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鷺谷さんと僕(1)

 それは僕が十一歳の時のことだったから、今から六年前の話だ。

 

「そういえばさ、君の寿命はいつまでなの?」


 鷺谷成美さぎやなるみさんは、例えば血液型を聞くような感じで、僕にそんな質問をしてきた。


「十九歳までだって聞いてる」

 僕は淡々と答えた。


 すると鷺谷さんは、

「え、すっごい偶然ー! 私の寿命も十九歳なの!」

 と、例えば誕生日が同じ人と偶然出会った時のような、そんな驚き方をした。


「そっか、鷺谷さんも十九歳なんだ。じゃあ、あと……」


 僕は、鷺谷さんがあと何年生きることができるのかを計算してみようと思った……ところで気が付いた。その時はまだ、そもそも鷺谷さんが今何歳なのか、僕は知らなかった。


 一昨日会った時に、鷺谷さんは制服を着ていた。だから、高校生なんだろうな、とは思っていた。でも今日は私服を着ている。昨日も私服だった。昨日も今日も平日なのに。


 僕は引き続き言葉を止めたまま、改めて鷺谷さんのことを観察する。セミロングの髪は柔らかく後ろで纏められ、前髪は薄く垂らしている。眉は程良く綺麗に生え揃っており、長いまつ毛はその一本一本が絹糸のように繊細で艶やかだった。化粧も割としっかりしているが、決して濃い訳ではない。自身の顔の映え方をしっかりと分かっているような、大人っぽいメイク。


 鷺谷さんの年齢を外見だけで判断すると、大学生どころか社会人と言われてもすんなりと納得できる。決して、老けているという訳ではない。何だか妙に大人っぽいのだ。


「あと二年で死ぬよー」

 鷺谷さんは、僕が何を考えていたのかを察したみたいで、自身に残された年数をさらっと教えてくれた。この察しの良さとか、余裕のある感じとかがまた、何だか大人っぽい。


 寿命が十九歳であと二年で死ぬということは鷺谷さんは十七歳だ、と僕は思った。


「でも、そっかー。君も〈短命〉さんなのねー。……うん、なんか、納得だ」


 僕が相槌を打とうが、黙っていようが、鷺谷さんは一人でどんどん会話を進めていく人だった。それはきっと、鷺谷さんが美人だからだ。


「〈短命〉ならさ、学校はどう? 行ってるタイプ?」

 鷺谷さんは、顔は正面に向けたまま、横目でちらっと僕のことを見た。その横顔は、とても綺麗だった。薄暗い中でも、いや、だからこそ、余計に美しさに磨きがかかっている。鼻筋は、少しの衝撃で折れてしまいそうなほど細く、高く、繊細で、小さな口と対比するとより映えた。


「毎日行ってるよ」

「へー。君は〈短命〉なのに行くタイプなんだ。……それにしても、毎日って凄いね」

 鷺谷さんは、ちょっと感心したようだった。


「うん。親が行けっていうから」

 僕は引き続き鷺谷さんの横顔をじっと眺めていた。だから、その表情の変化にすぐ気付いた。


 鷺谷さんは、いつも人をおちょくるような笑顔を僕に向けてくる。でも今は、目をまろやかに溶かしたような、半熟卵の黄身が垂れてきたような、そんな優しい笑顔になっていた。


「君の親は、いい親だね。〈短命〉の子どもには、親自身に負担が掛からない程度で好き勝手させる人たちが多いから。中には、捨てる親もいるし、単純な労働力として、生きている内に搾り取ろうとする親も少なくない。それなのに、学校へ行け、なんて――」

「まあたしかに、捨てたり搾り取ったりする親よりかはいいかもしれないけど……。でも、どうせ先が無いんだから、僕は好き勝手したいよ。……というより、長生きする人たちと同じ空間にいると、なんていうか、合わないというか……」


 すると鷺谷さんは、一瞬前とは打って変わって、腹が立つ程にやにやしてきた。

「少年よ、君はまだ十一歳だ。大きくなったら分かるよ」

「一応これでも、もう人生の半分以上は生きてるんだけどね」

 その時の僕は十一歳。寿命は十九歳。人生の折り返し地点は、もう過ぎていた。


「ふふ、確かにそうだね」

 鷺谷さんは、楽しそうに笑った。


「鷺谷さんは、高校生だよね? 学校行ってないの?」

 僕は、鷺谷さんの私服姿に対する素朴な疑問を投げかけてみた。

 

「学校には通ってるよ。結構休むけど」

「鷺谷さんこそ、学校行ってるんだ。珍しいね」

「私は好きで行ってるからさ」

「それこそ、〈短命〉なのに珍しいね」

「好き勝手生きてるだけだよ」


 今思えば、鷺谷さんのその声音は少し儚げだった気がする。

 でも僕は、その声音よりも「好き勝手生きてる」という言葉の方に引っかかった。


「僕も、もっと好き勝手に生きていたいよ。他にもさ、サッカーとか、ピアノとかもやってるんだ。でも、あんまりやりたくないし、意味の無い――」

「え。君、習い事も行ってるの?」

 鷺谷さんは、今度は素で驚いたような表情を浮かべて、僕の言葉を遮った。真顔だけど、目は大きくまん丸開いて、口は半開き。


 僕は気付いた。鷺谷さんは、沢山の表情を持っている。


「うん。行ってるよ」

「〈短命〉なのに?」

「うん。だから、意味ないのにね」

「もしかして、君の家、超絶お金持ち?」

「いや。むしろ中の下くらい。だから、先の無い僕なんかにお金使っても何にも――」


「君の親御さん、本当にいい人たちなんだね」

 優しい声だった。そして、いつの間にか、親、が、親御さん、に変わっていた。


「そうなのかな」

「うん。そうだよ」


 鷺谷さんは、目の前に広がる街の夜景をぽけーっと眺めながら首肯した。

 この時僕と鷺谷さんがいた場所は、都会を一望に見下ろせる高台にある公園、その端っこ。


 その公園には芝生が敷き詰められている。ブランコや滑り台といった、ちょっとした遊具も完備されていた。周囲では雑木林が生い茂り、街灯も少なく、夜は月明かりが目立つ場所。自然を感じながら都会を一望できるスポットとして、この公園は現在でも人気がある。


 しかし、この時は僕たち二人以外、周りに誰もいなかった。その理由は、公園西側の端っこに存在する、立ち入り禁止の雑木林、その奥の方にあって、公園側からだとちょうど木々や草木で隠れている、ちょっとしたスペース……秘密の場所……そんなところに僕たちは居たからだ。


 元々、ここは僕だけのお気に入りの場所だった。一週間前、いつものようにこの場所に来ると、鷺谷さんが一人、ここでお菓子をぽりぽり食べていたのだ。

 その時に出会ってからこの一週間、僕は毎日ここで鷺谷さんと会っていた。

 

 

「あ、もしかして一人っ子?」

 突然、鷺谷さんは、こちらに顔を向けると、ぽつん、と質問をしてきた。


 その唐突な質問に、僕は固まってしまった。少し、油断していたのだ。

 なんとか動揺を悟られないようにしたかったが、それでも、反応が遅れてしまった。


「……七歳の妹がいる……あと、今お腹の中に一人いて、もうすぐ生まれる」

「あー……そっか」

 僕のその反応を見て、鷺谷さんは察したように沈黙した。そして、何かを考えるように頬をぷっくりと膨らませる。


「……」

 僕も、押し黙ってしまった。夜風の音が、耳に響く。


「……まあ、〈短命〉の宿命だよ。仕方がないこと。私もね、ずっと放任で育てられたんだけどさ、妹が生まれて、さらにその妹が七五歳まで生きる〈長命〉だったもんだから、その時からはもういよいよ、って感じでね。まあ、妹は私に似てすっごい可愛いし、でも私とは違って頭いいし、長生きだし、当然かな」


 鷺谷さんが、急に早口で沢山喋り始めた。そんな様子を見て、大人だと思っていた鷺谷さんも、まだ子どもなんだな、なんてことを思った。


「仕方がないよ。そりゃそうだもん。私が親の立場だったとしてもそうする、というか、自然と、そうなると思う。……君のその反応で察しはつくけど、君の妹さんは〈長命〉なのかな?」


 その問いに、僕は小さく頷いた。今さら遅いと分かってはいたけど、それでも、何も気にしていないように、さらっと、頷いた。


「そっか。今お腹の中にいる子も『長命』として生まれたら……次こそは、君も、覚悟しておきなよ」


 なんだか、少し嫌な気分になった。自分で言うのはいいけれど、他人から言われるのは、なんだか嫌だ。


「……でも、鷺谷さんもさっき言ってたじゃん。や、優しい親だって」


 鷺谷さんは、今度は僕を包み込むような、大きくて、でも決して邪魔にならない、控えめな笑顔を僕に向けた。

「……ふふ。今の君の言葉と態度、なんだかすごく、十一歳、って感じだね」


「なんだよそれ」

 急に恥ずかしくなった。視線を鷺谷さんの横顔から外す。行き場の無くした視線を、そのまま腕時計に持っていく。お菓子についてきたシールを二十個貯めると貰える、プラスチックのデジタル時計。もう夜の八時だった。


「それで納得し続けることができるならいいけどさ。でも、歪みが大きくなって、耐えられなくなった時に気づいたら、すごく辛いよ」


 鷺谷さんの言わんとしていることは、何となくだけれど、分かる気がした。


「……」

「……」


 僕が黙ってしまうと、鷺谷さんも黙った。


 鷺谷さんは、その沈黙を埋めるように、ポケットからタバコとライターを取り出した。慣れたようにタバコに火をつけると、小さな口から、繊細な煙をすーっと吐き出す。


「……高校生なのに、タバコ吸うの?」

「高校生なのに、タバコ吸うの」


 鷺谷さんはそう言うと、ポケットから小さな小瓶を取り出した。

「お酒も飲むの」

 そう言うと、チラッと舌を出してきた。また、いつもみたいな、人をおちょくるような笑顔だった。

「あんまり美味しくないけどね。でも、経験しておきたくない?」

「……ちょっと、分かる」


 その僕の控えめな呟きを聞くと、鷺谷さんは、困ったように眉間に皺を寄せて、口をすぼめながら、不思議そうに笑った。


「ふふ、っていうか、何このやり取り。〈短命〉の人は、君くらいの年でも吸ったり飲んだりするの、珍しくないでしょ? その反応、ほんと君、普通に育てられすぎ」


 僕は、ちょっとむっとした。そんな感情が表情に出ていたのか、鷺谷さんは綺麗に笑った。


「やっぱり、優しい親御さんなんだね」

 また僕は気付いた。鷺谷さんは「優しい」という言葉を使う時、鷺谷さん自身の表情も優しくなるのだ。


「君も吸う? それとも飲む? もしくは両方やってみる?」

「どっちもいらないよ」

「そっか」

 鷺谷さんは、タバコを深く吸い込んだ。そして、滑らかに煙を吐き出すと、少し間を置いて、

「……うん、まずい」

「やめればいいじゃん」

 すると鷺谷さんは、君それ正論すぎ、つまんないなぁ、と楽しそうに笑った。

「でも、まあ、そうだね。じゃあ、これは君にあげるよ」

 そう言うと、ポケットから、新品のタバコの箱を取り出して、僕に渡してきた。


「いらないよ」

「いーから。持っておきなよ」

「いらないって」

「私ももういらないもん」

「僕、十一歳だよ? 鷺谷さんって、頭おかしい人?」

「私は晩年を迎え始めた人で、君は人生の折り返し地点を過ぎている人、だよ?」

「……まあ、そうだけどさ」

 少しだけ、興味はあった。でも、それは興味だけ。


 興味があったとして、それを体験したから何だというのだろう。どうせ、あと八年しか生きられないのだ。何かを体験したとしても、それは僕の糧になる前に消えるし、仮に糧になったとしても、それを残すこともできない。だから僕は、差し出されていたタバコの箱に対して、ただただ視線を合わせるだけだった。


 数秒その状態を続けた後、鷺谷さんは、僕が受け取ろうとしないタバコの箱を地面に置いた。


 そして鷺谷さんは咥えていたタバコを地面に捨て、土をかけて火を消した。火が消える直前に立ち昇った副流煙が鷺谷さんの顔を包む。すると顔をしかめて、「吸うよりも副流煙の方が嫌な感じだね」と呟いた。


 鷺谷さんは先ほど取り出していたお酒の入った小瓶を手に取ると、キャップを開ける。そして、そのキャップの内側に琥珀色の液体を注いだ。顔を斜め上に向け、小さな口を少し開ける。口元でキャップをくるっと逆さまにすると、少ない液体が鷺谷さんの口の中へと滑らかに吸い込まれていった。


 鷺谷さんはキュッと目を瞑る。そして、んー! と高い声を出した。

 僕はというと、その一連の流れに釘付けになっていた。鷺谷さんの見た目と大きなギャップがあるこの行動は、何だかどれもカッコよく、大人以上に「大人」に思えたのだ。


 また沈黙が続く。


 二人で黙って、高台の公園から見える、チカチカ明るい夜景を眺めていた。高層ビル群、繁華街、住宅街。建物が、何千、何万、何十万個もひしめき合っている。その合間を線路が通り、電車が走り、道路は一々舗装されていて、そこを無限に思える数の車が走る。


 ふと思った。人間は、なんでこれ程の街を作ろうと考えたのだろうか。どれほどの時間がかかったのだろうか。何を残したかったのだろうか。


 人間は全員、何かを残すことを強いられる。だから何かを残した人が偉い。だから何も残さなかった人は偉くない。


 最早何も残すことができない、僕のような〈短命〉からすると、そんな風に感じる。きっと僕は、これだけ沢山ある建物の、道路の、線路の、電車の、車の、その一つ分の価値でさえ、生産できずに寿命を終えていくのだ。この街にあるもの、ただの一つも、僕は作れない。


「私はね、革命を起こすの」

「あ、通報した方がいい?」


 鷺谷さんの突然な突飛な言動に、僕は条件反射で反応していた。

 鷺谷さんは、楽しそうにくすくす笑った。


「別にいいよ。でも、私の革命は他人を誰も傷つけないから、多分逮捕されないよ」


 他人を誰も傷つけない革命なんて、そんなもの、あるのだろうか。


「私はね、私自身に革命を起こすの」


「……えっ……と、意味がわからないです」


「もー。本当に学校行ってるの? 『革命』って言葉はね、ざっくり説明すると、被支配者階級が支配者階級を打倒して根本的に変革を行う、って意味なんだよ」


「うん、いや、言葉の意味じゃなくて――」

「私はね、私を支配している私を打倒するの」


 やっぱり、何を言っているのか分からない。鷺谷さんは、また僕をおちょくっているのだろうか。表情を覗いてみる。


 鷺谷さんの顔は、笑顔だった。でもそれは、ふざけているようにも見えるし、僕の顔色を伺っているようにも見える。


「……鷺谷さん、やっぱり意味が分からないです」

「君には十年早かったね」

「十年後にはもう死んでるけどね」

「たしかに。じゃあ二年おまけして、八年早い、にしてあげる」


 鷺谷さんはくすくす笑いながら、そんなおまけをくれた。けれども、僕はお礼を言う気になれなかった。八年後は僕が寿命を迎える年。その時に何かが分かっていたとしても、最早何の意味もないからだ。


「鷺谷さんの、その、革命が成功した状態っていうのは、どういう状態なの?」


 それでも、鷺谷さんのその言葉に、何故か一抹の興味はあった。それに、まだ鷺谷さんの真意を測りかねていた。だから、もっと具体的に聞いてみたくなった。


「おしえなーい」

 鷺谷さんは小さく舌を出しながら、はぐらかした。僕は、肩透かしを食らった気分になって、きっといつも通り、適当に僕をからかっていただけなのだろうと思った。


「……でもさ、革命を起こす、っていいかもね。〈短命〉の人が何かを残すためには、過激なことをやるのが手っ取り早いからさ」


 僕は、純粋にそう思った。例えば、総理大臣を暗殺とかしたら、僕の名前はずっと残るだろう。学校のクラスメイトを皆殺しにしたら、僕の名前はずっと残るだろう。時に、大きなインパクトを残すことは簡単だ。ただやるかやらないか、それだけのことだったりもする。


 急に、そういう意味での「革命」が魅力的に思えてきた。


「うん、やっぱり、それもありかもしれない。失うものなんて、何も無いし。失うものを持っている『長命』の人にはできないけど、僕にならできること……うん、そうだ、なんか、ちょっと元気出てきた。僕には何も無い。だから、簡単に、何でもできる。試しに、どこかのお店でも襲ってみたら面白そうだね」


 僕は、饒舌になっていた。しばらく、色々な妄想を膨らませ、それを一方的に鷺谷さんに話していると、

「……うん、やっぱり、君に決めた」

 鷺谷さんは、突然冷たい声を出した。


「はい?」

 いつになく真面目な目で僕のことを見ていた。


「たった今君は、私の革命のピースになった。じゃあ、やっぱり君にこれをあげる」

「いや、だから――」

「まず、一つ目ね。色々な経験をすること、そして、経験は消費しちゃだめなんだよ」

「いや、だから鷺谷さん、さっきから漠然としすぎて――」

「続きはまた今度ね。もし、続きを聞きたければ、今これを受け取りなさい!」


 鷺谷さんは、改めて僕にタバコの箱を突きつけてきた。

 鷺谷さんの声音はいつものようにおちゃらけていて、表情も笑顔だ。だけど、目だけが真剣な気がした。


 なぜだろう、今このタバコを受け取らなければ、もう一生鷺谷さんに会えないように思えた。だから僕は、恐々と、差し出されているタバコを受け取った。


「契約成立! うんうん、進捗は順調だ」


 鷺谷さんは、満足そうに頷いていた。何の進捗が順調なのだろうか。もしや、鷺谷さんの言う革命は冗談じゃなくて、この人は、本当に何かを考えているのだろうか。


「……でも、まだセックスはしてないんだよねー」


 ただただ、びっくりした。


 唐突に、脈略なく、この人は何を言い出すんだと、思わず顔を背けた。鷺谷さんのような美人な女性がその言葉を口から出している姿は、まるで、女の人の裸を見ているような、そんな恥ずかしさと気まずさを僕に想起させた。


「好きな人としたいんだけどさ、なんか、好きな人ができなくて」

 切なげなその言葉に釣られて、僕は恐る恐る、ちらっと鷺谷さんの方を見た。すると、彼女のくりくりとした大きな目とばっちり視線がぶつかった。


 僕は、固まってしまった。視線を動かしたいのに、動かすことができない。それこそ、眼球を矢で射抜かれたように、瞬きさえできないでいた。


 鷺谷さんは、じーっと僕の目を見ている。鷺谷さんのぷっくりとした二重まぶたの中に、僕の胸の中にある何かが吸い込まれそうな気がして、苦しくなった。鷺谷さんの白い肌は一々透明感に溢れていて、暗がりの中で僅かに流れ込む月明かりがその艶やかさを一層際立たせ、僕の頭の中が鷺谷さんの肌の色で埋め尽くされていく。


 数秒だったか、数十秒だったか。とにかくとても長い間、僕と鷺谷さんは視線を交わしていた気がした。しばらくしてようやく、僕は自分の顔が熱くなっているのを感じ始め、口の中が急激に乾いていることを自覚し始めた。心臓の音が聞こえる。体が硬くなる。


 そんな僕を見て、鷺谷さんは、ふふ、と美しく笑い、麗しげな唇をゆっくりと開いた。

 

 

「……うん、君はまだ無理かなー」

 

 

 鷺谷さんはそう言うと、今日一番の、おちょくるような笑顔を見せてきた。


 当然の話。


 別に、何かを期待していた訳ではない。いや、本音を言えば、どきどきしていた。だから何だか、とても恥ずかしくなった。自分のことが、とてもいやらしい人間に思えた。逃げ出したくなって、泣きそうになった。鷺谷さんのことが、大人の女の人のことが、急に怖くなった。


「ふふ、ごめんごめん、ねえ、ごめんって。そんな怒んないでよー」

 泣きそうな顔で固まっている僕に対して、鷺谷さんは、先程とは違う、優しい声音を携えながら僕の腕を揺らしてきた。


 鷺谷さんに悪意はない。それが分かると怖さはなくなった。でも、今度は逆に、その悪意のなさに対して、少しだけ、ちくっと傷ついた。


「私が死ぬまでに、いい男になれよっ」

 そう言うと、僕の背中をぽん、と叩く。


「……あと二年じゃ、毛も生え揃ってないかもよ。それでもいい?」

「いや、それは流石にきつい。頑張って生やそっか」

 鷺谷さんは、心底きつそうな顔をした。


 その顔が何だかすごくおかしくて、ツボに入ってしまって、僕は思いっきり笑った。

 すると、鷺谷さんも笑った。端正な顔が崩れるくらい、思いっきり笑っていた。

 

 

 

 この会話から三ヶ月後、鷺谷さんは自殺した。

 

 

 

 

 

 

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