2、ドロシーと魔女狩り
『魔女』が首都にも出現したという報道は首都スカラマタを震撼させ、国の中枢機能にも多大なる影響を与えた。
まず、翌日から多くの交通機関が運転を見合わせた。首都のどこに魔女が出現するかわからず、政府による運転停止命令が下ったためだ。移動手段を失った住民の多くは自分の家に籠るしかなかった。多くの中枢企業が営業を停止し、首都は機能を失った。食料の販売も一時なくなり、人々はパニックに陥った。このまま食料が尽きるまで何もしないわけにはいかないと、強奪がたびたび起こるようになり、ようやく政府は首都機能を復旧させた。
限られた人間のみ交通機関を使えるようになり、最低限の流通が再開し、食料が手に入るようになると徐々に混乱も収まった。それから首都が元の機能を取り戻すまでにはさらなる時間を要した。
少女の通う学校も、当然しばらく休校となった。再び授業が開始されたのは、約一月後のことである。それでも中には混乱や魔女を恐れて子供を休ませる親もいたが、ドロシーは規則に従い出校した。親も「気を付けて」と言うだけで、止めはしなかった。
(たった一月外を歩かなかっただけなのに、まるで景色が変わったみたいだ)
一月ぶりの通学路を辿りながら、少女は妙な違和感を抱いていた。
そびえ立つ巨大なビル群と、街を彩る植物たち。石で整備された道を人々が忙しく行き交い、時折街中にあるディスプレイの前で足を止めては新しい情報に耳を研ぎ澄ませていた。忙しない光景は一月前と何ら変わらぬはずなのに、前と違うと感じるのは何故なのだろう。学校へと続く緩やかな坂道を登りなら、少女は街を観察していた。
『たぶん、おいらが思うに、人の表情が変わったんだよ』
校則で定められた黒のソックスに茶色の革靴、その足下を小股でちょこちょこ着いてくるのは少女にしか見えない小型獣だ。向かいから歩いてくる通行人と接触することのないよう縮こまり、今は革靴より少し背の高い子犬の姿をしている。
『前はみんな疲れた顔して歩いてたけど、今は違う。周囲に殺気を散らしながら歩いてるぜ』
人目のある所で自分にしか見えない獣と会話をするつもりはなく、少女は口をつぐむ。口をつぐむが、心の中では「なるほど、そうかもしれない」と獣の意見に賛同していた。
すれ違う人が、自分を追い越していく人が、皆殺気立っている。いつどこで災厄に巻き込まれるかわからないと、怯えているのだろう。
『首都に魔女が出たとは言うけど、捕まったって報道がねえからなぁ。みんなどこかに魔女がいると思ってんのさ。尤も、魔女の被害も報告されてねえけどな』
軽い口調で言って、小型獣は向かってくるサラリーマンの足をひょいと避けた。転がっている空き瓶を乗り越え、早歩きで少女に付いてくる。
休校になった一月の間、メディアは事件の進展を報道しなかった。魔女が首都に出現したと言ったきり、どうなったのか続きを発表しない。報道されるのは、魔女の影響で混乱する都市の機能のことばかりだ。人々の心には依然、不安が宿っている。
(学校は、大丈夫なのかしら……)
このような状況にも関わらず、学校が授業を再開した理由が少女にはわからない。学校側には学校なりの判断の理由があったのだろうが、納得はできないままであった。
そんなことを考えながら坂を上りきると、校舎の正門が見えてくる。黒金色の門の向こうに、白い石段が続いていた。柏の木のアーチの下、段を昇っていくと校舎に辿り着く。いつもなら、そこから多くの生徒が吸い込まれていくのだが、今日はいつもと様相が異なっていた。
(あれ……?)
少女はきょとんとする。
校舎から続く石段に、多くの女学生が並んでいた。誰も段を登ろうとはせず、行儀良く列を成している。列の先頭が進むと、一段ずつ列が進んで上へと登った。不思議な光景である。
「……おはよう」
事態が飲み込めないまま、ドロシーも列の最後尾に並んだ。恐る恐る前に並んでいる女学生に声をかけてみると、女学生はこちらを振り向いて「あ」と微笑んだ。
「おはよう、ドロシー」
互いに名前と顔は知っているが、さして親しくもない間柄の女学生だ。とは言え、挨拶をすれば挨拶を返してくれるくらいには親しい。
「おはよ、これ、何の列……? なにかあったの?」
「私もよくわからないの。来たらみんなが並んでて、並ばないと入っちゃ駄目だって言われたから……」
誰に言われたのか、と疑問に思いながら列の前の方を見ると、石段の上部に教員の姿が見える。教員たちは校舎の前に生徒たちを整列させて、ゆっくり列を前へと進ませていた。最前列の様子はよく見えないが、まるで一人一人生徒を検問しているかのようである。
ドロシーが背伸びをして前方の様子を伺っている間にも、学生が次々に登校してくるため、列は長く伸びていった。正門の外へと続き、最後尾は公道へとはみ出している。
『おいら、前まで行って何が起きてるのか見てこようか?』
足元から囁かれる言葉に対し、少女は緩やかに首を振った。大勢の人間がいる環境で、なるべく獣には自分の傍から離れて欲しくない。自分の知らない場所で彼が騒ぎなど起こせば、一大事だ。すると不意に、前の前辺りに並んでいる女子学生たちの輪からひそひそ声が漏れ出して聞こえた。
「なんか、魔女検査されてるらしいよ」
「魔女検査……?」
「生徒の中に魔女がいないかどうか、だってさ」
ドロシーはぎょっとして顔を強張らせた。心臓が飛び跳ね、己の鼓動の音が耳の奥の方から響いてくるようだ。
「まさか……うちの学校に魔女がいるってこと?」
「さあ、知らないけど。一応、ってことじゃん? だってまだ首都に出た魔女って捕まってないんでしょ?」
前に並ぶ女子学生たちは、不安そうな表情を浮かべている。だがそれは、学生の中に魔女が紛れ込んでいることへの不安だ。よもや自分が魔女だとは夢にも思ってもいないのだろう。検査に対する恐怖は見えなかった。自分が普通の人間であるという自信さえあれば、魔女検査などただの形だけの検問だ。恐れることはない。だが、ドロシーにはその自信がなかった。
頭の先から血の気の引いていくような感覚がし、目がちかちかと眩む。貧血で倒れてしまいそうだ。
『ドロシー……どうする?』
他の誰にも聞こえない声が聞こえる。それこそ、少女が普通ではないことの証だ。ドロシーはよろめきそうになりながらも石段を後ろへ一つ二つと下った。
「ドロシー、どうかしたの?」
前に並ぶ顔見知りの女子生徒が問いかけてくる。少女は震える唇を手のひらで隠し、なるべく平静を保ちながら、叫んだ。
「なんか、具合悪くなっちゃった……久しぶりに登校したからかも」
「え、大丈夫? 保健室行く?」
「この列並ばないと校舎入れないんだよね。……私、一旦帰る」
不自然であることは否めなかった。前の女子学生も不思議そうな表情を浮かべている。それでも此処に残って検査を受ける勇気は微塵もなく、ドロシーは石段を転がるように逃げ出した。列を成している女子学生の何人かがこちらを一瞥するが、すぐに興味をなくして友人たちとの会話に励む。誰にも止められなかったことに心底安堵しながら、少女は正門を潜り抜けて公道へと飛び出した。
道に出ると、自分と同じ黒のセーターと灰色のスカートを履いた女子学生が幾人もこちらに向かってくるのが見えた。皆学校を目指しているのだから、当然と言えば当然だ。
少女は同じ制服の生徒たちを避けて、通学路ではない方角へと走った。通学路に指定されていない道は薄暗い裏道だ。ビルとビルに挟まれた味気ない隙間を駆け抜けて行く。
『突然休校が解除されたと思ったら、なんのこっちゃねえ。これも魔女駆りの一貫だったんだな』
少女の後ろから付いてくる小型獣が呟いた。確かに、まだ『魔女』の捕獲が確認されていないというのに休校が解除されるのは妙だと思っていたのだ。だが、都会の街のどこかに隠れてしまった魔女を炙り出すためだったのだとすれば頷ける。
ドロシーは誰にも見つからないことを願いながら、人気のない場所を目指して一目散に走り続けた。