはずだ。ベノル=ライトと同い年であったな。たしか、名はオー」
「陛下!」
レイバーは叫んでさえぎった。彼の心臓はまだ王の手の中にあるが、それがどうなろうとも続きを聞くわけにはいかなかった。
「まだ、申し上げていないことがございました!」
王は、レイバーの意図を知ってか知らずか、黙って聞き役に回った。瞳は相変わらず力強く輝き、何にも動じぬような重さを感じさせた。
この岩を砕かねばならない。レイバーは、少年に与えるであろう傷を更に深めるため、冷笑を作りながら、最後のカードを裏返した。
「本日、ベノル=ライト殿はスリノア騎士団の長として、今回の私に動きに中立の立場をとると明言され、全騎士にそれを命じました」
少年の体に、稲妻が走ったのが見えた。黒い瞳の中の強靭だった意思が、ぐらりと大きく揺れた。
「陛下。つまり、あなたはスリノア騎士団に見放されたのです。ベノル=ライト殿に、見捨てられたのです」
レイバーは冷笑を保ったまま、8日後の議会までに決断を下すよう、王に迫った。そして、優雅に一礼し、拠り所を失って悲壮に暮れる哀れな少年のもとを去った。
なんとか主導権を握ったものの、レイバーは重苦しさを抱えたままに帰路を歩んだ。
8日後の議会は、英雄王誕生の瞬間として、歴史に残る議会となろう。レイバーは渦巻く不安を追いやるために、限りなく鮮明に、その輝かしい瞬間を頭に思い描こうとした。
しかし、彼の聡い部分が、不吉に警報を鳴らしている。それは、彼が少年王に秘められた可能性を見出してしまった瞬間から、絶え間なく彼を苛み続けた。本当に、あの少年は、太陽の光がなければ輝けぬ月なのか。英雄と同じ瞳、同じ威圧感を、あの年齢で持ち得ているというのに。
レイバーの脳裏には、英雄に助けられている少年王の姿が常にあった。それがこの夜、疑わしい虚像となって脳裏から薄らいでいった。まさか、と考えては、その思考を振り払う。しかし、そのイメージは影のようについて離れず、レイバーを苦しめた。
なぜあんなにも有能な英雄が、少年王に喜んで膝を折っていたのか。そして、愛した女に傾倒した後、憔悴していったのか。
どのような形であれ、8日後、それは明らかになるはずだ。レイバーは強い覚悟とともに、そのときを迎えようとしていた。
第四章へ続く




