5、使い魔クロウ
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少女エルミダの母は、変り者だと言われていた。言葉を話すのが苦手で、会話をしようとすると片言になってしまう。時折誰にもわからない言語を喋るし、身振りも少し変わっていた。母の作る料理は、他の家庭とはまるで異なっていて、独特な甘味の強いものであった。友人たちは、エルミダの母の料理を「食べられたものではない」と言って吐き出した。
そして何より変わっていたのは、その見た目だ。
成人しているはずなのに背丈は子供のように低く、小柄であった。髪の色は炭のように黒く、瞳も闇のように黒かった。その外見が不気味であったためか、村の人間はエルミダの家には極力近付かないようにしていた。少女の母は、村の中で浮いていた。
それでも、少女エルミダは幸せであった。
母は少女に愛を注いで育ててくれた。幸いにも父親に似て茶色の毛、青い瞳を持って生まれた少女は母のように村で避けられることも少なかった。母の料理は嫌いではなかったし、母の話す言葉もなんとなく理解できた。
他と変わらない、幸せな家だったと思う。五年前のその時が来るまでは――。
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首都スマラカタは国の中心地であった。毛細血管のように複雑な交通網が張り巡らされ、最新技術が街の隅々にまで行き届き、耳を塞いでいてもメディアの報じる情報が入ってくるような街であった。
しかし、ひとたび遠距離列車に乗って街を出ると景色はがらりと一変した。延々と続く田園風景と、山と空。列車の窓から見えるのはそればかりで、どこにもビルの姿もなければキャスターを映し出すディスプレイもない。生き物と言えば空を飛び交う鳥ばかりで、人間の姿を探すことも難しかった。
西に向かう遠距離列車に乗って終点に到達した少女ドロシーは、初めての地へと降り立った。此処から先、交通手段はない。西を目指すのであれば歩いて向かう必要があったが、むしろ好都合であった。あまり手持ちの金はない。なるべく節約しながら西へと向かう予定であった。
『すっげえ。何にもねえなぁ』
終着駅から道に出るなり感想を零したのは、トートという名の幻獣だ。彼の姿はドロシー以外には見えない。喋る声も誰にも聞こえなかった。
『こりゃ、スマラカタでいろいろ買っといて正解だったぜ。ここじゃ金持ってたって意味がなさそうだもんな』
整備されていない地面剥きだしの道を小股で歩きながら、トートが呟く。今でこそ小型犬のような姿をしているが、彼は自由自在に変化することができた。場合に応じて変化して、時にドロシーを助けてくれる、心強い味方である。
魔女狩りを目的とした特殊部隊から逃げ、首都スマラカタを飛び出した少女と幻獣が目指したのは、西の方角であった。漠然と西に向かうだけで明確な目的地はない。何しろ、これからどうするべきなのか、彼女たち自身にもよくわかっていないのだ。何にせよ、数日で戻れるような旅ではない。長旅になることは確実であったので、首都スマラカタにいる間に出来ることは全てしておいた。
まずは電子貯金を全て現金に還元すること。首都のあちらこちらで現金を引き落とせる電子貯金は便利だが、使用することによって使用者がどこにいるのかすぐにわかってしまう。国家の編成する特殊部隊から逃げている以上、足の付きやすい電子貯金を利用するのはこれを最後とした。それから洋服を買い、目立ちやすい制服を脱ぎ捨てた。少量の食糧を買って鞄に詰め込み、位置を探知できそうな電子機器類は全て捨てた。最新技術の結集である電子端末を捨てることに最初は不安があったが、手放してみると案外不自由なかった。むしろ、情報に追われることがなくなり、解放感があった。
『昨日は途中の駅で夜明かししたけど、今度はどうするかね。やっぱり野宿かー?』
終着駅の前に街はないが、駅前から道が続いている。道があるということは、人がいるということだ。この道を辿って西へと進めば、どこかの街に辿り着くのではなかろうか。
少女はそう考えて、西へ続く道を選んだ。機能的に整備されていない道は平坦ではなく、ところどころ石も転がっていた。だが、決して歩きづらいことはなく、快適であった。少女と幻獣は人気のない田園風景の中を進んで行った。
そうしてどれほど歩き続けたことだろう。駅を出た時には南に上がっていた太陽が西の地平線へ沈もうとしている。さすがに歩き疲れて脚が痛んできた頃になって、ようやく人里が見えてきた。
『あ、家だ』
幻獣トートの言葉がその光景をよく表している。
山々の麓に作られた穏やかな田園風景は、どこまで続くのだろうかと不安になるほど広い。だが、人の気配はなく、この田畑は誰が面倒を見ているのだろうかと不思議に思っていたところ、山の麓にいくつか家が建っているのが見えた。
首都にある高層集合住宅とは比べるべくもない、小さな家々だ。数も数えられるほどしかなく、街とはお世辞にも呼べない。村と呼ぶべきか、集落と呼ぶべきか。とにかく、人里が見えた。ドロシーは小型獣を引き連れ、人里を目指して歩みを進める。足の疲弊は限界であったが、人里までは辿り着きたいという気持ちがあった。
最終的には足を引きずるような格好になり、なんとか目的地に辿り着いた頃には日が沈んでいた。空は紫色に染まっている。丸い月が東の果てに浮かんでいた。
家々にはそれぞれ心許ない明かりが灯り、人が住んでいることを伺わせていた。しかし、外には人がいない。ドロシーはパンパンに腫れたふくらはぎを揉みながら大きく溜め息を吐いた。
『……来てみたはいいが、なんもねえな。宿くらいあればよかったのに』
小型獣も疲労しきった声で呟く。少女は座り込みたい気持ちを押さえ、里を見回した。
「宿に泊まる金はないけど……食糧難調達くらいできればよかったな。どこかで飲める水を探さなきゃ」
水道くらいあるのではないかと暗がりを探す。小型獣は大きく伸びをしながら答えた。
『それより少し休もうぜ。朝になれば誰か出てくるだろ。水くらいなら分けてもらえるんじゃねえの』
「ならいいんだけど」
ドロシーはふうと息を吐く。休憩したいという思いはドロシーも同じであった。
しかし休むにしても何処で休むべきか。他人の家の軒下で休むわけにもいかない。休憩するのに丁度良い場所はないかと探そうとした、その時である。
「……貴女、誰と会話してるの?」
何の前触れもなく突然背後から声をかけられて、はっと息を呑んだ。
慌てて振り返れば、後ろの家の傍から、一人の少女がこちらを見つめていた。ドロシーと同じ年頃の娘である。青色の瞳を怪しげに細めてこちらを睨み付けていた。
「え……あ……こんにちは」
「……貴女、今、何かと会話をしていたでしょう」
「会話……? え、と……初めて来た場所だから、迷っちゃって……思わず独り言を……」
苦し紛れに言い繕う。ドロシーが幻獣と会話するのを一体いつから聞いていたのだろう。人気の少ない集落であったため油断していた。
青い瞳の娘は訝るような表情を浮かべつつこちらへ一歩ずつ近付いてくる。ドロシーよりも小柄な娘であるが、睨み上げる目付きには迫力があった。
「水が欲しいなあと思って、立ち寄ったんだけど……」
たじろぎながらも、言い訳を続ける。しかし、娘の耳にはまるで届いていないようだ。
「貴女、見えない何かと会話してた……魔女なの? ひょっとして、魔女なんでしょう?」
娘はドロシーに掴みかかってくるような勢いで、尋ねてきた。よもや人里に着いて早速『魔女』の疑いをかけられるとは夢にも思っていなかったため、咄嗟に返す言葉もない。閉口したドロシーに対し、娘はますます畳みかけてきた。
「貴女が魔女なら教えて欲しいことがたくさんあるの! 魔女ってどういう魔法を使うの? 何をもって魔女だって判断するの? ねえ、魔女の定義って……」
ドロシーのことを『魔女』だと決めつけておきながら、娘は怖がる様子も見せない。それどころか身を乗り出して次から次に質問を投げてくるので、ドロシーの方が怯えた。さらに一歩娘がこちらに近付いてくる。ドロシーが思わず後退りをすると、不意に柔らかな声が響いた。
「やめなさい、エルミダ」
優し気な声色である。声のした方を眺めれば、今度はもう一つ奥の家屋の扉から、一人の中年男性が顔を覗かせていた。家の住人であろうか。男は困惑した顔付きで、青い瞳の娘を諌めた。
「旅の人が困っておられるだろう。やめなさい」
エルミダというのが娘の名前なのだろう。娘は首を振り、ドロシーを押しのけ男に訴えた。
「でも、市長様、この人普通じゃないんです。一人で会話してた……」
「独り言を言うことだってあるだろう。なんでもかんでも魔女に結びつけるんじゃないよ」
ぴしゃりと言葉を遮られて、エルミダは不満そうに唇を結ぶ。そして地面を睨みつけると転がっていた石ころを蹴り飛ばし、どこかに走り去ってしまった。小柄な娘の後ろ姿は夜闇の中にあっという間に溶け込んでいく。それを見送ってから、やれやれと男は首を竦めてみせた。
「……すみませんね、旅のお方。実はあの娘の母親は魔女狩りで連れていかれましてね……それ以来、変になってしまった。他所からきた女を見るとすぐに『魔女』と決めつける」
「魔女狩り?」
聞き捨てならない言葉である。思わずドロシーが問い返すと、「ええ」と男は頷いて白髪交じりの頭をかいた。
「もう五年も昔のことです。今は集落に魔女などいない。安心して泊まってくださいな」
「泊まる……? 泊めてくれるんですか?」
「宿をお探しだったのでは? 小さな村ですが、民宿くらいはあります」
「あ……民宿……」
てっきり無料で泊めてくれるものと勘違いしたドロシーは、己を恥じた。タダより安いものはない。見ず知らずの少女を無料で泊めてくれる場所があったらそれは危険な場所だと疑った方が良かろう。
「すみません、ありがとうございます……でも、私あんまり手持ちがなくて」
「都会ほど高くはありませんよ。私の口利きで少し安くしてあげましょう」
そこまで言われてしまっては、断れない。ドロシーは小さな声で謝礼を述べた。
『……なんだよ、タダじゃねえのかよ』
小さな声で小型獣が文句を述べているが、無視を決め込んだ。この上、彼と会話などしてこの男性にまで怪しまれては困る。ドロシーはにこりと社交的な笑みを浮かべた。
「助かります。この村……市の、市長さんなんですね」
先ほどエルミダという少女がこの男のことを「市長様」と呼んでいた。この辺りでは彼が権力者だ。故に、村の娘をたしなめ、宿に口利きも可能なのであろう。
「村で結構ですよ。市と呼ぶにはあまりにもお粗末だ……人口の少ない弱小集落です。ですので、貴女のような客人が来ることは喜ばしいのです」
市長は人の良い笑みを浮かべ、薄暗い集落の道を進んだ。辺りを照らすのは民家から漏れるかすかな明かりのみである。ドロシーは彼から離れてしまわないよう、後を追った。
「大した宿などございませんが、是非ゆっくりしていってください。間違っても、野宿などなさらぬよう――」
市長は含みのある言い方をする。ドロシーは後ろから彼の様子を伺いながら、首を傾げた。
「……どうしてです?」
市長は振り返りもせず、短く答えた。
「クロウがいるからです」
「クロウ……?」
男はじゃりじゃりと音をたてて土を踏みしめながら、集落の中を進んでいく。奥に木製の小さな看板が見えた。『宿』の文字が暗がりの中に浮かび上がって見える。一見ただの民家のように見えるが、あれがこの村の民宿なのであろう。
「この集落にはかつて、魔女が住んでいました。魔女は使い魔を用いて我々を苦しめた。山の奥には、使い魔が今も磔にされている。――野宿など、危ういことはしない方がいい」
「使い魔……」
「クロウというのは、使い魔の名だ。くれぐれも近づかないように」
使い魔という聞き慣れない言葉に、ドロシーは眉根を寄せる。聞き慣れない言葉だが、市長がそれを好ましく思っていないのは明らかであった。彼は『宿』と書かれた看板の前でくるりとこちらを振り返って、声色を一変させる。
「集落の中は安全です。――どうぞ、ごゆっくり」
それ以上深く掘り下げることもできず、ドロシーはこくりと頷いた。夜はまだ始まったばかりである。