メリークリスマス
12月25日 空が厚い雲に覆われてフワフワと雪が綿のように降っている。厚い雲に覆われながらも隙間から微かに月明かりが漏れ出し、幻想的に雪を照らす。地には真っ白なジュータンが引かれたかのように雪が積もっている。
ズボ、ズボ、ズボ、
雪が積もっている深さが分かるように地に足が着く度に重低音の足音が響く。時々、足跡の近くにジワっとしたしみが広がる。
「ゴホッ、ゴホッ。はぁ、はぁ、なんだ? この量の雪は。歩ける道なんてありやしねぇ」
住宅のコンクリートの壁にもたれかかり徐に胸ポケットからタバコの箱を取り出す。ライターで火を点けよとするがシュッ、シュッ、と小さな火花が何回かはじけるだけでなかなかライターに火が点かない。
「ちっ、これだからやすものは!」
怒り任せに投げつけたライターはボスッという音を残して姿を消した。口に加えたタバコは胸ポケットにしまい。再びズボ、ズボ、と足を地面から引っ張り上げながらか細く燈る街灯を頼りに道なき道を進んだ。
街の中心までいつのまにか来ていた。中心部だけあって先程まで積もっていた雪が溶けていた。街ゆく人々が俺をチラチラと見てきた。中には立ち止まって凝視する奴もいたが、俺はそんなことなど気にもかけずそ明るい街灯のなかを歩いた。
グチャ、グチャ、グチャ
雪道を歩いていたためズボンの裾はすっかり水を含んだ重くなっており、歩く度に革靴のなかでグチャ、グチャとした音が聞こえる。
「これだったらタクシーでも拾えばよかった」
自分の行動に後悔をしながら後ろのポケットをゴソゴソと探る。ゴソゴソと。
「………」
寒いはずなのに急に体の内側から熱が発してくるのが分かる。脇の汗がジワっと服に染みてくる。ポケットの奥のほうまで手を突っ込む。ビリッと布が破ける音がしたがそんなの関係なかった。
「うそ…… だろ」
ポケットに入れといたはずの財布がなかった。これではタクシーを呼ぶ所か電車にも乗れない。警察に行こうかと一旦歩く方向を変えたが立ち止まって再び俺はまた元の方向へと足を向かわせた。
「今さら、お金があっても何もならねぇか」
ハァと深いため息をつき重い体をひきずりながらまた充てもなく街を歩き始めた。俺はもう財布をなくしたぐらいじゃ何も思わなくなった。そんなことを身に染みて感じると自分の人生の悲惨さが分かる。思い返してみれば俺は何もかもなくしてきた。
―― 家族
―― 名声
―― 財産
残ったのはしみったれたプライド、賑やかさを無くした家。そして腐敗した自分の心だけだ。
―― あぁ、ほんとなにも残っちゃいねぇ ――
「ねえ、サンタさん僕の所に来てきてくれるかな!」
「良い子にしていたら来てくれるかもしれないな」
車道を挟んだ向かい側で親子が手を繋いで会話している声が聞こえてくる。そんな姿を見ると前になくした感覚が手の平に蘇ってきた。するとつい、寂しげに手を見つめてしまう。雪が手につもりジンとした冷たさが心にまで伝わってくる。
「何を今さら、寂しがっているんだ。あほらしい」
乱暴に手に積もった雪を振り落とそうとしたが、途中で腕を振りかぶるのを止め、そっと手の平で雪を流しながら時間をかけて地面に置いた。
「さて、行くか」
どこに行けばいいのか分からないが一人になりたかった。再びグチュグチュと音をさせながら足を向かわせた。その帰路の途中俺の耳にはクリスマスソングがしきりに聞こえてきた。世界が夢と希望で満ち溢れるクリスマス。そのなかで、俺も少し夢を見た。机の上に置かれた大きなクリスマスケーキ。その周りを家族が囲んでみんな幸せそうに笑っている。キラキラと光っている木のツリーにはサンタクロースにプレゼント貰うためか靴下が二つぶらさがっている。
「ねぇ、サンタクロースってなんでもお願いできるでしょ? 僕さ。プレゼント貰えるかな?」
ちょうど机から顔が出るくらいの背の高さの子供が目を輝かせながら自分で飾りつけした靴下を見上げている。
『この子供どこかで見たことある…… これは俺か?』
「良い子にしていればきっともらえるよ」
子供のお父さんなのか温かみのある笑顔を子供にむけ頭を撫でている。まん丸とした顔でポヨンとしたポッチャリ体型がその笑顔によく似合う。
「あなたは、何をお願いしたの?」
お母さんがケーキを切り分けお皿に盛りつける。そのおいしそうな匂いにつられてお母さんの近くまで子供がかけ寄ってくる。
「ひみつだよ!」
子供はスパっとお母さんの質問を切り捨てた。手にはフォークを持ち、どのケーキを食べようかと目を泳がしていた。
「え、どうして?」
お母さんは少々戸惑いながらも平然を装いながら子供からプレゼンントを聞ことした。しかし、子供は『教えない』の一点ばりだ。時にして子供の頑固さは年寄りの頑固さよりも硬いものだ。
「でも、きっとおかあさんとおとうさんもよろこぶ!」
その時の子供の笑顔は子供らしくとても純粋なものだった。その笑顔はサンタクロースが願いをかなえてくれると信じていた。
『俺にもこんな時があったのか。だったら俺は何をお願いしたのだろうか? 俺自身何を貰ったのか何も覚えていない』
「ゴホッ、ゴホッ。少し歩き過ぎたか」
身体を休めようと辺りを見渡す。すっかりと人数は減り、道にも車が通ったタイヤの跡が見当たらなかった。景色もいつのまにか街灯もなくなり、ただ果てしなく真っ白な大地が広がっていた。他に何かないかとふと、見上げるとそこには明るく照らされる小さな丘に生えた大きな一本杉があった。
「あそこに行こう」
少しは雪が防げると思い、俺は一本杉に向かって歩み始めた。いつのまにか降り続いた雪が腰の高さまで来ていたため、体を左右にふりながら進むしかなかった。その歩みのなかでも少し前に見た夢が気になった。
―― 俺の願いはなんなのか? ――
今さら昔のことなんて―― と思ったが頭の中から夢のことが離れなかった。ここ最近でこんなことはなかった。毎日の生活は川の流れのように頭の中に留まることなく流れていった。そこには喜怒哀楽の感情なんて芽生えない。ただ心臓が動き、息をするだけだ。しかし、今は違った。確かに頭の中に留まり、俺のなかに感情が芽生えようとしていた。
一本杉は予想以上に大きかった。雪でよく上まで見えないがその高さは雲にも届きそうだった。
俺は体力の限界か、ドサッと力なく一本杉の幹にもたれかかった。ハァ、ハァ、と息を整える。時々、息がつまり喉の奥でゴクッと音がなる。体を引きずって登ってきたせいか自分の登ってきた道のりがはっきりと見えた。頭がボーとしてよく分からないがなかなかの距離を歩いてきたらしい。段々、息が整ってくると俺は体を擦りだした。熱が冷め、体が冷えてきたからだ。一本杉は雪は防いでくれたが寒さをしのぐには無理があった。
「思い出す前に、凍死してしちまう」
少しでも暖を取ろうとライターをシュッ、シュッと擦る。何度か火花が散ったあとボッという音とともに火が点った。
「あたたけぇ」
暖をとるには余りにも小さな火だった。しかし、手の中は温もりに包まれた。
「あたたけぇなぁ」
目から涙が止まらなかった。この手の温もりが思い出してしまう。いつも優しく俺を包みこんでくれた手を。
「にぃちゃん、会いてぇよ」
いつも俺を支えてくれた。いつもすぐ傍に居てくれた。けれど、にぃちゃんはもういない。そのことを忘れたくて忘れたくてすべてをなくした。自分をリセットすれば忘れられると思った。けれど、この手の温もりの感覚は消えなくていつも思い出してしまう。何度も何度も手を洗っても洗い落とせなかった。その温もりはいつも俺にただ一つの思いを起こす。
―― もう一度にぃちゃんに会いたい ――
『メリークリスマス!』
突然、天から声が聞こえた。余りにも突然だったからか聞こえたという感覚はなく。幻のようにも感じた。
「まさき」
先程の天からの声と違う声が聞こえた。今度の声は自分の心にジンと響いた。確かに俺は感じた。忘れたくとも忘れられない声が確かに聞こえたんだ!
「にぃちゃん!」
反射的に返事を返す。声が聞こえた方向を見ると真っ白な大地に一人、人が立っていた。俺はバッと体を起こし走った。雪に足をとられて転倒しても這いつくばって前に進んだ。
ハァ、ハァ、ハァ、 と白い息が激しく口から出ている。胸が苦しくなかなか顔が上げられない。足の感覚も凍結してしまってもう感覚なんてない。それでも俺は声を絞り出した。
「にぃ、にぃちゃん……」
「大きくなったな、まさき」
俺は抱きついた。目からは嬉し涙が留まることなく溢れだした。確かに体に伝わってくる温もり。この温もりがほしかった。もう二度と…… 離したくない。
「どこにいたの! ずっと…… ずっと探してたんだよ!」
「ごめんな、まさき。心配かけた」
「ううん…… もう、いい。こうしてまた会えたんだから。もうどこにもいかないで」
俺はさらにギュッと深くにぃちゃんを抱き締めた。手だけだった温もりが体全体に伝わり、今まで冷えていた心にも温もりが感じられる。
「おい、どうしたんだよ? 痛いよ、まさき。相変わらず、泣き虫だな」
にぃちゃんは嫌がりもせず、ただずっと俺を落ち着かせるように何回も何回も頭を撫でてくれた。それが幸せだった。昔と同じ感覚だ。涙を拭うと、にぃちゃんと顔を合わせてニカッと笑い。
「じゃ、にぃちゃん家に帰ろ!」
俺はにぃちゃんの手を昔のようにグッと引っ張った。しかし、自分の引っ張った力が弱かったのか、にぃちゃんは動かなかった。
「どうしたの、にぃちゃん? 家に帰ろ?」
俺はもう一度引っ張った。グィッと、力強く。けれど、にぃちゃんは動かない。まるで、でくの坊になったかのように笑顔でそこに突っ立ている。
「早く、にぃちゃん帰ろ!」
今度はにぃちゃんを背負うような形で体全体で引っ張った。それでもにぃちゃんは動かない。何度も何度も引っ張った。にぃちゃんの手がちぎれるかもしれないぐらい強く。しかし、にぃちゃんはその場から表情を変えることなく動かなかった。再びハァ、ハァと呼吸が荒れてくる。顔を落とし、膝に手をやる。焦りを感じているのか呼吸の乱れが激しくなる一方だ。
「ど、どうしたの? 俺と行くのがいや?」
「嫌じゃないさ。嫌じゃない……」
「なら、どうしてさ!」
俺が再びにぃちゃんの顔を見たときにぃちゃんは泣いてた。顔は先程と同じ笑顔なのに、にぃちゃんの目から涙が頬をつたってポタポタと落ちていた。その涙のせいか、にぃちゃんの顔がぼやけているように見えてきた。
「またな、まさき」
にぃちゃんは涙を流しながら、さっきより大粒の涙を流しながら静かにいった。更に、にぃちゃんの顔がぼやけてくる。
「え、どういうこと?」
突然、会えたのに言われた別れの言葉。確かに、『またな』はにぃちゃんの口癖でもあった。でも、この『または』永遠の別れのように感じた。俺は離さないと力強く抱き締めた。力強く。しかし、今まで感じていた温まりが冷たくなりだした。
「ま、待ってよ! にぃちゃん!」
「大丈夫だ、まさき。いつも俺はお前の傍にいる。そして、いつもお前に温もりをこれからも与えてあげるから」
にぃちゃんは俺を昔のようにあやすように温かい言葉を送る。しかし、にぃちゃんの体は冷えていく一方だ。
「そんなこと…… いいから。ずっと俺の手を握っててよ。お願いだよ……」
俺は子供のように泣きくじゃんだ。鼻水を垂らし、顔をくちゃくちゃにさせながら泣いた。にぃちゃんは俺の頭にまたポンと手をおいて撫でた。体は冷たくても俺がいつも繋いだ、にぃちゃんの手は温かった。
「またな、まさき」
にぃちゃんは最後にそう言うと俺が抱き締めるなか雪の塊となり俺の中で崩れ落ちた。
にぃちゃんを集めようとすぐに自分の周りの雪を手でかき集めた。目の前に積まれたのはただの白い小山。冷たさしか感じないただの雪。それでも、俺はそれを抱きしめずにはいられなかった。もう一度温もりを感じようと抱きしめようとしたとき、ビュッとただ一つの風がその小山をにぃちゃんをさらっていった。
「待って!」
俺は思わず手を伸ばし、にぃちゃんを掴もうとした。しかし、にぃちゃんは白い粉塵となり、降り続く雪のなか風にさらわれて消えていった。冷たい雪が降りしきるなかでも俺の手のなかに残ったにぃちゃんはほのかに温かった。