ヘイ・ストゥーピッド
<<0>>
――――鎖がきしむ音が聞こえる。
身体の動きに合わせて鎖も動くが、それでも男が抜け出すことは叶わない。そうとは知りながらも、男はもがく。助けを求めて叫ぶ。
「お願いだっ。解いてくれ! 望みは何だっ!?」
じたばたともがき苦しむ様をなじるように見下ろすのは、禿げあがった頭をした初老の男。顔をしわくちゃにして老獪な笑みを浮かべ、男の要求には応えずに黙ってにんまりと口角を上げる。ヤニのこびりついた歯を覗かせながら、逆手に持ったメスを無影灯の明かりに翳した。眩い光が男の瞳に突き刺さり、眉をひそめたその瞬間に、刃は内腿の皮膚を貫いた。
「あ˝ぁああああああっ!」
激痛のあまり、男は叫び、身体じゅうを捻り、肩で息をする。まるで脱出ゲームのヒントを探すかのように、ぎょろりぎょろりと辺りを見回す。しかし、救いと呼べるようなものは何もない。あるのは、自分が治療行為とは程遠い凶行をしている狂った外科医の手術台に鎖でがんじがらめにされているという事実ぐらいだ。
瞳が絶望の色に染まり、濁っていく。太ももに生暖かい血が溢れているのを感じる。意識が遠のき、目が虚ろになった瞬間に、「まだ眠れると思うな」と言わんばかりに、外科医がメスを皮膚に刺したまま360度回転させた。
「ゔぁああああっ! はぁ、はぁ……。な、何が目的なんだっ!」
「脅迫に拷問はつきものだ。脅迫には目的がある。だから、君はその目的が果たされれば自分が解放されると考えて、しきりに私にこう尋ねる。
何が目的なんだっ?!」
男がもがき苦しみ、命乞いをする様を茶化すように裏声でまねてみせる。
「だが、もし拷問そのものが目的だったら、君の甘えた願いは無残にも砕け散るだろう」
その言葉で男は全てを悟る。
自分はただの玩具だと。外科医は、子供のような無邪気な笑顔を浮かべる。禿げあがった頭、険しい皺の入った皮膚、口元に生えた白い無精ひげ、ヤニのこびりついた歯。どれにもその笑顔は似つかわしくない。その笑顔は、純粋な悪意に満ちていた。まるで子供が、虫の四肢を捥いで遊ぶような。無邪気な狂気がそこにはあった。男はそれに対する対処を知らない。純粋な悪意には、憐れみも対抗心も抱くことができず、ただただ恐怖を抱くのみだ。男の残り少ない精気は、がくがくと己の身体を無益に震わせることに注がれるのだった。――――
「結構、じわじわ攻めるのね」
女はその様子を冷めた目つきで、モニター越しに眺めている。黒い縁の太い眼鏡からは、飾り気のない、なんとも言えない垢抜けない印象が滲み出ている。
部屋は薄暗く、ラップトップのPCに繋がれたテレビから漏れる赤黒い明かりが部屋を照らしている。赤黒いと形容したのは、テレビの中の光景が、血にまみれているからだ。
ラップトップのPCには、サブウーハーのついたステレオスピーカーがつながれている。サブウーハーからは、外科医が刃を振り下ろすたびに重低音が、床を叩きつけるかのようにして発せられて、ビニル床を震わせる。
「ちょっと近所迷惑かな。――――まあいいか、八千円もしたスピーカーだし」
――――エンジンの音が男の耳に入る。ガソリンの刺激臭が鼻を刺す。
外科医は、高笑いを上げながら、チェーンソーを男の眼前に突きつける。これ見よがしに、スターターロープをしきりに引っ張り、いたぶるように高速回転する刃を男の鼻先までじわじわと近づけていく。
「やめろっ! やめろっ! やめろっ!」
「なんで外科医が、チェーンソーなのよ」
女はテレビに向かってツッコミを入れ、うるめの煮干しをひとかじり。それを流し込むようにして、安い缶酎ハイを飲む。
スピーカーから男の断末魔が上がる。おびただしい量の血が、まるで水で膨らませ続けた風船がはち切れるがごとくほとばしった。現実離れしたオーバーな量の血飛沫だ。
男の断末魔と息を合わせるかのように電話が鳴った。
「今いいとこなのに」
女はふくれっ面をしながら電話に出る。電話に出る前に深呼吸をし、肩に力を入れ、背筋を伸ばす。
「もしもし。うん。今、映画見てる」
電話から漏れる男の声で、女はソファーから立ち上がる。顔を少しだけ紅潮させて、微笑む。彼女の口元がぴくぴくと動く。
「え? ――――ラブストーリー」
どこか自分に呆れた調子で嘘を吐く。
もちろん、テレビの中で流れている映画はラブストーリーなんかではない。狂人が刃を振り回す様子と、残虐極まりない凶行に喘ぐ犠牲者の様子が描かれている。犠牲者である彼彼女らからは、現実ではあり得ないほどの血が肉片とともに飛び散る。いわゆるスプラッタ映画というものだ。
「うん。今度帰ってくるんだよね。今ね、そっちに持って行くのを準備してるから。うん。――――また用意出来たら連絡する」
どこか急いでいるような口調で、足早に会話を進める。
映画の続きに集中したいのか。漏れ聞こえる音声から、映画の内容を知られたくないのか。
「同棲かぁ」
電話を切り、ため息交じりに呟いてソファーに尻餅をつく。
ソファーというよりも、巨大なクッションという見た目をしたそれは、彼女の体重を受け止めて湾曲し、彼女を抱きしめるかのように包み込む。再び彼女は、うるめを肴に缶酎ハイを飲む。
「太るからって、煮干しも飽きたなぁ」
テレビの中では、次の犠牲者が外科医の魔の手に落ちようとしていた。
行方不明扱いになっていた男の身元を死に物狂いに探していた、妙齢の美女だ。
「……、あたし、きっと、ふられるんだろうな」
<<1>>
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
このレンタルビデオ店に勤めて三年目。
動画サイトやオンデマンドの影響で客足が遠のいているのが、目に見えて分かるようになってしまったのが寂しいが、生活費の足しにはなっている。心なしか年齢層も、ネットに慣れていない中高年の割合が多くなったように感じる。大学三年の青年には、少々物足りない。
だが、この店にはちょっと変わった常連がいる。レンタル期限に合わせて、毎週機械的に訪れる彼女は、見た目はちょっとした不審者だ。彼女は夜、だいたい深夜1時頃に現れる。
自動ドアが開いて、季節に合わない長袖のチェック柄のシャツを羽織った女が入ってくる。気の早い熱帯夜で少し汗ばんでいるのか、鼠色のシャツが身体にくっついている。特別太っているわけでも、特別スタイルがいいわけでもない。いたって普通のやせ型の若い女性。ただ、いつもマスクをしていて、太い黒縁のメガネのレンズに前髪がかかっているその姿は、結構怪しい。おどおどしていて、万引きGメンがいたらきっと彼女に目をつけると思う。
店からは垂れ幕の向こうのアダルトコーナーを除くすべての棚が見えるようになっている。アダルトコーナーの18禁を訴える垂れ幕の付近には、ロマンポルノ映画やスプラッタ映画が並ぶ、店員の間では‘準18禁エリア’と呼ばれる棚がある。彼女はレンタル済みの商品を、返却箱に落とし込むと真っ先にそこに向かう。そして、お気に入りのものが見つかると、5~6枚くらいのDVDのレンタルケースを抱きかかえながら、頻りに周りを気にしてきょろきょろしながらレジまでたどり着く。
「こんばんは」
「こ、こんばんは」
からかってやろうと思ったのは、眼鏡の奥から見える瞳が綺麗だったからか。いや違う。彼女は、マスクを取って、眼鏡を外して、もう少しあか抜けた格好をすれば、きっとそれなりの美人だと思う。そんな彼女が、芸能人のお忍びのような格好で、どぎつい血みどろの映画を借りに来るのが、おかしいともどこか可愛いとも思えるからだ。
「面白かったですか」
「は、はい。外科医がなぜかチェーンソー持ってて。人間の血って60キログラムの男性なら4.5リットルくらいなんですけど、もう何リットルくらいあるんだよってくらいブシャーって。それも消防ホースから出る水みたいにド派手に」
口から出てくる映画の感想は、いつもいつもえげつないものだ。
腹をかっ裂いて腸を引きずり出したとか。解剖した人肉を調理して食べただとか。そんなえげつない光景を彼女は嬉々として語る。人肉を食べるシーンでは、カットが変わった瞬間にどう見ても豚肉に変わっていた。その安っぽさもいいと。
「あ、ああ。すみません、いつも。き、気持ち悪い……ですよね……はは……」
彼女の趣味はよく分からないけれど、それを身振り手振りを交えて解説した挙句、我に返ったようにまごつく様は、閉店間際の疲れを癒すのにはちょうど良い。
「そんなことないですよ。また聞かせてください」
その返事を社交辞令だと言われると、言い返せないかもしれない。だけど、棚卸のついでに映画のあらすじを見たりすると、世の中にはいろいろな映画があって、それを見るいろいろな人がいるものだと思い知らされる。彼女がいる世界は、極端だけれど、自分とは全く違う世界だ。そう考えると、彼女が冒険活劇によく出てくる異世界から突然やって来た少女のようにも思えてくる。
そして、少女は少し言葉を交わすと足早に去っていくのだった。
彼女は毎週のようにここに来る。からかいを始めて数ヶ月経つが、会話こそすれど未だに目を合わせてはくれない。
きっと彼女が僕に見せる顔は、秘密の顔なんだろう。
彼女はスプラッタ映画が好きだ。だけど、どこかでうしろめたさを感じている。僕はそれを知っている。彼女が嬉々として惨劇を語る姿を。彼女が他人には知られてはいけないと考えている部分を、僕は知っている。
そう考えると、自分が彼女にとっての特別になったみたいだった。
そんな幻想。僕は彼女の名前も、マスクの向こう側も知らない。
<<2>>
精気を失って毛がよれてしまった小さな肢体を、ピンで四肢を刺して磔にする。
生命科学科の実験講義、先輩からは聞いていた。この学科の必修講義、生命科学実験には、マウスの解剖実験があると。しかし、いざ自らの手で解剖するとなると妙な緊張感がある。実験の班分けは四人一組。先輩は、気持ち悪がる女子の目の前で、涼しい顔で解剖をやってのけ、先生が口を開く前に臓器の説明をしたという。前日の夜に動画サイトで予習したそうだ。――――涙ぐましい努力だ。
「固定ができたら、下腹部の皮膚をつまみ、隆起させてから刃先を入れてください」
そして同じ役回りを僕がさせられている。班のメンバーは男女が半々だ。ひとりの女子は口に手を当てて、「やだ、気持ち悪い」などと言いながら、もうひとりの男子の方に肩を摺り寄せている。その男は、贔屓目に見て少し男前だ。ちょっと腹が立つ。結局、ハサミは貧乏くじみたいなものだ。残るひとりの女子は、レジメのプリントで口元を隠しながら、切開されるマウスに視線を注いでいる。やけに目力が強い。
皮膚を割くと、内臓を包む膜がある。膜を切れば赤黒いものやらピンク色の物やら臓物が顔を出す。流石に眉をしかめたくなる。
「顎に向かって真っすぐに刃を走らせてください。肺をめくりあげて心臓の位置を確認します」
少し渋っていると、マウスに熱い視線を送っていた女子が声をかけてきた。
「ねぇ、バトンタッチしてくれない?」
思ってもみない言葉に、思わずその顔を見つめ返す。
「だめ?」
他のふたりの取り巻きも呆れたような顔を向ける。
この女も妙なところで上目遣いを仕掛けるものだ。少々赤黒いものが胸に来ていたので、先輩が率先して解剖したのにもかかわらず無収穫だったのを思い出し、バトンを渡す。後ろでまとめた艶のある束ね髪が、しなやかに揺れて僕の眼前に躍り出る。身長差が手伝って、彼女のつむじからシャンプーの香が鼻先を撫でる。
「喉をかっ裂くのよね」
なぜだか声が浮ついている。
声色は好奇心に満ち満ちているようだった。妙な女もいるものだと思ったが、どこか聞き覚えのある声だ。記憶を探ると浮かんできたのは、あの女性だ。太い黒縁の眼鏡、ごわついた髪、よれたチェック柄のシャツ、おどおどした目つき、だぼっとしたジャージのパンツ。
まさかな。心の中で呟いた。
実験担当の講師は、生理学系の研究室の准教授。
マウスの薬物代謝の研究をしているらしい。歳は五十は超えているだろうが、それよりは若い見た目をしている。
ホワイトボードに解剖図を拡大したものを張り付け、支持棒で指した臓器を当てさせる。各班の実験机を周り、自分が指した臓器を実際に指さしさせる。
「その臓器は何かわかる?」
「……、すい臓?」
「正解っ」
肝臓は独特の色をしているので、辛うじてわかる。しかし、その手の簡単に見分けがつく物は先に出てしまった。前の班に出されたすい臓なんか、名前さえ出てこなかった。これは自分の班に来たときは、相当な難問を出されるだろう。
「これは難問なんだけど」
講師は右半身。胃腸の下から顔を出す細長い臓器、赤黒いというよりほぼ真っ黒な色をしている。色からすれば、禍々しい肝臓か、血が固まったものかにしか見えない。僕を含めた三人が黙り込む中、手を挙げたのは僕がバトンを渡した彼女だった。
「はい、藍原さん」
「脾臓ですか」
「正解っ」
僕の知らない臓器の名前を口走った彼女。藍原という名前、どこか聡明な響きだ。代わって、僕の名前は山下俊輔。平々凡々とした響きだ。
<<3>>
レンタル受けに返された品々をジャンルごとにより分ける。だいたい作品のジャンルごとに棚を分けてあるので、こうすると作業がしやすい。スプラッタやロマンポルノは借りられる本数が少ないから、返されるものも当然少ない。そうすると一度に棚に戻そうと一緒に持って行くことになる。この日はアダルト作品も返されたものが少なく、三つのジャンルを合わせても十本くらいだった。
夜も深くなれば客も少なくなり、深夜帯のシフトで入っている店員の数も少ない。とっとと早く済ませてしまおう。そう思い両の手いっぱいにレンタルケースを抱える。
一作品、二作品と棚に戻す。やけに棚の上段のものが多い。
別に身長が低くて届かないわけじゃないが、上段にばかり品物が集中するとどうしても、視野が上方にばかり向いてしまいがちになる。上を向いたまま横歩きをした瞬間に、勢いよく肩が固いものにぶつかった。骨と骨がぶつかった重々しい独特の感触がした後、からりと軽い音がした。
「すみません」
咄嗟に直感した。自分の肩が女性の頭部にぶつかり、はずみで女性がかけていた眼鏡が外れたのだと。慌てて謝りながら床に屈みこんで、眼鏡を拾い上げる。見覚えのある太い黒縁の眼鏡だった。
見上げたそのとき、僕は初めて彼女と目が合った。まだマスクは取れていないが、目元で分かってしまった。
「藍原さん?」
「山下君……?」
眼前にあるあか抜けていない印象の彼女と、実験授業のときの聡明な彼女。それがひとりの女性の、オフとオンの関係にあることを理解するのに少々時間がかかったが、どこかミステリアスで縁遠いような印象を受けていた彼女が、同じ大学だったという事実を知って嬉しくもあった。
「……、藍原さんだったんですね」
「わ、私も同じ学年だとは思わなくて。――――知ってた?」
勢いよく立ち上がって激しく首を左右にぶんぶんっと振る。
少しオーバーなリアクションをした僕を、藍原さんは笑った。
「まあ、どっちにしろいいよ。大学では秘密がばれてもどうってことないし」
秘密という言葉が藍原さんの口から漏れた。
やはり、ここでの藍原さんは彼女の中では秘密の存在だった。相も変わらず、わざとらしいくらいに野暮ったい彼女の‘お忍び’の格好を見ればそれが分かる。
「や、山下君は変だと思うよね。多分解剖実習でも皆に引かれていた気がするし……」
「別にそんなことはないですよ」
「え……」
僕としては、いつもの調子で答えたつもりだった。
事実、彼女はこの手の質問をよくレジでのからかいに対して返してくる。それだけ、彼女は自分がスプラッタ映画が好きだということに後ろめたさを感じているのだろう。
「僕、ここでアルバイトをしていていろんなジャンルの映画に触れて、それを見るいろんな人がいるということを知ったんです。まるで、違う世界の人間がすぐ近くにいるみたいで、なんというかとっても楽しいんです。藍原さんの話を聞いていると……」
そう言うと彼女はお腹を抱えて笑った。
苦しい。苦しいから止めてとすら言った。
「私を口説いてるの?」
思わずだんまりとし、唾をごくりと飲み込む。
その様子を見て、また彼女は笑う。
「もうっ、山下君純過ぎっ」
なんか小馬鹿にされたみたいだ。
たしかに女性経験が豊富なわけではない。高校のときに恋仲の一歩手前まで行った女子がいたくらいだ。口をへの字に曲げると、彼女はマスクを外し、「ごめんごめん」と漏らした。
「――――いいよ。どぎつい映画一緒に見てくれるなら」
にっこりと笑う。けれどなぜだか自嘲のようなものが混じっているように感じ取れた。
そして、彼女のこの言葉が、僕らの不思議な関係の始まりだった。
「あと、敬語じゃなくていいよ」
「あ。そっか」
<<4>>
深夜帯シフト明けの翌日はやはり眠い。たとえ、淡い憧れを抱いている人の部屋を尋ねるとはいえ。
連絡先は、LINEの交換だけで済ませた。今思えば、どこか事務的だった。
彼女の家は、レンタルビデオ店からほど近いマンションだった。同じ大学とはいえ、真昼間とはいえ、いきなり部屋に男を上げるというのは、どうなのだろう。まったく警戒されていないというか、まるで気の合う同性の友達のような感覚だ。
306号室。表札には藍原と記されている。
チャイムを押すと、彼女がドアを開けて迎え入れる。格好は、少しよれたシャツの上に薄手のカーディガンを羽織っており、下は七分丈の裾がラッパ状に広がった風通しのよさそうな綿のズボンを履いている。オシャレというよりは機能性を重視しているように見えた。
「近いでしょ。ここ」
「うん」
髪型はヘアゴムで後ろに束ねただけのシンプルなおさげ。実験授業で見たヘアスタイルと同じもの。そして見慣れた太い黒縁の眼鏡をかけていた。
部屋の内装をきょろきょろと見まわす。
「なに、そんな珍しい?」
「いや……、こういうの初めてだから」
「あんまり女の子っぽい部屋じゃないから、後の参考にはならないよ」
たしかに、想像したよりはすごくシンプルな部屋だ。
床には、控えめな花柄の絨毯が敷いてあり、その上には長方形のテーブルと、身体にフィットして窪む巨大なビーズクッションのようなソファーがある。ソファーのちょうど向かいに薄型の液晶テレビモニターがラップトップのPCに繋がれている。あとは三段ボックスが壁沿いに並べられていて、ベッドがあるくらいだ。ところどころ生活感はあるが、なんというかモデルルームのようなシンプルさだ。
三段ボックスにはレースカーテンがされていて、中に並べられているものが見えなくなっている。「ジャーン」とご丁寧に効果音を付けて、彼女はカーテンを開いた。中には想像した通り、彼女の秘密があった。
「レンタルで吟味して、気に入ったら買ってるの。サスペンス・スリラーに分類されるけれど、ハンニバル・レクター関連は全シリーズ揃えている。好きなのはジェイソンにフレディ。ファイナル・デスティネーション。メジャーなところだと、スティーブン・キング原作は必ず見るというか、見ちゃうかな」
DVDケースはどれもこれもおどろおどろしいものや、禍々しいものばかり。
しかし、背表紙をなぞったり、たまに取り出してくるくるとDVDケースを表裏と返しながら語るその声は、浮ついていて歌を歌うかのようにも聞こえる。
「だけど、B級のスプラッタ作品が一番ツボかな。見ていて低予算と分かるチープさが癖になるの。あと脚本がツッコミどころ満載なのも。ダミーの死体よりも血糊の方が安いからと、わざとオーバーに血糊を使ってダミーは冷静に見ればマネキンなのが丸わかりだったり。これなんか最高」
彼女が見せてきたのは、‘ザ・人間爆弾’というなんとも悪趣味なタイトルだ。
「怪しいサイトで注文したチーズを肴に飲み明かしたおバカな7人の男。変な味のするチーズだと思いながらも全部食べてしまう。しかし、それはテロ組織が開発したプラスチック爆弾。そして7人はその瞬間から興奮すると爆発してしまう人間爆弾になってしまうのだ。果たして7人は、興奮せずに生き残れるのかっ!?」
聞いているだけでバカバカしい。これがスプラッタ映画ということは、何人かは爆発して肉片が飛散するという悲惨な最期を遂げるのだろう。
「中盤は、ほんとお下品よ。あまり言いたくないくらい」
そう言って笑う彼女の顔は、悪ガキみたいにヤンチャだ。右の頬にできるえくぼが愛らしい。
「なんで、スプラッタ映画が好きなの?」
「なんでだろうね。ひとり暮らしし始めてだから結構最近かな。好きになったのは。始めての親元を離れた暮らしでテンション上がっててさ。ひとりでテレビ見ながら徹夜してた。時計の針が深夜2時を指しただけで、興奮してた。
――――ああ。今、私。悪いことしてるんだって」
ヤンチャな笑顔に似つかわしい、悪戯心のような、ちょっとした背徳感。
大学で見た彼女は聡明な優等生。レンタルビデオ店で見たのは、恥ずかしがり屋さん。そして、今目の前にいるのは、ヤンチャな悪ガキ。なんとも表情が豊かだ。
「チャンネルを回すといろんな番組があった。過激だったり、チープだったり、お下品だったり、エロかったり。そんな中で血みどろの映画を見たの。
死霊のはらわた」
その映画は名前だけは聞いたことがあった。彼女の話によると、後のスパイダーマン三部作で一躍有名となった映画監督サム・ライミのデビュー作だそうだ。その蘊蓄には思わず声が出てしまった。
「強烈だったわ。訳も分からず釘付けで。それからもう病みつき」
感慨深そうに、‘死霊のはらわた’のDVDのジャケットを撫でる。
ちょっとした背徳感と、恐怖感、とんでもない刺激と強烈なヴィジュアル、オーバーな流血と不謹慎なブラックユーモア。夜更かしをしたことがないというほど、純だった彼女にとって、そういった尖ったものは、魅力的だったのだろう。
「ちょっと分かるかも」
「そう?」
「僕も中学んとき、ヘヴィメタとかに凝ってたし。なんか似てるかなって」
「いいよね。私も好き。ヘーイヘーイヘイヘイ……」
彼女の歌った一節でピンと来た。アリス・クーパーの‘ヘイ・ストゥーピッド’だ。
「「ヘイ! ストゥーピッド!」」
そこで声を合わせると、彼女は跳ねるように喜んだ。なんか、やっと恋人同士のような感覚になった。でも昨日誘ったとかじゃなくて、すっかり恋仲の絶頂のような。不思議な感覚だ。
極端に自分と違った存在に自己を没入させる。文字通り、バカになる感覚。
ちょっと興味が湧いてきた。
「僕も何か見ようかな」
「ほんとっ!!?」
軽い気持ちで口から出た言葉をひっつかまえんと、顔を鼻先まで近づけてきた。まるで、僕に向かってとびかかるように。
「う、うん」
勢いに押されがちになりながら、頷くとすぐさま何を見るかと尋ねてきた。僕は、この手のジャンルには明るくない。だから、彼女のおすすめが知りたかった。
「あ、でもちょっと軽めのやつで」
「わかった」
――――それから悪趣味な映画鑑賞会は、頻繁に開催された。
何回か鑑賞会に参加するうちに、ふたりは下の名前で呼びあうようになった。‘汐里’と‘俊輔’。会場は、汐里の部屋のときもあれば、僕の部屋のときもあった。
色んなためにならないことを教わった。バカな役や、ムカつく役が餌食にされる場面は、笑うこと。お調子者の男と巨乳の女がいちゃつくと、きまって次のカットでふたりとも餌食になること。ドラッグの種類、お下品なアメリカンジョークと、スラングを少々。――――スラングはもしかしたら、なんかの役に立つかもしれない。
安い発泡酒や缶酎ハイを飲みながら、真っ赤な映画を見るふたり。
カラオケに入って、ふたりで酔いながらデスボイスを練習したり。ガラガラ声になったお互いをバカ笑い。
腹を抱えて笑った。ふたりしてバカになった。
大学生特有の長すぎる夏休み。いつもはゆっくりと過ぎる暑い日々も、浮足立つような足取りで足早に駆けていく。騒がしい日々は、あっという間に過ぎた。
「俊輔、ごめん……」
僕の部屋の玄関先で、彼女はその言葉を吐いた。
ついさっきまでいつものように、おバカで血みどろの映画を見ていた。拷問に勤しむ外科医が、なぜかチェーンソーを取り出す場面は、一緒になって笑ってしまった。愛らしいえくぼを作って。――あんなに笑っていた彼女が、途端に神妙な顔つきになった。
「……もう、会えない」
「え……」
開いた口から空気が抜けるような、間抜けな声が出た。口元と眉がぴくぴくと痙攣する。僕の中ではそれは狼狽えの表情だったけれど、汐里はそれを怒りの表情と捉えたかのように、うなだれて後ずさりをした。
「……、彼氏がしびれ切らしちゃって、同棲しようって」
「……、は……?」
突然の告白で頭が真っ白になる。
ほんのさっきまで、彼女にとってのそれは、他でもない自分だと思っていた。いや、今もそう思っているのかも知れないけれど。そう思いたいけれど。そうではないと夏の夜風が囁いていた。夜風はじっとりと濡れていて、夏の終わりの雨を知らせている。
汐里の口が、僕の中の何かとともに夏を終わらせようとしていた。
「ごめんなさい。黙ってて……私、彼氏がいて……高校ときからずっと付き合ってて。こ、この前まで……アメリカに留学してたの。今帰って来てて。帰ったら一緒に住もうって約束してたから。
だから、だからその……ごめん……」
彼女がつらつらと述べる言葉の間に、僕の荒い息が入る。肩が上下している。
「はは……、なんだよ。それ……。なんなんだよ」
自分の部屋に子供が入ってきて、さんざん遊んで散らかした挙句、バイバイと去っていく。そんな心持だった。
「……、怒るよね……。そうだよね……。しちゃったね。悪いこと。それも、取り返しがつかないくらい、悪いこと」
彼女の勝手さに対する怒りというか、それよりもなんだか急に緊張の糸が切れてどっと疲れがぶり返して来たかのような。両の肩に重荷がずしんと乗っかって、その場に立っていられなくなった。
「ごめんなさい。私……、俊輔に甘えてた。彼氏と付き合ってたのは、高校の頃の私で、悪い子になる前だった。遠い存在で、かっこ良くて。だけどきっとそのままの私を見てくれない……。それまで連絡なんて寄こしてくれなかったのに、帰る間際になって急に忙しなく電話かけてきて。嬉しかったけど、ひとりにされてる間に悪いことを覚えた私は、なんだか分からなくなった……そんなときに、俊輔に声かけられて。私……浮かれてた。私が彼氏のために否定していた自分を、俊輔は肯定してくれた。だから、凄い楽しかったよ。今までのこと全部嘘にしちゃったけれど、これだけは本当。
――――ありがとう、俊輔」
「……、なんだろうな。どっと疲れたよ。怒る気も起らないくらい」
何にもされていないのに、何発かボディーブローを喰らわされた気分だ。
パンチドランカーのように、視界はくらくらとする。足取りはふらふらだ。壁に手をついて、自分で自分を嘲笑った。熱帯夜のもわもわした熱気が、開けっ放しにした玄関から部屋の中へと入っていく。僕は、玄関の壁にもたれて、汐里はドア向かいの柵に背中を預けていた。
静寂の中で、耳は雨脚を捉えた。
空気の湿度がぐっとまし、僕の頬をわさわさと撫でた。
僕にとんでもない悪さをしでかした悪魔は、その場を去るでなく、なぜか項垂れたまま動かなくなった。
「勝手にしろよ」
「そうだね。目障りだよね」
かすれた声でそう言うと、すくっと立ち上がる汐里。
僕はまだ、脚に力が入らない。
「……、じゃあ、行くね」
「待てよ」
座ったまま、視線をずっと下駄箱に注いだままで汐里を立ち止まらせる。
ひとつ言い忘れていたことがあった。僕をフッた相手だ。そう考えると、とんでもなくバカげた言葉。
「僕も楽しかった。――――ありがとう。これからは勝手にしてくれ、好きなところに行ってくれ。なんだろうな。汐里がはっきりしてくれないと、分かんないよ。どうしたらいいのか。ちゃんと言ってなかったし。今頃になって言うけどさ。
汐里のことが好きだ。ここでもう何もかも頭真っ白けになって、何にもできないくらい、汐里のことが好きだ」
きっと、汐里のバカが移ったんだろう。
「俊輔。私、悪い女だよ」
「知ってる。だけど、関係ないだろ」
「ありがとう。じゃあ、行くね」
「待って!」
なぜだか急に足に力が入って立ち上がれるようになった僕は、反差的に汐里にビニール傘を差し出していた。夜雨はごうごうと唸っている。汐里は今日、傘を持っていなかった。それらを咄嗟に判断して、身体が勝手に動いてしまったらしい。我ながら、とんでもない優男だ。
「あ、ありがとう」
そういって汐里は、体温を感じ取るように僕の掌を撫でながら傘の柄にたどり着く。汐里の体温が、傷に沁みるように感じた。噛み締めるようにして、汐里はもう一度呟いた。
「ありがとう。本当に」
そのとき、汐里は泣いていただろうか。――――バカな。そんなの、目の錯覚だ。だいいち、眼鏡の奥の彼女の表情なんて、見えやしない。
ヘーイヘーイヘイヘイ。ヘイ! ストゥーピッド!
頭の中でアリス・クーパーがその一節だけを歌い上げた。
「ヘーイヘーイヘイヘイ。ヘイ、ストゥーピッド」
僕も、調子外れた声で一緒に歌った。
部屋の中に戻ると、一緒に見ていたスプラッタ映画が二周目の再生に入っていた。男の心臓が抉り出されるシーンだった。――――そして、僕は呆けるように画面に見入り、同じ映画を二回見た。
神様がそう差し向けたのか。そのころちょうど、研究室配属が決まり、卒業研究に勤しむようになった。講義とそれ以外の有り余る時間という大学生の生活スタイルは、一日の大半を研究室に身を置く卒研生の生活スタイルへと変わり、汐里と顔を合わせることはなくなってしまった。
そして、汐里はもちろんバイト先のレンタルビデオ店にも来ない。
汐里と別れてから、スプラッタ映画を借りる客をあまりに見なくなった。代わりになぜか、僕が借りて見ている。まるで、染みついた習性のように、血みどろの映画を見ている。
汐里と会わなくなって、三週間が過ぎた。
僕は、汐里と過ごした夏のままで、秋を生きている。もっとも、外はまだ残暑が厳しく、もわもわとした熱もしぶとく居座っている。秋雨も手伝って、湿度もまだ高い。僕の心もまだ、熱病を患ったままだ。
――――バイトが入っていない日は、深夜まで実験をすることもある。あれほどかったるかった講義の内容が、実際に研究に出てくると、どうしてか面白い。その日は、雨が降るまでに帰るつもりだったのに。長引いてしまって、雨に降られた。学内のコンビニでビニール傘を買う。どうしてかな。帰って来ていないあの傘と同じ型だ。
雨は傘をざあざあと打つ。バケツをひっくり返したような雨だ。家に着くころには、脚が膝から下はびっしょりと濡れてしまった。じゅぽじゅぽと歩くたびに音を出すスニーカーがなんとも気持ち悪い。
「これは、明日までに乾かないな」
自分が歩いたあとのコンクリートが、色が変わってしまっているのを振り返る。そして、もう一度向き直ると自分の部屋のドアの向かいの柵に背中を預けて座り込む影がいた。見覚えのある格好だ。
目を擦り、何度も瞬きをした。遅くまで実験をしていたから、目が疲れていたのかも知れない。だけど、その人影は見れば見るほど懐かしい姿をしていた。太い黒縁の眼鏡。よれたチェック柄のシャツ。色気のないジャージのパンツ。そして、彼女は帰って来ていないあのビニール傘を携えていた。
「し……、汐里……?」
「俊輔……、返しに来たよ」
わざわざ返しに来たのか。たかが、ビニール傘一本ごとき。――――律儀な女だ。
「そっか。――――なんで今頃。彼氏は?」
「同棲して一週間でおじゃん。結局ほとんど会話という会話しなかったし。彼は遠い世界のことを話して。それで終わり。――――すっごく、息苦しかった」
すくっと立ち上がって、ひと月前に貸したビニール傘を僕に差し向ける。一本税込み540円の、どこのコンビニでも買えるようなビニール傘だ。
「本当に、傘返しに来ただけなのか」
ようやく忘れようかと思っていた矢先に拍子抜けだ。
また熱病がぶり返しそうになりながらも、そう尋ねずにはいられなかった。
「傘だけなら、きっと返さない。あのとき、俊輔にもらって、私が返していないものがあるから。それを言ったら、帰るね」
すうと息を吸い込むと彼女の肩は、寒さに凍えるようにふるふると震えた。眼鏡の奥で、汐里の瞳に水が満ちていく。汐里は、胸の内に秘めた想いを、湧水とともにほとばしらせた。
「わ、私も俊輔が好き。自分から振っといて、ひどいことしておいて。訳も分からないまま、こんなとこまで、のこのこやってくるくらい、俊輔のことが好きっ」
最悪だ。熱病がぶり返した。
僕は半ば自嘲の意も込めて、腹を抱えて笑った。
「それがお返しか。それで、自分の気持ち吐き出して、踏ん切りつけて帰るってか。こっちは、さんざんかき乱されて、たまったもんじゃねえよっ」
また、動き出しそうな汐里の口。
さんざん僕を困らせた彼女は、僕の復讐心に火をつけた。僕は、前につんのめって彼女によりかかり、背中に手を回し、長い髪の匂いを嗅ぐようにして、彼女の体温を全身で受け止めた。彼女の背筋が伸びて、きゅんとイルカが鳴くような声が聞こえた気がした。
僕は、汐里を困らせたかった。
さんざん人の気持ちを弄んで、捨てた挙句に、また現れて、今さら好きだなんて言う勝手な女だ。最悪だ。僕の熱病はぶり返してしまった。
だから、僕は汐里を困らせたかった。
だから、帰してやらない。帰すもんか。
だけど、今度は汐里が僕の背中に両の腕を回した。そう、汐里は僕の復讐を笑ったんだ。僕は、「僕はバカだ。大バカだ」と自嘲した。
汐里は悪い女だ。こうなることを望んで、汐里はここに来た。
だって、そうだろう。そうでなきゃ、安いビニール傘をわざわざ返しになんか来ない。僕は汐里が仕掛けた罠に、大喜びで飛び込んだんだ。
汐里は泣き笑いながら、僕の背中を抱きしめる腕の力を強めた。
視線の先で強まる雨の音。
ざあざあざあ。
ノイズに混じって、汐里の噛みしめるような笑い声が微かに聞こえた。
僕もそれにこたえるかのように笑った。
「私、女の子っぽくないよ」
「知ってる」
可愛らしい、そよぐような吐息に混じってかすれた声がする。
秋雨には不釣り合いな夏の熱が、ふたりだけを包み込んだ。
「スプラッタが好きな変な女だよ」
「知ってる」
「ダサい眼鏡かけた女だよ。おしゃれに無頓着な女だよ」
「知ってる」
「悪い女だよ、ひどいことした女だよ」
「全部知ってるよ。汐里のこと好きだって言ったの、それ全部知ってからだったろ?」
抱きしめたその手を緩めて、互いを見合ったとき。
「……、バカ……」
汐里は、可愛らしいえくぼを作りながら、僕をなじった。
その声を聴いて、再び僕の頭の中にアリス・クーパーが現れた。あの一節をふたりに捧げるためだけに、スタンドマイクを握りしめた。
ヘーイヘーイヘイヘイ。ヘイ! ストゥーピッド!
玄関先。コンクリートの廊下にはで、横殴りになり始めた雨が鼠色の染みをつくっていた。濡れた髪に目もくれず、口づける。
そして、僕たちは再び、バカになった。