第二話 「これこそが<炎羽>であると」
第二話 「これこそが<炎羽>であると」
【坂本霞】
非現実かと見紛うかのようなそれは、しかし淡い期待に反して何よりも濃い「絶望」という名を持つ現実だった。
『GRY……』『GR、』『GRRR』
異形が唸る。狼などと形容するには生易しい、得体の知れないそれらはぎらりとあたしたちに視線を寄越す。まるで品定めでもするかのようなそれに思わず産毛が立ち、死臭が鼻先で薫るかのような錯覚すら覚えてしまう。
そして果たして、検分の結果――――緊張の結果。彼らが第一の獲物として見繕ったのは――――凍華さんだった。
『GRRAAAッ!!』
「凍華さんッ!」「狐塚ッ……!」
あたしと詩音が同時に叫ぶ。しかしこの森の捕食者であろう異形たちは、その声すらも薙ぎ払うように凍華さんへと迫る。彼女はといえば反応できるはずがない、硬直したままで――――全てがコマ送りであるかのように奇妙にゆっくりと進む中、ついに凍華さんの肌にその汚れた爪牙が迫
ドパァアンッ!!
『GRッ、……!?』
「舐めた真似しくさってんじゃねぇぞ化物共ッ! 女共に手ェ出すってんなら、まずは俺を倒してからが筋だろうがッ!!」
――――迫ることは、なかった。
大喝が森の中にこだまし、腰の入った左ストレートを横っ面にまともに食らった異形が吹っ飛んでは落ちる音が響く。そして、その源はといえば。
「拓海、」
「大丈夫っすか」
硬直の中で唯一動いた、岡本拓海その人だった。鍛え上げた拳を一切の躊躇いもなく振り抜いたらしい体制をようやく戻し、そして改めて彼は目の前の異形たちに向き直った。
「詩音さん、二人を連れてとりあえず逃げてください。ここは俺が止めるんで」
「たっくん!」
「霞、いいから行け。この中で少なくとも動けるのは俺くらいだろ」
それは確かにそうだ。およそ「戦闘経験」に近いものを一番積んだ者はといえば、ダントツでたっくんしかいない。しかしその横顔はといえば決して余裕があるようには思えず、殿を任せるには戸惑いが多すぎた。
しかしその戸惑いをこそ見抜かれたか。詩音が「坂本、狐塚、いくぞッ!」とすぐさま踵を返し、凍華さんが「すまない拓海!」と続くのに、あたしは出遅れてしまった。躊躇いが足を鈍らせ、たっくんを注意すべき敵と見なしたであろう異形たちが連係を見せる。即ち二体がたっくんを封じに、――――一体があたしに。
「ッ……!」
「霞ッ!」
組み合うたっくんの声が耳朶を叩く。森の中に足を踏み入れつつあった詩音と凍華さんが何かを叫びかけるが、しかしそれは届かない。体が固まる。足を動かすことができない。異形のたわめた足が矢の如く放たれ、重力に引かれて落ちてくる。その過程をまじまじと見せつけるかのように、一秒一秒が何倍にも伸びたかのように映像が遅れて見える。
影が降り落ち、爪牙が迫る。死臭が腐臭が鼻腔を突き、麻痺した思考の中で絶望が再び脳裏を過った。背筋を流れ落ちる冷や汗の感覚も最早無く、しかしそれでも確実に迫り来る「死」があたしの眼前についに現れ――――
『こんなとこで死ぬような器じゃねえだろ。いいから使え、アタシの力』
――――声が。
響いて――――
体の奥底から何かが溢れてくる。そう、さながら奥底に無理矢理封じ込められていた蒸気が、ついにようやく解き放たれ息吹となって吹き上げてくるかのように。
そして気付けば、目の前で火花が爆発していた。
『GYAOッ!!』
異形が目に見えて怯む。あたしの眼前、爆発するだけでなく燃え続けるたった一つの小さな炎に、捕食者が怯えている。
そうだ、それこそが<炎羽>だ。それこそがお前だ。そう囁く声が聞こえた気がして、しかしそれは気のせいだったかのように轟轟と炎燃え盛る音に掻き消される。
ぐるぐると、異形が口惜しげに牙を見せる。つい一瞬前までは喰らわれるだけが能の哀れな獲物だった肉が、突如として自らの天敵である炎を持ち出して反逆してきたのだから、その悔しさといえばひとしおであろう。しかしそれを汲めど、同情する気はさらさらない。
本能が理解する。本能が実感する。この炎はあたしの能力の産物であると。これこそが<炎羽>であると。さらばどう御せばいいかも必然、あたしの本能の中にあった。
右腕を前に、炎に重ねる。それはあたしの中にある“法則”、魔法によって編まれたものであるからして、使用者であるあたしに危害を加えることは一切ない。そうして体が教えるようにごく自然に魔力をそこに注ぎ込み、――――放つ。
「<華筵封神>――――<一式・火雨>ッ!!」
名はこそ体を表す。その通りに炎は針の如き一本の矢と転じ、浮かび上がった魔法陣から空を裂いて異形へとひた走る。
轟ッ!!
『GYAッ』
悲鳴が続く。異形の腕に突き刺さった火矢は、すぐに元の形を取り戻して瞬く間にその全身を覆い尽くす。悲鳴は高く高く、耳障りな断末魔と化してすぐ。――――そして、絶える。
どう、と異形の体が草原の中に倒れ込む。肉が焼ければ生じるはずの不快な臭いはせず、すぐさまその死体は塵となって崩れ去った。
そして、それを見た残りの二匹はといえば。
『GRRRR……』『GRRッ』
苦々しげに――――憎々しげにあたしを見つめたのち、たっくんから飛び退いて驚くべき速度で森の奥へと去っていった。
そして静寂が、再び満ちる。
「……はぁッ、……」
「坂本、岡本!」
詩音と凍華さんが駆け寄るのも間に合わず、あたしはぺたんとへたりこんでしまった。
まるで夢のよう。されどあたしが今行った一連の全ては紛れもなく現実で――――そうでなくば、既にあたしの意識など噛み千切られていたのだからそれは当然で。
しかしそれでも、信じられなかった。炎を呼んで、魔力を込めて、魔法を編んで、火矢を放つ。まるでゲームの中の主人公が行うプロセスを、単なる一般人であるあたしがいとも容易く行えてしまったことが。コンマ一秒でさえ間に合わなければ、降りかかる「死」に成す術なく飲み込まれていたであろうことが。
「大丈夫かい、霞。……立てる?」
凍華さんがしゃがみこみ、心配そうな顔であたしを覗き込む。その時のあたしの顔は、一体どんな風だっただろうか。彼女の表情から察するに、ろくなものではなかっただろうことは想像に難くない。それでも不思議と涙は出ず、「うん」と頷くに留まった。
凍華さんの手を借りてよたよたと立ち上がれば、たっくんも詩音に手を貸され起き上がるところだった。彼も二つの巨体にのしかかられあわや絶体絶命の窮地だったというのに、今では気丈にも詩音に言葉を返しているところにあたしは「凄いなあ」と漠然と思ってしまうのだった。
そうして、全員が今一度集まる。方針としてまとめられたのは当然、
「早くこの森を出よう」
詩音の言葉に満場一致。これ以上この場に留まっていたとして、またあの異形の二匹が戻ってくるともわからない。幸い木々の隙間にはかろうじて民家らしきものが見えるし、今はとにかくこの場から離れるのが最善だったし――――あたしとしても、早くこの場から離れたかった。
何故か使えてしまった力。それを次、あたしの意志を以て御せるかどうか、確固たる自信はなかったから。
――――森が開ける。そこには見渡す限りの農地といくつかの民家、そして遠くに城壁が見えた。
第二話 了