ブレイクブレイク
『京都の町は碁盤の目のようになっていて、とても分かりやすいですよ』
バスガイドのセリフが脳裏をよぎり、消えていった。なるほど、目の前の地図は方眼紙のように整然としていて、とても分かりやすい。問題は、どちらが北なのか全く分からない事だ。
「ヤマト、ひょっとして迷った?」
恭也の問いに、僕は答えない。
修学旅行二日目。班別自由行動。我らがB班は機能不全に陥っていた。そもそも、角田が悪い。班長である彼女が風邪で寝込んだ結果、3人になったB班は方向感覚と結束を失ったのだ。そして角田の『作戦』も台無しだった。
「無視しないでよ。これ、どう見ても迷ってるでしょ。この交差点に来るの3回目だし」
まくしたてる恭也。
「うるさい。僕は地図を見るので忙しい」
適当にあしらおうとすると、恭也はその長身を屈め、僕の地図をのぞきこんだ。ヤツの不気味なほど整った顔が近づいてきたので、容赦なく突き飛ばす。
「ヤマトに暴力振るわれた!」
「やかましい。どうしてお前はそうベタベタ近づくんだ」
男にくっつかれても嬉しくない。怒気を込めた問いに、恭也は
「俺たち、親友だろ?」
「何この人、気持ち悪い」
二人の視線がぶつかりあい、殴り合いに発展するかと思われたその時。
「あの……」
後ろからの遠慮がちな声に、僕と恭也が振り向く。そこには、困ったような表情をした九里原の姿があった。いや、困ったような、ではない。たぶん彼女は困っている。制服の裾を握りつつ、朝からずっと困り続けている。
「大丈夫さ。ちょっとしたスキンシップだよ」
「おう。僕達ちょー仲良し」
恭也と肩を組み、仲良しアピール。そして一瞬で離れてブレザーの肩についた恭也菌(仮)を手で払う。それに納得したのか何なのか、九里原が曖昧に笑う。花に例えるならスミレくらいの、だいぶ控えめな笑みだった。
女子は九里原と、その親友である角田。男子は恭也と僕。これが本来のB班の姿だった。
修学旅行の班は、実行委員による会議で3時間に及ぶ激論の末に決定された。表向きB班は、引っ込み思案な九里原を角田が引っ張る事と、女子人気の高い恭也を他班から隔離する事に主眼を置いた班という事になっている。
しかし、わざわざ実行委員に立候補するほどの世話焼きにしてお節介である角田の狙いは、あくまで『作戦』を実行することにあった。そのためにB班を組織し、人数合わせに見せかけて僕を九里原と同じ班に入れた。角田の根回しは周到で、『作戦』は計画通り成功するかに見えた。そう、角田が風邪で倒れるまでは。
「とりあえず、大通りに出ようよ」
班長代理の僕を差し置き、恭也の先導で3人が歩き始める。相変わらず僕と恭也がくだらない会話をして、二歩半後ろから俯き気味の九里原が付いてくる。
実に気まずい。
本来ならば、僕と恭也の会話へ角田が絡み、九里原を巻き込むという体勢が作れるはずだった。角田抜きで九里原を会話に参加させるのは非常に難しいというのが、午前中の自由行動時間を通じての結論だった。
僕と恭也ばかりが喋っているので、実に気まずい。しかし、九里原と二人で話すのは緊張するし、かといって恭也と九里原が並んで僕が後ろから付いていくというのも嫌だ。角田さえいてくれれば、と本日何度目か分からない思考に行き着く。
恭也は良いだろう。こいつの脳内はいつでもお花畑だろうし、天然のヒモなのかホモなのか、女の子に気兼ねをするという心配りが存在しない。可哀想なのは僕と九里原だ。ちなみに角田からは出発の日の朝、
『ごめん……マジごめん……でも死にそう……』
という電話がかかってきた。調子を聞いたところ、激しい咳で返事をされたので、容態はあまり良くないのだろう。
軽く後ろを振り返りつつぼやく。
「角田、大丈夫かな」
「そうですね……」
九里原が小首を傾げながら答え、そのまま押し黙る。
「いやいや、その流れもう4回目だから」
恭也が満面の笑みで指摘する。こいつの無駄な明るさが、今だけはありがたいような、そうでもないような。
「お前は良いよな、楽しそうで」
思わず漏らす。
すると恭也はニヤリと笑い、何食わぬ顔で僕に耳打ちする。
「何言ってんだよ、修学旅行は楽しまなきゃ損でしょ。せっかくの機会なんだし、ね」
「なっ」
固まっている僕を置き去りにし、恭也は軽やかに歩き出す。
「せっかく京都まで来たんだし、もっと明るく行こうぜ。ほら見てよ、外人さんがいっぱい来た。え? Eh? コーリュージテンポー? オウ、ウィドントノー、トゥー! テルミーハウトゥーゴー? ギブミーチョコレート?」
向こうからやってきた黒人の団体観光客と、怪しい英語にボディランゲージを交えて話し出す。数十秒後、恭也が振り返った。
「この人達広隆寺に行きたいんだってさ。一緒に行こうよ」
そう言って、恭也はチョコレート片手に、やたら様になっているウィンクを決めた。
「マジか……」
呟きつつふと横を向くと、九里原が僕に追いついていた。二人の顔の動きが奇跡のように同調し、視線が合った。「思わず顔を見合わせる」という状態を、初めて体験した。どちらからという訳でもなく、笑う。九里原の柔らかい表情。滅多に見せることのない、顔全体がほころぶ天然の笑み。僕は自分の鼓動を強く感じた。
「恭也さんって、面白い人ですよね」
控えめに、しかし笑みを含んで九里原が言う。
「うん。あいつはなんていうか、飽きないヤツだよ」
不意打ちの質問に、思わず口走った。
「まあ、変態だけどね」
義務のように貶しておく。九里原のような賢明な子なら大丈夫とは思うが、恭也は偏執的に顔が良いので、何人もの女子が騙されて惚れている。
「でも恭也さんは良い人です」
「いや、あいつと比べれば僕のほうが良い人だよ」
九里原が目を見開いた。その顔を見て、ヘンな事を言ってしまったと気付く。
どう誤魔化そうかと必死で考えること1秒。何が嬉しいのか、九里原がまたあの素晴らしい笑顔を見せる。
「私もそう思います」
直視できなかった。セーラー服の白が眩しくて、僕は目を逸らした。視線の先では、恭也と黒人の集団が進み始めていた。
「ほら、置いて行かれないように追いかけよう」
「はい!」
今日一番大きな声を出した九里原と、並んで駆けだした。
結局、僕らは黒人の集団と一緒に京都市内をさまよった。恭也が謎の英語と異様なハイテンションで外国人達と騒ぎ、僕と九里原は苦笑いしながら追いかけるという図式だ。
結局、九里原とはロクに話さなかったが、嫌な沈黙ではなかった。認めたくないが、恭也のおかげで共通の話題というか、被害者意識を共有したというか、何か通じ合うものがあったのだ。
「シーユーグッバイ!」
広隆寺で弥勒菩薩を騒がしく拝み、このまま奈良へ行くという黒人達と別れる。恭也は一人ひとりと熱いハグを交わしていた。なんなんだ、お前は本当に。
「いやー、素敵な人達だったな」
別れの涙を拭いつつ、恭也が言う。
「お前、久しぶりに日本語喋ったな」
「もう日本語は話さないのかと思いました」
「え、ヤマトはともかく、九里原さんまで……」
傷つく恭也を捨て置き、地図を広げる。そもそも広隆寺に行く予定などなかったので、午後の計画は総崩れだった。もっとも、計画を立てた当人である角田がいないので問題ないと言えばないのだが。
「うーん、そろそろ集合時間だし、ちょっと早いけどホテルに戻ろうか」
ようやく班長代理らしい事を言って、二人の同意を取り付ける。手近のバス停から市バスに乗り、旅館へ向かう事にした。夕前の微妙な時間帯のせいか、乗客は少ない。席が空いていたので、九里原と座る。恭也は一つ前の席に座り、居合わせたおばあちゃんの嫁の愚痴を聞いて「奥さんは何も悪く無いです!」と言いながら皺だらけの手を両手で握りしめていた。
日が落ちてきた京都の町を眺めつつ、僕は窓側に座る九里原のほうを盗み見る。改めて間近で見ると、九里原は華奢だった。袖から伸びる腕が、スカートに隠れた脚が、驚くほど白い。
疲れていたのだろう。九里原の首が前後に揺れ始める。動いた拍子に髪の間から覗いた耳に目を奪われ、僕は言葉を失った。
ふと、この体に触れたいと思った。柔らかい感触を想像し、僕は緊張する。もし、彼女の頭がこちらに揺れたら。もし、僕が右手を少しだけ彼女の方へ動かしたら。
バスが揺れている。彼女の体が弛緩していく。車内を反響する乗客のおしゃべり。恭也の声「それは息子さんの言う事に一理ありますよ……」。ほっそりとした首に黒髪が流れる。窓の外を古い町並みが流れていく。僕は動けない。彼女の体が一際大きく揺れ、ゆっくりと体が傾ぎ、
「あれ、このバス停じゃね?」
恭也の声。
びくっ、と。痙攣を起こしたように震えた。九里原も、僕も。
「あれ、恭也さん、私、すいません。ここ学校ですか?」
若干寝ぼけた九里原が立ち上がり、僕も慌てて恭也を追う。運賃の小銭を握る指が、汗でぬるりと滑った。
旅館に着いて男子の部屋に入ってからも、僕は九里原の事を考えていた。あるいは、その肉体の事を。
そもそも、この感情を解決するために自由行動の『作戦』を立てたのに、角田がいないのではどうしようもない。ではこの状況で頼るべき人物は……などと考えていたら、ケータイが鳴った。見れば、メール欄に未読一件。角田だった。
『やっと熱が下がってきたよ。自由行動もう終わっちゃったよね? どうだった? 恭也くんが気を使ってくれると良いんだけど』
液晶画面を閉じ、畳に寝転ぶ。ごめん、ダメだ角田。助けがほしい。
ケータイ片手に呻いていると、枕が飛んできた。キャッチしつつ起き上がると、同室の木崎だった。
「何? 彼女からメール?」
下卑という表現がぴったりな表情に、枕を投げつける。
「いたら苦労しないよ」
顔面に枕を食らった木崎を無視して部屋を見渡すと、気付けば誰もいない。
「あれ、恭也達は?」
「風呂だろ。俺も今から行くところだ」
「じゃ、僕も行く」
木崎と連れだって大浴場へ向かう。クラスごとに決められた入浴時間は短い。早く行かないと温まる暇も無くなってしまう。
途中、女湯から出た女子の一団を見かけた。無意識に九里原を探していることに気付き、強引に意識から閉め出す。木崎はというと、湯上がりの女子を凝視しつつ
「あーあ、女湯入りてぇな」
などと呟いていた。
大浴場は「大」と言うだけあって広く、男共が寄り集まって入浴するという悲劇は回避できそうだった。恭也の姿はなかったが、どこかにいるだろう。特に気にせず、洗い場で体を洗う。
「この鏡を外すと女湯に繋がってるとか、そういうギミックが……」
隣で呟く木崎を冷たい目で眺めつつ、僕は思考に沈んでいた。鏡の中の自分を見据え、自問する。
先に口を開いたのは、鏡に映った裸の僕だった。
『まずは一つ聞こう。お前はあの子をどう思っているんだ?』
鏡の中のニヤニヤ笑いに殺意を覚えつつ、僕は心中で答える。
――大切にしたいと思っている。
苦し紛れの回答に、鏡の僕は凶悪な顔を作る。
『ハッ。何だそれは? 角田にも言われただろう。はっきりしろよ』
――僕にも、分からない。考えれば考えるほど分からないんだ。
『ほう、分からないか。じゃあ、僕が教えてやるよ』
鏡の中の僕は、鏡から飛び出さんばかりに身を乗り出し、叫ぶ。
『グダグダ考えている時点で、お前はあの子が好きなんだよ! 今まで散々バカにしてきた恋だの愛だのってヤツに、お前も毒されてしまったのさ』
その言葉に。ああ、ついに自覚してしまったな、と思った。いつしか鏡の中の僕は消え、そこには九里原が映っていた。当然のように裸だ。彼女の細い肩に、胸のふくらみに、肉体の視覚的な柔らかさに、僕の肉体が反応する。しかし、精神はまだ理性的だった。理性的に思考して、そして伝えたいと思った。この気持ちを伝えて、頷いてもらいたいと心から欲望した。
『はい、私も、好きです』
脳裏で九里原が笑う。その可憐さに見とれながら、自分が幻を見ていることを自覚する。都合の良い、予定調和の夢。
――僕と付き合ってください!
幻の僕の幻の声が響く。それは卑怯な言葉だった。ここが僕の妄想の中である限り、九里原は断るはずがない。そんな後ろめたさに気付くと同時、九里原がにっこりと笑って、そして変質する。
『えええー、アタシ、あんたみたいな腑抜けは嫌いよ。だって、あなた、今日一日、その言葉を私に言うチャンスなんて、いくらでもあったでしょ? それをことごとく逃しておいて、いまさら妄想の中で言っちゃうの? バカなの?』
それは違うものだった。九里原ではない。幻ではない。
九里原のフリをした何か、架空を装った現実だった。
『相手を傷つけないって言い訳で自分を守るその性根、全く腐ってると言う他あるまい』
――それでも、君が好きなんだ。
僕は必死に抗弁する。そうしなければ、僕が彼女に抱いている気持ちが偽物になってしまうという予感に駆られる。
『その「好き」という感情の起源はなんだね? カラダが目当て? ではこの肉体を目的とすることの目的は何だ? 生存欲求に基づく性欲というシステムに隷従して、異性との接触でドーパミンを分泌したいのか?』
――そんなんじゃなくて、純粋に君を愛しているんだ。
『なるほど。君は純粋なのか。純粋なくせに、そのような邪念を抱いて迷うのだね』
彼女が何を言っているのか、分からなかった。でも、何かひどく恐ろしい事が起ころうとしている事は分かった。九里原の顔をした何かが、その目に炎をともす。
『全く救いがたいな君は。でも、仕方ないよね。怖いもんね。大丈夫。そんなに心配しなくても、私はあなたのこと、好きにならないよ。それは、あなたの見た目が悪かったり成績が悪かったり足が遅かったりするからじゃないの』
――違うんだ、聞いてくれ、いつもの九里原に戻ってくれ!
僕は喉から言葉を絞りだす。鏡の中の僕が、鏡の中の僕の姿をした九里原の姿をした僕が、微笑む。
『親切な私が、お前の――を反転させてやろう』
体内で何かが裏返った感触。そのおぞましさに耐えきれず、頭を抱える。
『――――。――――、――――、――――』
九里原の声が何かを言っているが、脳に残らない。
そして誰かの声が聞こえた。
「二組、あと十分で風呂終わりね」
担任教師の声。聴覚をきっかけに自分の体が意識され、僕は洗い場で座っている自分を発見した。周りを見渡すと、自分がとんでもなく場違いな場所にいる気がした。とてつもなく煽情的な光景を見た気がするのだが、目の焦点が合わず、よく分からない。
目の前には鏡。そこに映るのは、自分の姿だった。細い肩、桜色の乳首。肉の薄い脇腹へ僅かに肋骨が浮き、未成熟な色気を醸し出している。そのまま視線を下ろし、自分の肉体を見下ろすと、滑らかな下腹に薄い陰りがあり、その下に隠された艶かしい器官を感じた。
何かがおかしい。いまだクラクラする意識をひっ掴み、僕は鏡の中の自分を睨み付けた。
直後、鏡の中の影の、最後の言葉が脳裏に蘇る。
『今から、お前は男にしか欲情できない』
天啓に打たれるように、股間を凝視する。
わずかに勃起している男性器があった。
自分の身体に興奮しつつある自分を自覚し、一気に血の気が引いた。鏡に映った自分の可愛らしい……いや、違う。ただの男の顔を睨み付け、下腹の熱を忘れようとする。
その時、鏡の隅に何かが映った。
しっとりと濡れた髪。上気した頬。驚くほど立体的な構造をした首。長身が一度屈み、荒々しい骨格が湯船から上がって来る。首から自然に繋がる鎖骨と、引き締まった筋肉質の胸。肉感的に割れた腹筋、その中心に咲く白い臍。ああ、――恭也。
美しい、と。そう思考するより前に、欲情していた。
あの靭やかな肉体と絡み合いたい。日焼けした肌に舌を這わせたい。そして――
脊髄の深奥から湧き上がって来るかのような欲求を前に、僕は無様に勃起していた。
「うわ、ヤマトお前!」
隣の木崎が奇声を上げる。それに反応して、僕の裸身へ風呂場中の男の瞳が向けられた。
洗い場にいた横一列の連中が僕の股間を覗き込み、一拍遅れて引き攣ったような笑いが起きる。
苦笑。
「どうせ女湯でも想像してたんだろ」
嘲笑。
「え、何? お前ホモなの?」
哄笑。
「やっべー、俺の肉体美に魅了されたな」
僕は今、どんな顔をしているのだろう。目の前に鏡があるはずなのに、僕の目には何も映っていなかった。いや、一つだけ見えた。僕の後ろから歩いて来る、恭也の姿が。綺麗な顔が、曇る。
どうしたんだよ、恭也。お前は何で、そんな心配そうな顔を、だって、俺は、別に、
世界が上がっていく。いや、僕が落ちているようだった。
後頭部に鈍い衝撃。天井の照明が視界を白く染め、そして何も分からなくなった。
畳の匂いがした。目を閉じたまま、嗅覚を楽しむ。何だか気分が良かった。今まで感じていた全てを破り捨てたような、妙な爽快感があった。脳裏で何かが揺らめいて、溶ける。囁く声がした。『愛してしまえ、それを』
そこで目が開いた。どうやら、布団に寝かされているらしい。ひどい頭痛を感じつつ、上体を起こす。電気は点いていないが、辺りは沈みかけの夕日に照らされていた。僕は浴衣を着ていて、視界の隅には見覚えのある荷物。ここは自分達の客室だ、と、焦点の合わない思考が結論する。
「あ、起こしちゃったか」
穏やかな声に、心臓が跳ねる。振り向くと、戸口に浴衣姿の恭也が立っていた。
「ヤマト、風呂場で倒れたんだけど覚えてる? 頭打ってたけど痛くない?」
恭也は返事を待たず近づいて来て、布団の横の座布団であぐらをかく。大きく開いた裾に視線が行き、また鼓動が速くなった。刻々と暗さを増す夕闇の中、恭也の全身がほのかな朱に染まっている。
「夕食へ呼びに来たんだけど、食べられる?」
うん、とだけ、渇いた喉から返事を絞り出す。舌が上顎に貼り付きそうだ。息と一緒に舌が出て行ってしまいそうな錯覚。もしこの舌が僕の口を離れたならば、空気と一緒に恭也の喉へと潜り込むだろう。
「具合悪そうだけど、本当に大丈夫?」
嬉しかった。恭也が、僕のために不安げな顔を作ってくれることが。僕がこの人の表情を変えたという事実が、たまらなく僕を駆り立てた。
その名を。
「恭也――」
その愛しい名を呼んだ。もっと近づきたくて、立ち上がろうとして、崩れ落ちる。受け止められる。力強く抱き留められる。
「ヤマト?」
腕の中。恭也の肉体が、僕を支えていた。抱き合うかのような姿勢。僕の耳は恭也の呼吸を感じ、僕の頬は恭也の胸の鼓動を感じていた。もはや、どちらの鼓動かも分からない。豪雨のように連なる心拍。
熱かった。頬も、喉も、胸も腹も股間も、全身が燃えていた。体の奥の奥、意識の底の底、遠い記憶の彼方から飛来した炎が全身を貫き、圧倒的な熱量が、小さな吐息となって唇から漏れる。熱に煽られた舌が踊り、囁きを紡ぐ。
「俺、お前が、お前のことが」
双肩に衝撃。
突き放された、という事実に気付くまで、長い長い時間がかかった。僕はゆっくりと後ろに倒れ、布団へ叩き付けられる。後ずさる恭也の顔。暗くて何も読み取れない、拒絶の仮面。
「お前……」
恭也が低く呟き、逃げるように部屋を出る。扉が開き、廊下の光が部屋を舐め、そして消えた。窓の外はもう夜だった。
「あ、起きてましたか?」
どれくらい時間が経ったのか分からない。そのか細い声で、僕は我に返った。首だけ動かして部屋の入り口を見ると、九里原が立っていた。無言で立ち上がり、歩み寄る。
「あの、私、ヤマトくんが倒れたって聞いて、心配で夕ご飯抜けて来ちゃって」
今にも泣き出しそうな顔を見て、ごく自然に汚ぇツラだなぁと感じた。そう感じたことについて、特に何も感じなかった。
「私、私、」
舌足らずな発音。涙はもはや瞳に収まらず、こぼれ落ちていた。大粒の雫が頬を伝って学校指定ジャージに落ち、シミを作る。
それをボーっと眺めていたら、抱きつかれた。肋骨の辺りに、柔らかいものが当たる。洗い立ての髪の毛が視界いっぱいに広がり、押しつけられた顔が浴衣の肩を濡らす。
「私、ヤマトくんが、ヤマトくんの事が」
恐ろしく不快だった。
気色悪い、と。冗談じゃない、と。
自分でも気付かないうちに、僕は九里原の肩を突き飛ばしていた。その小さな体がひとたまりもなく倒れ、尻餅をついたままこちらを見上げてくる。
「なんで……」
九里原は原因を求めているようだった。なぜ、こんな事をするのか。この結果になった原因を。
「知るか」
吐き捨て、九里原の脚をまたいで廊下に出る。一度も彼女と目を合わせないまま。
病人のような足取りで廊下を進む。薄着の男子を見かけては興奮し、女子とすれ違ったときのシャンプーの香りに顔をしかめた。そして、今まで逆の事をして来た自分を思い出し、一人で笑った。
男に会うのも女に会うのも嫌になってきたので、旅館から出ようと考え、門を出ようとして警備員のおっさんに止められた。「学校名と名前を教えなさい」とか言ってきたので、唇を奪ってその隙に館内に逃げ帰った。
そんな事をしているうちに、廊下から人がいなくなる。ケータイを置いてきたので時間が分からないが、消灯時刻を過ぎたのだろう。巡回の教師に見つかっても厄介なので、辺りを警戒しながら進む。
辿り着いたのは、営業時間の終わった大浴場。鍵のかかった引き戸を蹴り開け、電気の消えた洗い場の、鏡の前に座る。光源がないので、ほとんど何も見えない。目が慣れて来ても、鏡に人の影がうっすら映っているのが分かる程度だった。
しかし、ほどなくその影が動き出す。
『破綻』
影は二文字で僕を表現した。
『さあ、どうする? 元に戻して下さいと乞い願いに来たか? あるいは、時間を巻き戻して下さいとでも?』
僕は何も言わない。影はよく喋る。
『お前も普通に戻りたいだろ? 男を嫌悪し、女の尻を追いかけ、社会適合者になりたいんだろ?』
僕は無言。影は饒舌。
『あるいは何だ? 慰謝料でも求める気か? 代わりにそこの浴槽一杯の美少女でもくれてやろうか? 美少年のほうが良ければそっちでも良いぞ』
僕は答えない。
黙考、そして、呟く。
「女も、男も、いらない」
『では、何がほしい?』
「ほしくないがほしい」
白。
唐突に、電気が付いた。
眩んだ目が明るさに慣れると、鏡から影は消えていた。映っているのは、ひどく顔色の悪い僕の顔。
「おい、いたぞ!」
担任の声。
迎えが来たようだ。このまま僕は連れ戻される。恭也と同じ部屋へ帰り、明日は九里原と同じバスに乗って宿を出る。
とりあえず僕は、自分で立ち上がることを拒否することにして、近づいてくる担任達の声を聞いていた。
(終)