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境界線上の二人 1


 長く生きてもいないが、僕には心掛けていることが一つある。

 セロリが嫌いな人はハンバーグについてくるソイツを一番始めに口に含むし、夏休みの宿題は七月中に終わらせて、晴れやかな気分で長期休暇をエンジョイするに限る。

 つまり、嫌なことは早めに終わらせた方が、心の健康には良いということだ。


 あくる日の静かな夜。

 自宅の学習机の上で、柿沢から受け取った入学願書にサインした。古ぼけた羊皮紙に載ったボールペンのインクは、中華料理に混じるお味噌汁のように酷く不釣り合いに見えた。

「ふぅ」

 大したことはしていないが、一仕事を終えた後みたいに僕は息をついた。

 これでもう逃げられない。

 下らないとぼやきつつ、退屈な授業を適当なノートテイクで誤魔化す、砂を噛むような味気ない無味乾燥な日々とはおさらばだ。嫌いじゃなかったよ、日常茶飯事。こんにちは、ファンタジー、くそ食らえ。

 悪態をついても、不貞腐れても、僕の意思なんて、あってないようなものだ。でも仕方ない。

 終末の呪術師を放っておくことなんてできるわけがないもの。

 夜空に浮かんだ三日月が僕を滑稽だと笑っているようだった。


「早速の記名感謝する」

 静寂が支配する夜。一人きりのはずなのに、背後から声をかけられた。鈴を鳴らしたような少女の声。

「どこから入っ……」

 振り返り、柿沢秤が立っているのを確認したまでは良かったが、あまりの衝撃に僕は言葉を失ってしまった。

「名前を書くと自動で空間転移魔法(スマビト)が発動するようになってるんだ。たとえどんな状況であろうとね」

「なぜそんな仕様にした……」

「鉄は熱いうちに打てというだろ。心変わりしないうちに願書を回収するためさ」

 柿沢秤は全裸だった。手で恥部を隠しているが、一糸纏っていないのは違いない。

 体からは蒸気があがり、水滴を滴らせている。どうやらシャワーを浴びていたらしい。

「あまりじろじろ見るな。ばか」

 僕は慌てて目を反らし、一階の脱衣場にバスタオルを取りに行った。


 タオルで体を拭いた後、柿沢は僕のシャツを着込み、

「いわゆる彼ティーというやつか、ふむ……」

 と頬を紅潮させながら訳のわからない独り言を呟いた。

「なんでもいいけど、今日は遅いから帰ってくれ。頼むから」

 心の底からのお願いだった。なぜなら妹が隣で寝てるからだ。誤解されたらどうする。

 ボディラインをダボダボのシャツで覆い隠しながら、柿沢は唇を尖らせた。

「帰るさ。帰るに決まってるだろ。私だってシャワーの途中に喚び出されて迷惑してるんだ。いい加減にしてくれ」

「飛ぶ仕様にしたのはソッチだろうが」

「これから保湿パックしなくちゃいけないからね」

「第二の人生エンジョイしてんじゃねぇよ……」

「じゃあ、明日また迎えに来るよ」

 柿沢は机の上の願書を回収すると、指をひょいと動した。彼女の体が緑色の光に包まれ始める。空間転移(スマビト)が発動し始めたらしいが、最後の発言を聞き逃すわけには行かなかった。

「ちょっとまて、明日って」

「ん? なんか予定あった?」

「まさか、明日から入学ってわけじゃないよな?」

「あ、すまない、説明が抜けていたな、つま……」

 キン、と金属を打ち付けたような高い音をたてて、柿沢は元の世界に帰還した。なにもかも中途半端だ。あの間抜けっぷりを見ていると本当にアイツが怨敵の生まれ変わりなのか怪しくなってくる。

 頭が痛くなったので、深く考えるのはやめにして、早々に床につくことにした。ベッドに潜り込んだ僕を優しく包み込む毛布。

「……」

 眠れない。寝返りを打つ。眠れない。寝返りを打つ。それを三回繰り返し、羊を数えることにした。

 羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹……。

 眠いのに、脳が覚醒状態になっている。一ヶ月足らずで配信停止するソーシャルアプリ風に言うと、ロンリの脳ミソ(覚醒)って感じだ。くそっ、あのくそ女。

 中途半端な説明のせいで、眠れない夜を過ごした。


 次の日。

「やあ、おはよう」

 朝。

「昨日は失礼したね」

 五時半。

「正気かよぉ……」

 肌を突き刺すような寒気が僕の微睡みを奪い去っていく。結露で滴る窓ガラスに柿沢の吐息がかかる。

「ん、なにが?」

「時間」

「ああ。ちょうどいい時間だろ」

 いつかのユエと同じように窓をノックされた。しつこく五回。アイシテルのサインだとかぬかす柿沢は寝ぼけ眼の僕を意に介さず続けた。

「それじゃ行こうか」

「どこに……」

 渇いた喉に自分の声が張り付き、上ずってしまった。

 夜明け前の冷たい風が室内に流れ込む。ロンリの脳ミソ(半覚醒)には辛い。

「フランムルカ魔法学校だよ。決まってるじゃないか」

「まだ夜じゃないか」

「爽やかな朝だよ。まるで正月元旦の新しいパンツ履き替えた朝のようにね。それに、ほら小鳥たちだって、夜明けを祝って鳴いている」

 カラスが鳴いた。断末魔みたいな声だった。

 暦の上では冬なので、全然夜は明けていない。

「……時差があるからできるだけ早めの方がいいんだ。準備をしてくれ」

「たち悪い……。ただでさえ昨日の来訪で眠れなかったんだから」

「えっ、興奮して? そういう目で見るのは止めてくれないか。一応ほら、私だって十六歳の乙女なんだから」

「違うわ。もう頼むから黙っててくれ」

 窓を閉める。カーテンも閉める。

 さらば非日常。死んでしまえ。

 外界から遮断された自室の過ごしやすさはピカイチである。

「ふぅ」

 ため息をついて、ベッドで二度寝を決め込もうと振りかえる。

 柿沢がいた。

「もうそれホラー映画だからね……」

「とまれかくまれ外着に着替えてくれ」

「ちなみに何しに行くのさ?」

「入学前のガイダンスを校長がやりたいんだと。まったく面倒な話だ」

「わかったわかった……とりあえず顔洗って歯を磨いてトイレ行って朝御飯食べて朝刊を確認してラジオ体操してから行くからちょっとまってて」

「そんなに待てるわけないだろ。ラジオ体操だけにしろ」

「せめて歯は磨かせて……」

 肝心なところで押しが弱いのは、僕の悪い癖だ。


 ついでに顔を洗わせてもらった。さっぱりしたが、今の最悪な気分が晴れることはなかった。

 準備が整ったので、腹を決めて、柿沢の華奢な肩に手を当てる。

「すぐ帰ってこれるんだよな?」

「さあ、まあ、少なくとも一日で終わる用事みたいだぞ」

「用事? ガイダンスじゃな……」

 金属音が耳元でして、視界が緑の光に包まれる。

 事前説明が下手くそすぎる。こいつの空間転移(スマビト)は好きになれそうにない。


 締め切った自室から、僕は異世界に転移してしまったらしい。わずか三秒。驚きの技術だ。この呪文さえあればラッシュアワーという言葉は消滅するに違いない。さあ、急ぐんだ未来デパート、柿沢を拉致して調査すればどこでもドアとまでは行かなくても、どこでもガスくらいなら作れるかもしれないぞ。

「到着!」

「それはよかったね」

「むっ。なんだ、やけにテンション低いじゃないか。どうしたんだい」

「別に……」

「あいにく不思議なタンバリンは錬成出来なかったんだ。テンションは自力で上げてくれ」

 上がるわけがない。

 達成感も酩酊感もなく、あまりにも違和感なくたどり着いてしまったのだ。僕は心の中で「久しぶり」と唱えて背筋を伸ばす。

 乾いた風が頬を撫でた。

 僕にとっての異世界は地球で、天球は魂の故郷になるらしい。幾数年ぶりの里帰りによって、ノスタルジックな気分に浸るのに、さほど時間はかからなかった。肺を充たす空気が懐かしい。

 青空が天高く広がっている。青すぎて目眩がした。

「さて、行くか」

 僕の気分を払うかのような凛とした声音で柿沢は立ち上がった。

「ここはどこだ?」

 僕らがいるのは、麓の町を一望できる小高い丘陵だ。町の真ん中には塔があり、三角屋根の家が密集している。

 見覚えはない。屋根の形からして積雪地帯だと思われるが。

「バタバタ市だよ」

「聞いたことないな」

「北の方になるのかな。地図で言うと」

「ふぅん。まぁ、どこでもいいや。それで用事ってなんなんだ」

「そりゃ校長に聞いてくれ。入学前の面接かもしれないし」

 柿沢は一本の木に立て掛けられていた丸められた布を取ると、流麗な所作でそれを広げた。

 空飛ぶ絨毯。これはまた珍しいものを。

「最近免許とったんだ」

「免許制なのかよ」

 僕が知らないうちに世界は様変わりしてしまったらしい。



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