輪廻転生の分岐点 3
その日の最低気温は氷点下まで落ち込み、氷になった水溜まりが幾人もを転ばせていた。
冬の終わりの二月の朝は、凍えるくらいに冷えきっていて、通学路を歩く僕らから容赦なく体温を奪っていった。
吐き出す息は白に染まり、景色をぼんやりと滲ませる。
校舎へ続く長い坂道を黒い制服を着込んだたくさんの生徒たちがえっちらおっちら上っていく。
さながら葬式の行列のようにも見えた。
「おはよう!」
背中をバンと叩かれた。元気のいい挨拶に目眩がする。
「おはよう」
寝不足で脳にかかった靄を払うかのような溌剌とした声。
「冷えるね! 今日はどんな授業があるのかなぁ」
隣に連れだって歩き出す。小柄な彼女の歩みは遅く、仕方なしに僕も歩調を緩めた。制服を着た少女は純粋無垢な紫の瞳を好奇心に震わせている。
「家庭科で調理実習があるだろ」
「あ、そっかぁ、調理実習ね。なるほどなるほど」
ふむ。
思ったよりは溶け込めている。
「がんばるぞぉ」
彼女には申し訳ないが、僕はこの間の出来事を微塵も忘れていなかった。
それもそのはず。
忘却魔法は、あらかじめ唱えていた反射呪文に跳ね返されたからだ。
つまり、すべてを忘れたのは、
「美味しいご飯作ってあげるから、食べてね!」
金髪の少女の方である。
断っておくが、わざとではない。
それに後処理がけっこう面倒だった。
まずお隣の老夫婦の記憶を改竄し、外国娘がファームステイに来ているという設定を植え付けることからはじまり、クラスメート一人一人に暗示をかけたり、お陰で僕は寝不足だ。
そのかいあって、約束の日時は問題なく迎えられそうである。
とりあえず今日は、彼女と出会ってからちょうど三日目だ。つまり想定された約束の日時でもある。あとは記憶を返してあげて、天球にお帰り願うだけである。
なんだかんだで退屈はしなかったし、魔法使用が解禁されてたというニュースを知れただけで、ユエの価値はあったというもの。
これでまた魔術探求を行うことができる。
現世の経験と前世の知識があれば、新たな魔法を創作することも可能だろう。
いまはただ、それだけが楽しみである。
「あ……」
坂の中腹でユエは立ち止まって、朝靄に覆われた町景色を見下ろすように瞳を細めた。
「どうしたの?」
別に無視しても良かったが、話しかけられた手前、ないがしろにすることもできない。
灰色の町を眺めて、
「なにか大切なことを忘れている気がする……」
とユエは呟いた。
退屈な授業を真理の探求で潰し、気がつけば右回りの時計の針は三時をさしていた。チャイムが鳴り響き、解放感に酔いしれる生徒たちに混じって僕は立ち上がった。放課後になった。魔術式で埋まったノートを鞄にしまって、小銭稼ぎに向かおうと教室のドアを開けたところで、
「調理実習でクッキーを作ったよ!」
「それは良かったね」
僕を呼び止めたのは、異質なクラスメートとして三年一組に溶け込んでいるユエだった。
「欲しい? ねぇ、ロンリはユエの手作りクッキー食べたい?」
「いや、僕の班もクッキー作ったし……」
同じ授業をしたのだから、当たり前である。
僕の言葉に瞳が悲しげに揺らいだ。
「……っ」
「じゃあ、欲しい」
「んふふぅ。もう仕方ないなっ、特別なんだからね」
スポットライトが当たった主役みたいに笑顔を輝かせて僕にラッピングされたクッキーを差し出してきた。
「はいっ! ユエがロンリのために焼いたんだよ! ありがたく食べてねっ」
「どうも……」
スゴくどうでもいいことなのだが、彼女の中では僕は幼馴染みという設定で落ち着いたらしい。
詳細は不明だが、宵島ユエの記憶回路は、幼友達が、中三になって再会したという三流小説家でさえ安易に手を出さないベタなシチュエーションをチョイスしたみたいだ。
全て偽りの記憶である。
「ねぇねぇ、食べて、食べて」
期待するような眼差しに急かされて、ピンクのラッピングをほどく。疑問なのだが、どうせすぐ開けるのになんでラッピングなんて面倒なことするのだろうか。
僕は一つのクッキーをつまんで口に放り投げた。
「どう?」
咀嚼する。
「うっ……」
「どう?」
「いや、個性的な味だね」
「そう? レシピ通り作ったんだけどね」
嘘つくな。
「生焼けだね……」
「えっ、ほんと!? あー、ミスったなぁ……」
跳ね返った呪文は僕との出会いと使命を忘却の彼方へ追いやってしまった。ぽっかり空いたスペースになだれ込んだのはシチュエーションの穴埋めとしての疑似記憶だ。多少僕も脚色を加えたが、概ね彼女の望んだ偽物の記憶である。
「ねぇ、ところでロンリ、今日なんの日かわかる?」
ユエが鼻歌まじりに歩き出した。僕の名前の由来となった洋楽だった。
一緒に歩きながら昇降口に向かう。やれやれ今日は麻雀はなしだ。
この間ボロ勝ちしたので、とりあえずのお金には困っていないし、今日はまっすぐ帰って妹と戯れることにしよう。
「えーと。誰かの誕生日?」
「ちがうよ。二月十四日。つまりバレンタインデーだよ」
「君に世俗のイベントは関係ないんじゃあ……」
「ん、なんで?」
「なんでもない。それでそれがどうしたの?」
「えっとね……」
廊下の喧騒が僕らの沈黙を包み隠す。サンクガーデンで練習をする吹奏楽部の演奏がイビツなBGMとして響いていた。
階段の踊り場でユエはピタリと足を止めて僕の袖口をキュっと握った。
「わかんないの?」
上目遣いにじっとり見られる。
射し込む夕日が舞台を赤く染め上げていた。
「さっぱり……」
「小さい頃の約束、覚えてないの?」
覚えているはずがない。してないのだから。
「そうだなぁ……」
「あのね……」
喉が震えていた。ユエは真っ直ぐに僕を見つめていた。
「ユエとロンリは結婚の約束をしたんだよ」
してませーん。
「そうだっけ」
「うん。大きくなったら、ユエをお嫁さんにしてくれるって、言ったんだよ!」
言ってませーん。
「だからさっ、ロンリ、あのね、ユエね、……ロンリのことがっ」
校庭でボールが弾ける音がした。ああ、なにしてんだろ。
「ロンリのこと、好きなんだ。……あのっ、ロンリ、ユエと付き合って」
実におめでたい思考回路だ。
彼女と知り合ったのは三日前の深夜二時が初めてだし、自分が唱えた記憶改竄魔法にはまり、挙げ句ターゲットに惚れるだなんて、呆れてモノもいえない。
「……それは違うよ」
「……へ」
「君は別に僕を好きでもなんでもないよ。自分の感情に騙されちゃだめだよ」
「な、なにいってんの?」
「……何て言ったらいいかな……君は勘違いしてるんだよ。僕を好きなわけないじゃん」
左手に留められた腕時計を見る。深夜まで待つつもりだけど、もう記憶を返してしまおうか。そっちの方が話が早いし、と考えていたら、頬に鋭い痛みを感じた。
コンマ数秒遅れてバチンという小気味よい音が鼓膜を振るわす。
「ばかっ!」
ビンタされたらしい。
気づいたのはジンジンと痛みが上ってきてからだった。
言い逃げに等しい叫びを残して怒りに肩を揺らしながら階段を大股で下っていった。
「はぁ?」
めんどくせぇ。なにあの女。
スカウト対象を意識するがあまり、惚れるだなんて、ギャグにもならない。
魔法学校とやらは余程の人手不足らしい。そりゃスカウトにも躍起になるな。
「まあ。いいや帰ろう」
久しぶりに独り言を呟いてしまった。
叩かれた頬を一撫でしてから、僕は鞄を背負い直し、ゆっくりと階段に足をかけた。
「明野論理」
名前を呼ばれた。
顔をあげると、女生徒が階段上に立っていた。見覚えはない。
「こっぴどくフラれたところ申し訳ないが、生徒会室にきてくれないか?」
「なんで?」
ずきんと頭痛がした。嫌な予感がする。
「斎藤くんがゲロったぞ.なにがオラクルベリーだ。やってることは賭麻雀じゃないか」
彼女がゆっくりと右手を伸ばす。どうやら生徒会の人間らしい。右腕に腕章をつけている。
「進路指導が必要だ」




