4、ドロシーは西へ向かう
巨犬の背に揺られ、家まではさほど時間を要さなかった。普段の通学では一時間近くかかる道程を、数十分で駆け抜けた。障害物のない空は、他のどのルートより近道だ。
集合住宅用のビルが乱立するベッドタウンの中に、少女の住まいもある。生きた木をビルと合体させる技術が開発されて以来、巨木と共生するのがこの国の流行りであった。少女の住まうビルも、巨大な樹木に守られている。
『着いたぞ』
そう言って巨犬が少女を下ろしたのは、少女の住まう建物と隣接する高層住宅の屋上であった。少女の住まいの前に直接降りなかったことには理由がある。屋上からフェンス越しに下を見やると、道に大勢の人間が集まっていた。皆、緑のベストを纏っており、特殊部隊の隊員であることが一目瞭然であった。
『情報が早いな……先回りされちまった』
高層住宅の入り口で、誰かを待ち伏せしている。彼らが少女を探しているのは明白であった。逃げ出した少女の行く先が此処であることは、彼らにも予測済みだったのである。
少女はフェンスを掴み、屋上の上に座り込んだ。全身から力が抜け、立てそうにない。
(なんだかもう、疲れた)
長時間走り続けた後のような倦怠感に見舞われた。座り込んでしまったら最後、立ち上がる気力はなかった。
朝起きて、ご飯を食べて、登校する。学校では友達と他愛のない話をして、授業を受け、宿題をもらって帰宅する。家で宿題をしながらお菓子を食べて、夕飯の時間になって、風呂に入って寝る。これからもずっと、そんな日常を過ごすつもりであった。だが、それはもう適わない。学校へ行くことも、家に帰ることもできず、少女は逃げ場を失った。
『ドロシー、どうするよ?』
いつの間にか子猫ほどの大きさまで縮んだ獣が問いかけてきた。少女はフェンスを掴んでしゃがみこんだまま、何も答えない。この後どうするかなんて、思いつくはずもなかった。のこのこ出て行って見つかれば、特殊部隊に掴まる。魔女と判定されればどんな仕打ちを受けるかわからない。それを避けるには逃げるしかないが、どこへ逃げればいいのか、皆目見当も付かない。八方塞がりであった。
『……おいらはさぁ、とりあえず西に行ってみるのはどうかなって思うよ』
少女の傍にちょこんと座り込んで、獣は尾をぱたりと振った。少女は落ちてくる赤毛を払いのける気力もなく、俯いたまま小声で呟く。
「西の魔女とか言うのを……殺しに行けって言うの?」
西の魔女を殺してほしい。正体不明の覆面の男にそう告げられたのは、つい数十分前のことだ。つい最近のことなのに、現実味がない。全ては夢の中の出来事のようだ。
『殺す必要はないさ。西の魔女とか言うのが本当に存在するのかもわかんねえ。おいらだって、あんな薄気味悪い奴の話を信じたわけじゃねえんだ。だけど、いつまでも此処にいるわけにいかないだろ?』
小犬の言うことも正論であった。いつまでも此処にいるわけにはいかない。いつ、特殊部隊が此処に少女がいると気付くともわからないし、よしんば気付かれなかったとしても、家に帰れない以上、此処で野垂れ死にするわけにもいかない。
とは言え、そう簡単に現状を受け入れることもできなかった。全ては悪い夢なのではないかと思う。
「私は……普通の女の子の生活がしたかった」
『んなこたぁ、わかってるよ。でももう無理だろ。お前が捕まっちまったら、家族だって魔女の家族っていうレッテルを貼られる。その前に行こうぜ』
「逃げたら、解決するの?」
『逃げるんじゃねえ。解決の糸口を探しにいくのさ。西に行けば何かヒントがあるかもしれないぜ。少なくともあの薄気味悪い野郎を捕まえて、もう少し詳しく事情を聞かねえとな』
ドロシーは首を横に振った。嫌だと無言で訴える。他に為す術のないことは理解しているのだが、前向きに受け入れる余裕もなかった。
膝を付いて下を向いたまま、ドロシーは動けない。そんな少女を見上げ、小犬はため息を落とした。
『いい加減、認めようぜ? お前は普通じゃないんだよ』
普通じゃない、という言葉が胸に突き刺さる。少女はフェンスを握りしめ、唇を噛んだ。
自分が他とは違うことは、前から薄々感付いてはいたのだ。それでも異端だと思われたくなくて、人々の輪を乱したくなくて、他人に合わせる努力をしてきたつもりであった。しかし、それも全て無駄なあがきだったというのか。
『そんな顔すんなよ。お前が悪いって言ってるわけじゃない』
自分がどんな顔をしているのか、自分ではわからない。小型獣が困ったように笑うので、変な顔をしているのだろう。
『大丈夫、どこに行ったって、おいらが一緒だよ。ずっと傍に付いててやるからさ』
そう言って、獣は小さな頭を少女のふとももに擦り付けてきた。少女は無言で彼の頭を撫でて、それに応える。腹の底に力を込めて、息を止めた。気張らないと、目から熱い物が溢れ出してしまう気がした。
さんさんと照り付けてくる太陽が向かいのビルの窓に反射して眩しい。ビル自体が緑色に発光しているかのようだった。その神々しい輝きは、エメラルドシティという俗名に相応しい。
齢十七の若き少女は、この日を境に『普通』を捨てることになった。明確な目的は自分でもわからない。少女ドロシーは誰にも見えない幻獣を連れて、西へと旅立った。エメラルドシティこと首都スマラカタとはしばらくの別れとなった。