第十話 「『生きている』ということ」
第十話 「『生きている』ということ」
【坂本霞】
――――――――バリイイイイイイイイイイイイイインッ!!!!!
悲鳴のような甲高い音を上げて、彼の異形の右半身を覆っていた氷が砕け散った。飛び散った破片が陽光を受けてきらきらと僅かに煌いて散る様は、たしかにある意味幻想的ともいえる風景だったが――――
「スラッシュ……ッ!!」「雄ぉおおおおぉおおぉおおおッッ!!!!」
凛とした声と、轟とした声が同時にそれらを吹き飛ばす。生存を脅かされた者にだけ発することのできる鬼気迫るほどの気迫と共に、氷刃と大剣が煌きを裂いてその巨体に叩きつけられた。超重量がついにぐらりと揺らぎ、地面に膝をつく。
戦い始めてもう何分経過しただろうか。一時間かもしれない。もっと長かったとしても、戦い、ようやく巡ってきた勝機だった。
あれから――――あたしが死にかけ、詩音に救われたあの時から、あたしは凍華さんの言った通りにずっとサイクロプスの右半身を炎で攻撃し続けていた。堅牢な鎧の如く、そして頑丈な鎖の如く縛めていた氷に対して放ったあたしの全力の炎は、その猛熱を以て鎧に綻びを作り、そこを狙った凍華さんとたっくんの一撃が、ついに最凶の盾にして障害を砕きせしめたのだ。
これでようやく、攻撃を全方位から通すことができる。多少動きは加速化するだろうが、しかしそれも今までの鈍さからすればさした変化ではあるまい。
そう、思っていたのだが。
『――――――――GRUUUUUUUUAAAAAAAAAAAAAAAAッッッッ!!!!!!』
鈍ッ、と。
跪いたその体制から異形は地を蹴り上げ、そして足元の草を食い千切るように乱雑に散らしてたっくんへと迫る。
「っ、そういえば、そうだった……っ!」
そう、そうだった。あたしが一度、本当に死にかけた時に見せたあの挙動だった。今までの鈍足の面影などどこにもないその爆発力は、氷鎧とはまた別のベクトルでの脅威となっていた。巨体が速度を伴ってたっくんへと吶喊し、そのたっくんはといえば。
「ぅおおおおおおぉおおぉぉおおおぉおッッ!!!!」
「避けようよたっくんッ!?」
避けるだけの時間はギリギリあったはずだ。しかし彼はそれをせず、裂帛の気合と共に真正面から受け止めてみせた。振り抜かれた右拳に手にする大剣がびりびりと震え、その衝撃たるや歯を剥き出しにして耐える彼の足元の地面を陥没させるほどだった。しかしそれだけの圧力を避けるでも受け流すでもなく、一切逃げることなくよりによってただ単純に『受ける』ことを選んだあの愛すべき馬鹿兄のおかげで――――隙が、できた。
全てを吹き飛ばす絶対の一撃を叩き込むだけの、隙が。
瞳を閉じる。戦闘においてはあまりに無防備すぎるその合間を、しかし突くものは誰もいない。杖を高く掲げ、内に外に渦巻く魔力を掴み取り、形にし、暖かくそして苛烈に燃え盛る焔へと転じるべく集中を高めていく。
GRYY、と異形が唸る声が聞こえる。だがあたしがそれによって集中を途切れさせることはない――――なぜなら、あたしがその唸り声を間近で聞くことになるようなことは決してないからだ。たっくんがいる。凍華さんがいる。詩音がいる。ゆえにあたしが死ぬことはない。必要条件であると同時に十分条件でもあるそれは、あたしがあたしとしての力を十二分に発揮してこそ初めて成り立つ法則。
だから、あたしはこの身に宿った力をめいっぱい使う。誰か――――そう、誰かに授けられたこの炎の力は、何かを壊すためだけではない。何かを殺すためだけではない。何かを、“仲間”を守るために与えられた力だと――――そう、信じられたから。
轟、とあたしを中心にして魔力の渦が広がる。背に流れた髪が浮かび上がり、魔力に乗ってふわふわと揺れる。だが中心に立つあたしは微動だにしない。既に揺れないだけの芯を、揺れないための支えを、あたしは十分に持っている。あとはそう、言葉にして、呼び寄せるだけだった。
すう、と息を吸い込む。舌に乗せて唇から押し出そうとしたその時、誰かが『そうだ』、と小さく肯定を呟いた気がした。それはあたしの昂った精神が自分に信じ込ませるために生み出した幻聴だったかもしれない――――しかし、本当にそうであったとしても、構いはしない。
華筵封神、一式。
「――――――――<火雨>ッ!!」
轟ッ
炎が逆巻き、酸素と魔力をありったけ食い尽くしながら狂暴な哭き声をあげる。宙空に浮かび上がるのは明々と燃え盛る火炎の嚆矢、そしてそれらは澄んだ空気の中を火の粉を撒き散らして一直線に飛び、巨体の背中にぶちあたって――――――――弾ける。
『GYAOOOAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッッッ!!!』
異形の悲鳴があがる。矢は弾けた拍子にその体という体を覆い尽くし、全てを焼き尽くす灼熱となってその巨体を苛んだ。たっくんへと振り抜いていた拳を解き、奴は残る右手だけで炎を振り払うように暴れる。
――――そして、その隙間を縫うように飛ぶ影が三つ。
――――弾ッ!
――――――――弾ッ!
――――――――――――弾ッ!
三連続で銃声が響き、そしてそれは一瞬にしてサイクロプスの濁った巨眼を撃ち抜いた。血液だろうか緑色の体液が、小さな小さな、されど絶望的に致命的な三つの風穴から勢いよく噴き出る。唸るような掠れた音が口から漏れるが、しかし絶えず零れ落ちる血が叫びとして現出するのを決して許さない。
「バインド――――スレイッ!!」
――――――――斬ッ!
高らかな、そして清らかで凛とした声が木々の間に木霊する。細い刃はきらきらと空中に氷の軌跡を描き、そして巨体の右肩めがけて思い切り振り下ろされ――――継ぎ接ぎのそれを、見事に断ち斬って見せた。透明でありながらその中に青を抱く綺麗な氷が、その傷跡を綺麗に覆い隠し浸食する。
『GRU――――GY、――――――――ッ』
左手を肘から吹き飛ばされ、纏っていた氷の鎧を砕かれ、一つしかない眼を射抜かれ、そして右腕を肩ごと斬り飛ばされた。ここまでの傷を負い、さしもの化物も勝機は無いと悟ったのだろうか。逃亡のためか奴は膝をたわめ、焦ったあたしが魔法を撃とうと杖を振り上げ、凍華さんが再び切っ先を上向けたその時。
「にいいっ、があああっ、すうううう――――――――かぁぁぁぁあああああああああああああああああああッッッ!!!!」
振り切られた大剣が、巨体を縦に一刀両断した。
魔法だとか速さだとか、そんな小細工一切なく。ただの鉄の塊が――――されど研ぎ澄まされた鉄の塊が、あたしたちを威圧し圧殺させんと迫った脅威を一撃の下に葬り去った。
しかしその一撃は、一撃だけではなくて。詩音が、凍華さんが、あたしが、そしてたっくんがいなければ決して成し得なかった勝利であって――――“生”であって。
どぉん、と今一度地響きを立て、サイクロプスの巨体が地に崩れ落ちた。断末魔は無い。その体はいつぞやのワーウルフの時のように消え去ることはなく、今まで暴れ狂っていたのがまるで夢であるかのように静と静まり返っている。
微動だに、しない。そしてそれは、あたしたちが倒したからだった。
その事実をようやく納得することができて、あたしはすとんと座り込んでしまった。杖を握る手は、絶対に離れることのないようにと強張っていた。それをおそるおそる剥がして、手を開いて、握る。そうしていれば頭上に不意に影が落ちて、ゆっくりと顔を上げれば、
「……凍華さん」
「ようやったな、霞」
ぐしゃ、と左手で髪を掻き回される。細剣を握る彼女の右手は、……僅かに震えていた。それに気づいたあたしに、なおも微笑みかけるように凍華さんは手を差し伸べる。その左手をとってよたよたと立ち上がれば、今度は遠くから「おい、大丈夫か!」という知らない男の人の声が聞こえた。
「これ、は……サイクロプス……? こんな、大物を……君たち、四人でやったのか?」
アラベラの方向からやってきたらしい彼は、よくよくみれば午前中にあたしたちが訪れた、王商連の受付の人が着ているのと同じ制服を着ていた。説明を求めるように巡らされた視線に、答えようとするもののうまく言葉を継ぐことができない。もごもごしていれば、木陰から現れた詩音が銃を片手にそちらに向かい、説明を始めたようだった。
たっくんはといえば、本当に死んだかどうか――頭から股まで一刀両断されていて死んでいなかったら困るどころの騒ぎではない――、死体を大剣でつついて確かめていた。だがまあ本当に確かめるというよりは、その乱雑な手つきから察するに単に手持無沙汰を極めているというだけだろう。
「たっくん」「拓海」
凍華さんと偶然声が被った。そのことに顔を見合わせてちょっと笑えば、「おう」と声を上げてたっくんが大剣を肩に担いでこちらへとやってきた。するとおもむろに彼は空いた左手をあたしの頭に置き、
「無茶しやがって、このバカ。……お疲れ」
ぐしゃぐしゃ、と乱暴な手つきで髪を掻き混ぜた。頭がぐわんぐわんと揺れ、髪がぐちゃぐちゃに乱れるが、それでもこうやって笑い合えたことが嬉しくて。
「うん、お疲れ、お疲れ様、たっくん」
「姐さんも、お疲れ様っした」
「うちは大したことあらへんよ。ほとんど拓海が気張ってたやんか」
「んん、違うよ凍華さん」
ふるふると首を振って否定すれば、凍華さんは「?」という顔であたしを見やった。あたしはそんな凍華さん、気が抜けたように僅かに笑むたっくん、そして少し離れたところで難しそうな話をしている詩音を順々に見やってから、続きを口にする。
「みんなが、それぞれにしかできないことをやったから、だよ。誰が欠けてても、あたしたちは今こうやって話せてはいなかったと思う。だから、みんな、がんばったんだよ」
心の底からの、言葉だった。
それを聞いた凍華さんは、「……そうやな」とふわりとした優しい微笑みを浮かべ、またあたしの頭を優しく撫でた。
その後詩音からの話によれば、このサイクロプスの存在は王商連としても未把握で、もともとのゴマベア討伐の依頼の報酬に加え、サイクロプス討伐が正規依頼として出されていた場合の想定の額と、調査が及んでいなかった分の補填額はきちんと出してもらえることとなったらしい。そしてこの功績を鑑み、今後の受注可能依頼についてももう少し高い依頼を受けられるようにはしてくれるとの話だった。そのあたりの詳しい話はまた数日後、今日はともかく宿に帰り休むのが一番とのことだったので、あたしたちはほうほうの体で街に帰り、手当に要るものをとりあえず買い足し、宿に戻り――――手当をし、飯を食い、数日ぶりに風呂に入って、夜。
「……つかれた……めっっっちゃ傷沁みた……」
ばふん、とベッドにダイブして息をつく。ベッドの端、傍らに腰掛けた凍華さんが長く伸びた髪を拭くのに苦心しつつ、「ちゃんとしたお風呂があって良かったやね」と零した。たっくんは部屋に設えられた椅子に座って脱力しており、詩音は詩音で銃の手入れをしている。ちなみに服は流石に戦闘の際に汚れたり破けたりしてしまったので、今は全員、明日の分も含めてと何着か買ったうちの一着を着ていた。
枕に顔を埋めて息を吐いてから、のろのろと仰向けになって目を閉じる。体育で思い切り体を動かした日の夜のような倦怠感があたしを襲い、とろとろと意識が微睡へと落ちそうになる。
「……霞?」
凍華さんがあたしの顔を覗き込み、なぜか慌てたような表情を作った。乾ききっていないのだろうか、その髪から滴り落ちた水滴が頬を濡らした気がして――――しかしそれは気のせいで、すぐに自分の目から溢れたものだということに気付く。がばっと起き上がれば、重力に従ってあたしの目からぽたぽたと水が零れ、シーツに点々と染みを作った。
「なん、で、あたし、……泣いて、……」
泣いている。そのことを自覚してしまってからは、止まらなかった。
怖かった。震えが今更のように体を走る。死ぬかもしれない。殺されるかもしれない。たった一瞬でも反応が遅れていれば、その瞬間あたしの意識はその場になかったかもしれない。
あるいは振り被られた棍棒に、頭を砕かれて。
あるいは向けられた拳に、内臓を木っ端微塵にされて。
あるいは降ってきた巨体に、全身をぺしゃんこにされて。
もしかしたら有り得た――――否、もしかしなくても十二分に有り得たはずの末路を、迎えていたかもしれない末路を、思うだけで心が壊れそうになる。しかし自分が死ぬだけならばまだマシだ。それがきっかけで、たっくんが、凍華さんが、詩音が死んだかもしれない――――そんな考えが少しでも脳裏をちらつくだけで、体が内側から凍っていくような、底なしの恐ろしさに襲われる。
あたしが少し間違えただけで。
もうたっくんにも、凍華さんにも、詩音にも、――――満さんにも、――――――――誰にも、会えなくなっていたかもしれない。
「っ、ひく、……ぅえ、ひっく、こわ、かった、……っう、こわかった、よう……っ」
凍華さんがあたしを抱きしめる。その腕に縋りつくようにしても、涙は決して止まることがない。とめどなく溢れて、それを見たたっくんと、詩音までが驚いた顔で銃を傍らに置くくらいに、あたしは泣きじゃくった。
怖かった。今までのうのうと生きてきた自分が、十九にして味わうこととなった明確な死の恐怖。噎せ返るようなその匂いは今でも痛烈に鼻の奥に残っていて、しかしあたしが泣いているのは、決して「怖かったから」というだけではなかった。
「よかっ、た……、みんな、ちゃんと、生きっ、……生きて、かえってこれて、っ、……ほんとに、よかったぁ……っ!」
怖かった。しかしそれを乗り越えて、ちゃんと四人で生きて帰ってこれたこと。それが何より、嬉しかった。
「……ほんまにな。四人でちゃんと生き残れて、ほんまに良かった」
凍華さんの言葉にうん、うんと子供のように頷く。そんなあたしの頭を遠慮がちに伸びたたっくんの掌が不器用に掻き混ぜ、詩音の手が背中を柔くさすった。
温度を感じる。ほかでもない「生きている」ということを証明する、三人の熱が。しゃくりあげているあたしの顔は、さぞ酷いことになっていただろう。しかし泣き出してしまったあたしを、誰も咎めることはなかった。
――――夜が更ける。星が巡る。そうして一つ危機を乗り越えた先で、果ても見えぬ異世界は、また新しい一日を紡ぎ始める。
第十話 了