第零話
第零話 無題、開幕前のささやかなひと時 あるいは「嵐の前の静けさ」
【坂本霞】
――――わいわいがやがやと、騒々しい声が一階から聞こえる。
時計の針は午後八時前にさしかかり、ぎりぎりといったところだった。部屋で電話していたのだが、思っていたよりも長話をしてしまっていたらしい。わたわたと慌てて二階の自室から飛び出し、階段を駆け下りて共有スペースに飛び込む。
「遅ェぞ霞、ギリギリじゃねェか」
「ギリでもなんでも間に合ったからいいじゃないですかー満さん」
かけられた声にしれっと返しつつ、いくつか空いた座布団のうちの一つ、定位置にすとんと腰を下ろす。一息ついたところで、厨房から無精髭のダサTが顔を覗かせ、「霞」とすかさずあたしの名前を呼んできた。
この「ゆかり荘」というシェアハウスには、あたし含め十一人の同居人がいる。十一人、それもそのうちの九人が男ともなれば毎回の食事の量も尋常ではない。毎日宴会のようになるのが常で、それだけ料理があればうちの料理長一人では捌ききれないのは自明であり。
「なーに寛いでんだ働けバイト娘、飯に爪楊枝ぶっ刺されたくなかったらとっとと運ぶんだよ」
えーっというあたしの抗議も意に介さず、言うだけ言ってさっと顔を引っ込めてしまったのが、月ノ宮流沙。二十一歳にしてこのゆかり荘の厨房を預かるほか、小さいながらも学生や社会人に人気の小さな飲食店を営む人である。あたしの雇用主でもあるが、その日なにがしかの「粗相」を働いた人間の食事に爪楊枝をぶっ刺す権限を管理人直々に与えられたこの荘の権力者でもある。唯一の欠点といえば身なりに死ぬほど気を遣わないところくらいか。いくら荘の中で身内しかいないからといって、白地に「誠意」と書道文字ででかでかと書かれたTシャツを恥ずかしげもなく着こなすのは流石にどうかと思う。
ぶつくさ言いながらもとりあえずは動く。雇用主の言うことには従うが吉、それはあたしがこのバイト先に務めて一番最初に学んだことだった。
ふと真向い、あたしの前で暇そうにしているガタイの良い兄ちゃんと目が合う。彼はあからさまに「しまった」という顔をしたものの、もう遅い。
「たっくんお暇でしょ、手伝って?」
にこっと先手を打つ。はあ~と深いため息をついた彼は、しかし渋々ながらもその大柄な体を起き上がらせる。
「なんで俺……まあいいけどよ、それならあそこで話してるゆっきーか唯人あたりを使えばいいじゃねーか」
「んー、目があったから? いいじゃんいいじゃん、可愛い妹の頼みでしょー」
お前みたいな妹絶対嫌だよ、と言う割になんだかんだと手伝ってくれるのが岡本拓海、驚くなかれ現役K1世界王者である。その地位を裏付けるように荘の中でも一番立派な体格を持ち、煽られた際の沸点も低い。が、それはあくまで見た目であり、実際はあたしの頼みを聞いてくれたりと年下に優しい人なのだった。何故世界王者とかいうすさまじい人がこんなところにいるのかというのは謎ではあるが、面倒見の良い人だというのは間違いない。
「そういや霞、ゆっきーが彼女出来るかもしれないとか言ってたぞ」
「えっうっそ雪さんそれ本当ですか」
「本当も本当、こないだかすみんが紹介してくれた子。今度こそイケそうな気がする、いやイケメンの俺ならきっとイケる」
「って雪さん言ってるけどかすみんどうする、僕『また三ヶ月で別れる』に賭けるよ」
「賭けが成り立たないじゃないですかー唯人さん、あたしだってそっちに賭けますよ」
「お前らぶっ飛ばすぞ」
「やれるもんならやってみろバーカバーカあっうそやめッごめんなさい調子乗りました痛い痛いイタッイタタタタタ」
雪さんの殺気から逃れるようにして厨房に引っ込み、再び料理を手に携えて戻ってくればその被害を一人で受け止めていたのは唯人さんだった。この二人は同じ大学の先輩で、己をイケメンと称して憚らないのが雨宮雪路、あたしの二個上で、もう一人が兎川唯人、一つ上である。雪さんこと雪路さんは見た目は確かにイケメンを自称するだけあって格好良い部類だとは思うし、医学部というスペックもあいまってモテるにはモテる。しかし肝心の付き合った後がなかなかに続かず、大抵三ヶ月ほどで別れてしまうのだった。一方唯人さんのほうはと言うと、駅伝部所属のスポーツマンと言えば聞こえだけは良いが、見た目を服装で完璧にぶち壊しにしているものだからもうなんとも言いようがない。素材は良いと思うのだが。
まあ、こんな会話をしながらもなんだかんだと縁が続いていることからして、二人とも良い人だということには変わりがない。学部やサークルこそ違えど、一番下の後輩であるあたしに何かと世話を焼いてくれることからもそれは察せられることだろう。二人のレポートの誤字脱字日本語の手直しはもっぱら文学部のあたしの管轄なので、世話という点ではあたしもしてはいると思うからイーブンかもしれないが。
雪さん渾身の関節技が唯人さんにキマっている。「腕がもげるもげる走れなくなるゥ!!」と微妙に的外れの絶叫をあげているが、正直そろそろうるさい。まあこのゆかり荘がうるさいのは常であるが、流石にそろそろ幾人かの堪忍袋の緒が切れそうなのを察し、あたしはそろーりとある人の方を見やった。
「……雪路くん、唯人くん」
じゃれつく二人の背後に回ったその人は、静かな呼びかけと共に嘆息を降らせた。不穏な響きにびくりと二人の身体が硬直する。この先の展開はあまりにもわかりやすく火を見るよりも明らか。心の中で南無三を唱えつつ、あたしはすっと厨房へと身を隠した。
「うるっせえッ!」
「「いっだあぁああッ!!」」
殴打の音が二つ、悲鳴が揃って二つ。見事なアンサンブル(笑)を引き起こしたこの御仁こそが槻弓鈴明、通称鈴さんである。この人は二十二歳。普段は静かで穏やかかつあたしのような年下にも優しい人なのだが、怒った時が非常に怖いのが特徴であろう。とにかくその拳骨が怖い。見ているだけで痛い。雪さんと唯人さんが騒ぎ過ぎた時の“躾役”というのがあたしたちの共通認識であり、いつだったか中高では大層なヤンチャをしていたと聞いたような、聞いていないような。それはともかく、怒らせさえしなければ物腰柔らかでとても接しやすい人なので、あたしは個人的にお兄さんのような感覚を持っている。
そんな騒ぎに気を取られてしまっていたからか、はたまた最近の学畜活動の疲労が溜まっていたからか、つい足元が疎かになってしまっていたらしい。なんとなく足を移動させた先に、まさか何かがあるとは思わず思い切り踏んづけてしまった。
「ひぎッ」
「!? えっ、や、ぁあああ……あ?」
「危ないから気をつけろって坂本……時嗣も一体なんでそんなところで転がってるんだ」
空のおぼんを持ったままでひっくり返りかけたあたしを後ろから抱き留め、次いで呆れ声を振らせてきたのは相馬詩音、齢二十三にして既にスポンサーつきのプロのクレー射撃の選手である。どうやら出かけていたのから今帰ってきたらしく、背にはいつも彼が背負っている大きなバックがあった。ほぼ常に肌身離さず持ち歩いているところに覗く彼の競技に対する真摯さというか、ストイックさは素直に尊敬すべきところだと思っている。あまり喜怒哀楽を見せないから一見とっつきにくいが、実際付き合ってみるとそうでもないし、こうしてさりげない優しさを見せてくれる部分もある。
「し、詩音ありがと……危うく倒れるところだっ「やっと十連勤終わって……うっうぅうう仕事つらいよぉおおぉぉお」ごめんて、踏んでごめんて優羽さん……とりあえず起きようよ」
振り返った私の言葉を遮り怨嗟の如き呻き声を上げるのはゆかり荘一の闇の社畜、時嗣優羽だった。彼もいつのまにか帰ってきて自室に辿り着くこともできずばったりと倒れ込んでいたらしい、スーツ姿で魂魄をかっ飛ばしていた。バリエーション豊かな社会人組の中でも彼は唯一真っ当な会社員であり、ゆえにこそ現代日本の闇を一身に背負わされた不憫な人物だった。仕事終わりで疲労困憊状態の今だからこんなとはいえ、普段はもっと理知的で頭の回転の速い人なのだが……まあ、うん、これ以上は触れないでおこう。
事故とはいえ思い切り踏んでしまった手前、「優羽さーん」と声をかけつつ屈みこんで揺さぶってみる。しかし彼は地獄の底から響くかのような声を上げたまま一向に立ち上がる様子もなし、参ったなあとぼやけば、
「霞、優羽のことはうちが見てるから。早く流沙の手伝いをしてきなよ」
「凍華さん」
寄ってきたのは冷やかな麗人、狐塚凍華さんだった。ゆっさゆっさと優羽さんを揺さぶるあたしの手を止めた彼女は、この荘の中での数少ない女性のうちの一人である。というかあたしと凍華さん、女は二人しかいないので否が応でも親近感が湧く。実際この人自身あまり表情は変わらないが、少なくとも悪い感情を持たれているわけではないということは理解できる。こんな風になんだかんだで優しいし。表情の変化にこそ乏しいものの、付き合ってみれば案外茶目っ気のある人だということも良く分かる。
「おい仕事しろっつってんだろバイト娘、そんなに爪楊枝盛られてーか」
「ごめんなさいごめんなさいー! 今行きますー! 盛るのは兼さんにしといてくださいー!」
「はァ? なんで俺なの? ちょっとよくわかんないんですけどォ」
「俺知ってる、コイツまた夜中につまみ食いしてたよ。どうします満之さん」
「あァ? そりゃもう決まってンだろ。オイ流沙、このバカ犬の飯にありったけの爪楊枝盛っとけ」
「やめろー! 俺は悪くないー!」と叫ぶのが千代川兼、どうあがいてもお前が悪いという視線を向けられている(もちろんあたしも向けている)二十二歳である。名前の響きから「犬」と呼ばれているのはまあご愛嬌、きちんと働いている人なのだがどう見積もっても中身の成長を小学生時代でストップさせているとしか思えないというのが正直なところである。悪い人ではない、ないはずなのだが、ヤンチャが過ぎるせいでベストオブ爪楊枝盛られる人になっている。自業自得なので南無三。
そして鈴さんのチクりに反応したのが、この荘の管理人であり、家賃を上げるも上げないも自由自在、「粗相をしでかした奴の晩飯には爪楊枝を突き立てて良い」のルールを制定、るっさんにその権限を与えた張本人が一潟満之さんだった。きつい三白眼にきつい口調、そして普段外で着ているスーツと揃うと正直どこぞのマフィアかと思うような人(思うだけ、口に出してはいけない)だが、案外そう怖い人ではないというのが付き合った際の印象だろう。暴君ではあるが昏君ではないというか、頭の良い人だということは少し付き合っただけでもすぐわかる。……あたしはそこまで一撃もらうことはないのだが、すぐ手が出る足が出るのはちょっとその、勘弁してもらいたいところもあるが。
「こっち運び終わりましたー」
「おう、俺も終わったから戻っていいな」
厨房のるっさんに、たっくんと二人で揃ってそう投げかければ、「おーう」という声が返ってきた。そそくさと定位置に戻れば、いつの間にか自室に戻って着替えさせられたのか(多分凍華さんが追いやったんだろう)先ほどまで伸びていた優羽さんもぐろっきーな顔のままで席についていた。これでゆかり荘十一人が全員集合したことになる。
……おっと、何か忘れているようなと思ったら、肝心のあたしの話をしていなかった。
あたしは坂本霞、このゆかり荘の希少な女性陣のうちの片割れであり、最年少唯一のティーン・十九歳の現役女子大生である。るっさんのお店でバイトさせてもらっているというのは説明済みで、雪さん唯人さんとはたまたま全員とっていた授業の中のグループワークで出会った。まあそのほかいろいろな縁が重なり、このゆかり荘でお世話になっているという感じ。
これで十一人。さぞ人数が多いと思ったことだろう。それはまあ確かに、しかしここに住む住人達は全員が全員かなり強烈な個性と性格を持ち合わせている。きっとこの人たちを眺めていて飽きることはあるまい。
午後八時。掛け時計の古風な鐘が鳴る。日々のささやかな楽しみである、夕飯の時間だ。しかしまあ、ここの面子に協調性といったものがあるわけでもなし、もちろん斉唱が必要な歳でもない。だがそれでも、各々が呟いた多種多様な「いただきます」が自然と重なるのは、なんだかんだでウマの合う人々だからなのだと思う。
――――この物語は、そんな日常的にありふれた非日常を送る十一人が、非日常的にありふれない非日常に揃いも揃ってぶっ飛ばされる物語である。
述べておこう。あたしたちはこの某日を境にして、異世界へと向かうこととなる。何故あたしたちなのかとか、何故このタイミングなのかとか、そういった問題は正直些細だ。気にするだけ無駄である。
肝心要は明々白々、ようはこうだ。十一人による異世界漂流記――――否。『異世界征服記』を、貴方たちは見届けたくはないのか?
見届けたいなら、そうだ。手を叩いてご照覧、開幕までの間を暫しご歓談。
十一人の馬鹿たちが、異世界の遍くを征服するまで。
――――それは、あと何秒?
第零話 了