1、ドロシーと幻獣トート
首都スマラカタにこの国の中枢機関は集中している。行政機関や金融機関、情報システムの中枢や流通の中心も全てこの街の中だ。科学の進歩によって発展した首都スマラカタであるが、青々と生い茂る草木を迫害することはなかった。巨大な森の中に作られたかのような近代都市である。遠方からこの街を眺めると、まるで翡翠色の宝玉のようにも見えることから、エメラルドシティとも呼ばれた。
少女ドロシーの家は、翡翠色の首都の住宅地にある。天まで届きそうな巨木に支えられた高層ビルには何百という人間が住んでいた。少女の住居もその居住スペースの中にあった。
巨木の根元からエレベーターに乗り込み、上階を目指す。枝の上をスライドするようにエレベーターは上階へと昇って行き、指定した場所で停止した。すれ違う集合住宅の住人に会釈をし、少女は蔦の葉で緑に彩られた扉に手をあてた。掌紋の認証で自動的に解錠される。この扉の向こう側が、少女の家であった。
「ただいま」
玄関から奥の方へ声をかけるが、返答はない。奥の方からは何がしか番組の映音が漏れてきており、無人というわけではなさそうだった。テレビを見るのに夢中になっており、少女が帰ってきたことにも気付いていないのだろう。
わざわざ再度声をかけることはせず、少女は自室の戸を開いた。ベッドが一つとデスクが一つ、箪笥が一つ置かれているだけの狭い部屋である。壁掛けのディスプレイも設置されていたが、少女が自ら電源を入れることは滅多になかった。部屋の中にいる時くらい、世間の情報に縛られたくはない。自由な時間が欲しかった。
『ふうーやっと自由になれるぜ』
少女の足元を小型獣がすり抜けていく。茶色の毛むくじゃらは部屋に入るなり大きく伸びをすると、そのまま大きく膨らんでいった。やがて熊くらいの大きさにまで膨らんだところでぶるぶると身体を震わせる。茶色い毛並みの犬のような外見をしていることに変わりはないが、犬と呼ぶにはあまりにも巨大だ。巨犬は我物顔で少女のベッドの上に乗るとうつ伏せに寝そべった。いつものことであり、少女は気にも留めない。
「……あら? ドロシー、帰ってたの?」
ふと、自室の前を通り過ぎた女性が中を覗いて声をかけてきた。両手いっぱいの洗濯物を抱えた女は、ドロシーの母であった。断りもせず少女の部屋の中に入り込んできて、ディスプレイのスイッチを勝手に入れる。ドロシーが決して電源を入れないディスプレイは久々に発光し、報道番組を映し出した。
「ちゃんと見ときなさい。ついにスマラカタにも魔女が出たんですって。怖いわねぇ」
母はまるで他人事のようにしみじみと呟いて、洗濯物を抱えたまま部屋を出て行った。ベッドから垂れた巨犬の尾を危うく踏みそうになるが、巨犬自ら尾を振って避ける。母や父にも犬の姿は見えなかった。この獣は少女の目にしか映らない。
『母ちゃん、本当に心配してんのかな。魔女より洗濯の方が大事っぽいけど』
一方、獣には、少女の目で見る世界の全てが見えている。そして時折、少女の心を代弁するかのような台詞を呟いた。
「……魔女が街に出たって言われても、現実感がないんじゃないかしら」
少女はデスクの椅子を引いて腰かけた。ディスプレイの右端には『ついに首都にも魔女の影!』と赤字で綴られている。スマラカタの住人の声や、専門家の声が順々に放映された。
(魔女……)
少女はデスクの上に頬杖をつき、ぼんやりとディスプレイを眺めた。
『魔女』の存在が大々的にメディアで報じられるようになったのはここ数年のことである。最初は魔法を使う女の存在など誰も信じていなかったが、人智を超える災いが連続して勃発すると、次第に人々もその存在を認めるようになった。これは人間の仕業ではないと認めざるを得なくなったのだ。
だが、具体的に『魔女』がどういう存在なのか、その真実は誰も知らない。
ここ数年の間に突然報じられるようになった、その前から、『魔女』は存在していたのだろうか。もし存在していたのだとしたら、どうして近年になって突然目立つ動きをするようになったのだろう。あるいは近年になって現れたのだとしたら、どこから何の目的でこの国にやってきたのか。
『魔女』は具体的にどういう人間のことを指すのか、あるいは人間ではないのか。魔法を使う女だとメディアはこぞって報じるが、それ以上の情報はない。普通の人間のふりをして人里に紛れているのだという人もいれば、人気のない場所に隠れているという人もいる。あるいは人間の女の形をしているのはカモフラージュで、本当は人などではない化け物なのだという人もいた。その真の姿を見たことがある人間は限られている。政府から派遣された魔女退治のための特殊部隊員のみだ。
そして『魔女』の持つ力とは何なのだろう。魔女は魔法を使うとメディアは簡単に報じるが、具体的に何ができるのか、わからない。何もないところから火をつけるらしいという噂や、雷を落とすらしいという噂、人や物を消してしまうらしいという話も聞いたことがあるし、逆に生き物を作り出すことができるらしいという話も聞いた。しかしどれもこれも一貫性はなく、科学では説明の出来ないことを全て魔法と呼んでいるようにも聞こえた。
『魔女』について、まだ報じられていない事実が多すぎる。現状の報道は、人々の不安を煽るのみであった。
(魔女って……どういう女のことを言うんだろう)
少女は三つ編みを解きながらディスプレイを見つめる。すると、そんな少女の後ろから、巨犬が声をかけてきた。
『今、お前が何を考えているか当ててやろうか……もしかして自分は魔女なんじゃないかしらー、って思っているところ、だな?』
少女にしか見えない巨犬は、少女の心を読む。あるいはこれは少女の妄想が生み出した産物なのかもしれない。そう思ってしまうくらい、自分でも触れたくない己の心の内部へと無遠慮に踏み込んでくるのが悩みであった。
「……あたしは、魔女じゃない。だって、魔法なんて使えないし」
『まだ使ったことがないだけなんじゃねえの。あるいは、使っているが、しょうもない魔法ばっかりで、気付いてねえだけとかさ』
「私が魔法を使うっていうの? 火をつけたり? 人を消しちゃったり?」
『それは噂だろ。実際にはもっとしょうもねえことかもしれないぜ? 隣に座ってるやつにくしゃみさせるとかさー』
巨犬の言うことは、ふざけているようで、正論であった。『魔女』の定義がない以上、自分が実は『魔女』である可能性も否めない。いや、ドロシーに限ったことではない。全ての女たちが、魔女である可能性を秘めている。
そのため、人々は異端であることを嫌うのだ。他の人間と同じように行動し、同じように振る舞う。自分が普通であることを全身で必死であった。さしあたって、ドロシーもそうだ。自分は異端ではないと懸命に世間に訴えている。
『なんにせよ、ドロシー。お前は変だと思うぜ。だっておいらと会話できるんだもの』
確かにそれは、紛れもなく、少女の異端な性質であった。
この犬は少女が物心ついた頃にはすでに少女の傍にいた。少女の傍に寄り添い、少女の心を汲み取ってくれる。少女の心に呼応するかのように姿を変えて、小型犬にも化け物にも変化した。しかしその姿は少女にしか見えない。親にも犬のことは打ち明けられず、昔から少女の秘密であった。下手に騒いで異端児だと思われたくはなかった。
「……貴方は、私の妄想の産物なんじゃないの」
『おうおう。妄想かどうか試してみるかい? そこのディスプレイをかち割ってやろうか』
何度も、この犬は自分の空想ではないかと疑ったことはある。だが困ったことに、この犬は他の誰にも見えないくせに、物理的に物や人に触れることができるのだ。そのせいで騒ぎを起こしたこともある。少女の傍にあった精密機器にヒビが入って勝手に割れたことや、少女をからかっていた友達が突如腕に傷を負ったことなど、奇怪な事件がたびたびあった。当時はまだ『魔女』の存在は知られていなかったため、大人たちは偶然だろうと深く考えはしなかった。もしも『魔女』が報じられた後であったなら、少女は異端児として扱われたかもしれない。
「わかってるよ。あんたが実在してることくらい……お願いだから大人しくしてて」
『わかりゃいいさ。仲良くしようぜ? お前のこと本当にわかってやれるのはおいらしかいないんだから』
小憎らしい巨犬はそう言って、ベッドから降りてくる。のしのしとでかい前足で部屋の絨毯を踏みつけ少女の座る椅子の傍にやってきた。それと同時に部屋の前を母が通り抜け、開け放しにされた扉から少女の部屋を覗き込んでくる。
「ドロシー、あと少しでご飯できるから、こっちきて早く食べちゃいなさい」
母は少女の傍に寄り添う巨犬には目もくれない。少女も巨犬など存在していないかのように振る舞った。
「わかった。すぐ行く」
母は面倒見が良く、家事全般をこなしながら家族を支える理想的な母親だ。少女も聞き分けの良いできた娘であった。父も家族のために働く理想的な父親であり、少女の家族は絵に描いたような理想の家族であった。が、理想的であるがゆえに、歪に思える時もある。
母は理想的な母親を演じているのではないか、父は理想的な父親を演じているのではないか。家族だけではない。友達は友達の役を演じているのではないか、教師は教師役として自分と接しているのではないか。
この世の全ての人間が、演者のように見えることがあった。そして少女自身もまた、与えられた役をこなしている。理想の家族に恵まれ、理想の友達と一緒に理想の学園生活を過ごす『普通』の女子学生だ。
『なあ? お前のことわかってるのは、おいらだけだろう?』
巨犬が鼻先を少女の背中に押し付けてくる。少女は巨犬の太い首に腕を巻き付けて顎を掻いてやった。
「あんたは私の心を読むからね……それだけのことよ」
巨犬はふがふがと鼻を鳴らした。獰猛そうな鋭い金色の瞳でこちらを見上げてくる。
『あんた、じゃなくて、名前で呼んでくれていいんだぜ? トートってさ。ドロシーが付けてくれたんだろ』
少女は片手で巨犬の目を塞ぎ、椅子から立ち上がった。リビングから夕飯の匂いが漂ってくる。そろそろ理想的な娘を演じるために、リビングへ移動しなくてはならない。
「私が名付けたんじゃないわ。あんたが自分で名乗ったのよ」
『そうだっけ? まあどっちでもいいけどね』
巨犬は欠伸をしてその場に寝そべった。リビングまで付いてくる気はないらしい。そのうち気が向けばこちらにやってくるだろう。
少女の部屋では付けっぱなしにされた壁掛けのディスプレイが映像を流し続けていた。映し出されているのはこの国の首相だ。度重なる『魔女』の出現にどう対応する予定なのか、会見を開いている。
『国民の安全を守ることが政府の役目であり、魔女による極めて残酷な行為を許すことはできません。よって、特殊部隊を再編し、ますます魔女狩りに力を注ぎ、国の安全を守っていく所存であります』
首相の言葉は国民の心にどう響いているのだろうか。無力な少女の知るところではない。
少女にできることは、母の作った料理を食し、後片付けを手伝い、理想の娘を演じることだけだ。ただそれだけであった。