楽屋挨拶は交錯の瞬間
「あのさ、やっぱり、僕はもういいよ……」
「ここまでが私からの誕生日プレゼントですよ! 男子高校生なら指の三、四本差し出してでも会いたい人じゃないですか? っていうか、差し出さないと会えない人ですよ?」
「対価えげつなくない?」
会場を出た僕と今宮は、そのまま建物の出口には向かわずに、『関係者以外立ち入り禁止』と書かれている柵の前で並んでいた。
「いや、でもさ、僕は関係ないから……。気を使わせたら申し訳ないし」
「はぁー。相手はのどかちゃんですよ? 一日どれくらいの人と会ってると思ってるんですか。関係ない人と会うことなんて慣れてますよ。むしろそれが仕事。先輩、逆に自意識過剰です」
「そうなのかな……」
ここは、楽屋に繋がる通路前だった。
今宮が「招待してくれたお礼に挨拶に行きますよ」と言ってきた。でも知り合いでもなんでもない僕が挨拶に行くのは気が引けたため、流石に帰ろうとしたところ、今宮は僕のパーカーの袖をがっちり握って離さなかった。
「そうですよ。なのでここは、私に『ありがとう』って言えばいいんです」
今宮はそう言うと、首を傾け微笑みながら、僕の顔を見上げてきた。その仕草には辟易してしまうが、今宮は純粋な厚意で言ってくれているということは分かっていた。ここで断るのも、自分勝手な気がしたから、僕は抵抗するのをやめて素直にお礼を言った。
「ありがとう」
「どういたしまして!」
ぴょこ、っと跳ねて、髪がふんわりと揺れ動いた。
「それにしてもさ、何で今宮が国民的アイドルと知り合いなの?」
「私、読モやってるじゃないですかー。まあ、私も一応《《あれ》》なんで、そこまで目立たないようにはしてるんですけど、でもほら、私、どうしたってかわいくて目立っちゃうので、業界内で色々噂回っちゃって。それで、『その界隈』からも勧誘されてたんです。すっごい口説かれて、めっちゃ拒否してたら、のどかちゃんが直接出て来て」
今宮は懐かしそうに視線をふわふわと上に動かしている。
今宮の身長は百五十センチ程度と小さい。しかし、小さいなりに、身長が低い人向けファッションの需要があるみたいで、雑誌のモデルをやっているらしかった。
「まあ、それでも断ったんです。そしたら当時の私の友達っていうか同僚だった子がこのSSGに入って、それ以来、って感じですね」
「そうなんだ。……あれ? じゃあ今宮の知り合いっていうのは、あの『化粧品の人』じゃなくて、その友達だった子? それなら、『化粧品の人』に挨拶とか、通して貰えるの……?」
「はい、知り合いはその元同僚です。でもまあ、のどかちゃんから口説かれましたし、数回話したことあるし、SSGのライブに行ったらたまに挨拶してるので、のどかちゃんとも友達ですね」
僕ならその程度の関係を友達と呼称しないけど、女子は色々あるんだなと思い、流すことにした。
楽屋口に繋がる通路前には、関係者用のシールを貼っている人が沢山集まっていて、その数はざっと五十人くらい。しばらくすると、係の人が「順番にお通しします」と人員を整理しながら楽屋口に案内して始めた。僕と今宮は会場から出るのが遅くて列の後ろの方に居たため、柵の前で待機していた。二十分程経って、やっと楽屋口に案内される。
係の人に先導されながら、僕と今宮を含めた二十人くらいの関係者シールを貼った人たちが歩いていく。通路では、コンサートTシャツを着ているスタッフや、スーツを着ている人たちが忙しそうに行き交っていた。その間を縫って歩く僕は、なんだか場違いな思いを抱いて、すごく気まずかった。
しばらく歩いていくと、開けたスペースに出た。そこには、先ほどステージの上で輝いていた六人が立っていて、順々にやってくる関係者の人たちと会話をしていた。
それは、アイドルに全く興味のない僕でも少し胸が高鳴る光景だった。日常では目にしないくらい可愛い女の子が、カラフルでキラキラした、これまた日常では目にしない衣装を着ているため、アニメのキャラクターが実態として目の前に出て来ているような、そんな違和感が押し寄せ、非日常感を演出し、なんだか、やはり、わくわくする光景だった。
「化粧品の少女」は真ん中。その左側には、今日でお別れした「桜」。目は腫れているけれども、一度化粧直しをしたのか、顔は綺麗だった。笑顔で一人一人に挨拶をしている。
関係者の人たちは、一人ずつ、お目当の子の前の所で十数秒話しては出口に行く。人が多いため、回転数も早めだった。僕は、誰が今宮の友達か分からなかったため、とりあえず今宮の背中に従っていた。すると、右から二番目の子の前が空いた時、今宮はぱぱっと動いた。
「ともちゃん! お疲れ様!」
「あ、すずめちゃん! ありがとー!」
今宮は、カバンから大量の栄養ドリンクが入ったビニール袋を取り出すと、「ともちゃん」に渡した。
「はい、これ! 差し入れ!」
「うわ、すっごいいっぱいだ」
コンビニで偶然会った時に抱えていた大量の栄養ドリンクはこのためだったらしい。それにしても数が多い。二十本近くある。さぞ重かっただろう。言ってくれれば代わりに持ったのに。
「あれ? 沙織ちゃんは? それに、この方は……?」
「ともちゃん」が今宮の斜め後ろに立っている僕を見て、不思議そうにする。「ともちゃん」の身長は、今宮とあまり変わらない。ただ、いつも歌って踊っているからなのか、今宮よりもひと回り体格が良かった。アイドルではあるが、モデルではない。そんな感じだ。黒髪に綺麗なボブカット。上品さを醸し出している切れ長の目は、赤く腫れていた。きっと、さっきまで泣いていたのだろう。
「なんか沙織ちゃん、ノロウイルスやっちゃったんだって。穴という穴から体液が出まくってぐちゃぐちゃになるやつ。やばいよね」
今宮は、数時間前僕に冷たく怒ったノロウイルスの説明文を、一部過激にさせてしれっと伝えていた。使うなら、あの時の謝罪を返してほしいなと思った。
「え! そうなんだ。大丈夫かな? お見舞いの連絡入れとかなきゃ」
「そうなの、コンサート直前に連絡入ってさー。で、この人学校の先輩なんだけど、ちょうど会場の近くで暇そうにしてるの見つけたから代役で連れて来た」
やっと紹介してもらえたため、簡単に挨拶しようと口を開くも、「ともちゃん」が先に話し始めた。
「なるほど! 私、中学からすずめちゃんと友達のともって言います」
先に丁寧に自己紹介してもらってしまったことに気恥ずかしさを感じつつ、改めて僕は口を開く。
「初めまして、僕は今宮の高校の――」
「あっ、のどかちゃんの前空いた! じゃあ、ともちゃんまたね! 水曜のご飯よろしく!」
僕が挨拶を言い終える間も無く、今宮は僕の手を思いっきり引っ張った。
さすがに失礼過ぎると思ったが、「ともちゃん」にとって今宮のこういう行動はいつものことなのか、可笑しそうに笑って手を振ると、体の向きを正面に戻して、次の人に挨拶をしていた。
「のどかちゃん、久しぶり!!」
スーツを着たおじさんと二十代くらいの青年が「化粧品の人」の前に行こうとしていたのだが、今宮はそこに強引に割って入った。僕も手を引っ張られて、目の前に来た。
「あ、すずめちゃん! すっごい久しぶりだねー! 来てくれたんだ! ありがとう〜」
「化粧品の少女」がこちらを向いた。
弾けるような笑顔で、こちらを向いた。
先ほどから、視界には入っていた。
けれども、まさに目の前にして、思わず、惚けてしまった。
今日の昼間は、例えば、縦の距離で考えると百メートル程の距離があっただろうか。例えば、斜めに定規を置いたとすると、その数倍の距離はあっただろうか。だけれど今は、一メートル以内の距離に、十代で一番「存在の表面積の大きい人」がいる。
街の至る所に彼女の顔があり、テレビに出ていて、ネットの中でも良く出てくる。たしかに、綺麗な人だな、とは思っていた。しかし、いや、やはりと言うべきか、実物の、そして間近で見る彼女は「綺麗」という言葉を超えていた。
彼女の身長は、僕よりも頭一つ分小さく、今宮よりも頭一つ分大きい。それなのに、その顔は今宮よりも小さいように思えた。前髪は薄く垂らし、肩まで伸びている髪は後ろで緩く編まれている。眉は程良く綺麗に生え揃っており、長いまつ毛はその一本一本が絹糸のように繊細で艶やかだった。化粧も割としっかりしているが、決して濃い訳ではない。自身の顔の映え方をしっかりと分かっているような、そんなメイク。手足もすらっと長く、健康的な細さ。肌は一々透明感に溢れていて、通路の白い電球の光がキラキラと反射している。
「あれ……もしかして、すずめちゃんの彼氏?」
僕とは比べ物にならない程「存在の表面積」の大きい人が、僕の顔を覗き込む。彼女の鼻筋は、軽い衝撃でもすぐに折れてしまいそうなぐらい、細く、高く、繊細で、小さな口と対比すると、よく映えた。ぷっくりとした二重まぶたの中の大きな瞳の中に僕が映る。
「いや、この人は――」
「私たちのコンサートに彼氏連れてくるなんて、すずめちゃんもやるねー」
彼女は、今宮と僕を交互に見て、人をおちょくるような、そんな笑顔を――
僕は、はっと息を飲んだ。
彼女の、人をおちょくるような、そんな笑顔。
彼女の、ぷっくりとした二重まぶた。絹糸のようなまつ毛。大きな目。透明感の溢れる肌。折れてしまいそうな鼻筋は、小さな口と対比するとよく映える。絹糸のようなまつ毛。綺麗に生え揃っている眉。
僕にとって、鷺谷さんの代名詞であった、人をおちょくるような笑顔。
鷺谷さんのぷっくりとした二重まぶた。絹糸のようなまつ毛。大きな目。透明感の溢れる肌。折れてしまいそうな鼻筋は、小さな口と対比するとよく映える。絹糸のようなまつ毛。綺麗に生え揃っている眉。
「ちょっとちょっとのどかちゃん、この人はただの学校の先輩ですよ。この人、今日誕生日なのにたった一人で寂しくぷらぷらしててかわいそうだったんで連れてきたんです! 握手してあげてください!」
何を急に思い出しているのだろう。なんで重なったのだろう。
たしかに、「化粧品の少女」も鷺谷さんや今宮と同じく、自分の容姿を理解して利用している人だ。じゃあ、だから重なったのだろうか。
「そうなんだ! はじめまして。のどかって言います。折角の誕生日に来てくれてありがとう」
彼女はそう言うと、とても優しい表情を浮かべて、手を差し出してきた。
……その手を見つめると、すっと冷静になれた。
冷静になった後に考える。なぜ僕は今、冷静になったのだろう。……彼女の所作に、僕はなんだか、途端に拍子抜けしたのだ。
屈託無く笑いながら手を差し伸べてくる「普通な優しさ」と、彼女の「存在の表面積の特殊性」に酷くギャップを感じた。緊張と緩和。緊張からのそり幅の大きさが、急激な緩和となった。気づけば、一瞬前までの緊張が急にほぐれていた。
「……はじめまして。コンサート凄かったです。頑張ってください」
改めて冷静さを取り戻す。きっと、あまりにも現実離れした存在を目の前にして、頭が真っ白になっていただけだ。
差し出された手を、恐る恐る握る。何だか、僕が触れていい人ではないような気持ちが湧き上がって、先ほどまでとは全く別の意味で体が硬くなった。
「うん、頑張るよ! すずめちゃんのこと、よろしくね、先輩さん」
いつか、テレビだったか、動画だったか、画像だったかで見たことのあるような、明るい笑顔を向けてきてくれた。彼女は、その外見や存在に反して、「普通に優しい」。そのギャップを改めて感じると、少し心が掴まれそうになった。彼女は、人を緊張させて、そして安心させる術を心得ている。計算してやっているのだとすれば、きっと天才なんだろうな、と思った。
「あ、別にこの人にはよろしくされないんで! それよりも、いい人いたら紹介してくださいよー」
「すずめちゃんに似合う人なんて、中々いないよ〜」
「イケメンならみんな私に似合うので、お気遣いなく!」
「ふふ。かわいいなぁ〜」
そう言うと、彼女は愛おしそうに今宮の頭を撫でた。
「じゃあ、今日はありがとうございました! また見に来ます!」
「うん、ぜひ! 今度、ともちゃんも交えてご飯行こうね。先輩さんも、また見に来てください」
「はい。ありがとうございました」
僕たちが反転して、出口に向かって歩き始める直前、彼女はこちらにひらひらと手を振ると、僕たちの後ろに控えていた次の関係者に、すぐ「あー、加藤さん、お久しぶりです!」と挨拶を始めた。
出口に向かって歩き始めてすぐ、今宮は僕の顔を斜め下から覗き込んできた。
「どうでしたかー? やっぱのどかちゃんはかわいいですよね〜。流石の私も四:六で負けを認めます」
どうやら今宮は、彼女のあの圧倒的なアイドル性を目の前にしても、紙一重で負ける程度に思っているらしい。
でも、そんな今宮の自信満々な表情には、いつものかわいらしさに加え、不覚にも少しかっこよさを覚えた。芯の通っている今宮も、人として十分に魅力的だ。四:六とまではいかないが、実際に、三・五:六・五程度の勝負はできるのではないだろうか。あの化け物じみた国民的アイドルを相手にするなら、それでも十分だ。
「そうだね。まあ、楽しかった」
「ですよね? あーあ、この私がここまでやったんだから、先輩、私の誕生日にはさぞかし凄いことしてくれるんだろなー」
横目で、おちょくるような笑顔を携えながら、僕の方を見てくる。
思えば、今宮のこの表情はこれまでも何度か見てきた。それでも先ほどのように、強烈に鷺谷さんを連想しなかったのは、鷺谷さんと今宮の顔の系統が違うからだろうか。
いや、もうやめよう。僕は、鷺谷さんに囚われすぎている。あまりにも、囚われすぎている。
だから僕は、にやにやしている今宮の顔を見ながら、一体どんなお返しをすればいいのか、それだけを考えることにする。……ここまでやってくれたからには、それ相応のことはしなければならないだろう。それは、少し怖い。でも北は、今日一日を今宮のお陰で楽しく過ごすことができたのだ。
「あ、先輩! ちょっと待って! やばい! 忘れ物したかも!」
突然今宮はそう言うと、カバンを地面に置いて中をごそごそ漁り始めた。全くもって忙しない。
「どうしたの。っていうかここじゃ邪魔になるから、一旦外に出ない?」
「外に出たらまた入るのめんどくさいじゃないですか! ちょっと待ってくださいよ〜、デバイスを会場に置いてきたかもなんです」
そのままあーでもないこーでもないと、カバンの中をごそごそしている。
しばらくその様子を見ていたが、ふと思った。デバイスを忘れてきたのなら、鳴らせばいいじゃないか。僕たちは何をしているんだろう。
「今宮、俺のデバイスで鳴らしたら?」
「……は! 先輩天才ですか? っていうかそういうこと早く言ってくれません? めっちゃ無駄な時間じゃないですか! 早く貸してください!」
なぜか少し怒られた。
今宮は「はやくはやく」と、こちらに手を差し伸ばしてくる。
僕はポケットから自分の通信デバイスを取り出し、今宮に手渡そうと――
「鷺谷ー! 久しぶりー!!」
――手が、止まった。
鷺谷……?
いや、ただの偶然。珍しい苗字。ただの、偶然の一致。そんな訳がない。おちょくるような表情。ぷっくりとした二重まぶた。長いまつ毛。いや、ありえない。
「先輩、急に固まってどうしたんですか? 借りますね? いいですね?」
交わらないはずの点と線が近づいていく音が、耳元で鳴っている気がした。
堪えきれなかった。
振り返って、今、鷺谷と呼ばれた人を探した。