始動
かすかに携帯の着信音が聞こえて来る。電話が掛かってきた様だ。僕はベッドの上でうつ伏せのまま、夢うつつの中で理解した。そして、起き抜けの身体のだるさをこらえながら、掛け布団から頭だけを出して薄く目を開いた。
まぶしい。窓からは夏の日差しが部屋中に差し込んでいる。今は何時くらいなのだろう? 分からないけれど、とにかくもう朝のようだ。
僕はベッドに横たわったまま枕元をまさぐり、携帯を探しだした。しかし誰だろう? こんな朝早くに。
「はい。翔太です」
僕は起き抜けの怠さに耐えながら電話に出る。
「なに寝ぼけた声出してるのよ? メール見てないの?」
聞き覚えがあるような、無いような少女の声だった
。
「はい? えーと、どなたでしたっけ?」
「茜よ。なによ、まだ寝てるんじゃないでしょうね」
ご明察です。まだ寝ています。けれども寝ぼけた頭の中で、僕は茜の性格をぼんやりと思い出した。おそらくこの調子だと、まだ寝ているなんて言ったら大変な事になるだろう。
僕は善後策を練ってから答えることにした。
「いや、今ちょっと手が離せないんだ。少ししたらかけ直すから」
茜からの電話を切ると、僕は携帯を操作して、茜からの電話で指摘されたメールを確認する。
『朝八時に綾乃の家。遅れない事』
絵文字のひとつもない、簡素なメールだ。とても女子高生のメールとは思えないな……なんて思いながら時計を見ると、すでに八時を少し回っていた。ほんの少しだけだけれども回っていた。背筋に冷たい物が走った。僕は、慌てた。慌てながらも家の中を飛び回り、出かける支度をなんとか整えた。
早朝の爽やかな風を切りながら、僕は走っている。夕べ知り合ったばかりの女子高生、茜に呼び出されて。なぜ走っているのか、そこまでしなくてはならないのかは僕にも分からない。けれども、呼び出されたからには、例え時間に遅れようとも急いで待ち合わせ場所に行かなくてはならない気がしている。
遅刻した事に対して申し訳ないような気さえしている。僕は、そんなに律儀な男だったのだろうか。なんの義理もないのに、なんでそこまで。そんなことを考えながら、僕は朝日に煌々と照らされた、朝の清々しい街並を走っている。
走っているうちにだんだんと、そんな思いはどうでもよくなってくる。頬を撫でる風が心地いい。住宅の庭先に生えている緑が、陽の光を反射して眩しい。綾乃さんのマンションはもう少しだ。僕の顔からうっすらと笑みがこぼれるのを感じた。
ランナーズハイがやってきたようだ。
「おはよう。翔太ですけど、綾乃さんいますか?」
息を切らしながら僕はマンションのインターホンに話しかける。
「茜だけど。あんた、遅刻してるのに、なによ。その爽やかさは」
「走っているうちに気分が良くなってね。今日はいい天気だし」
「勝手にランナーズハイになっているんじゃないわよ。それよりあんた、折り返し電話するっていっていなかったけ?」
僕は布団の中で自分が言った言葉を思い出した。
『少ししたらかけ直すから』
忘れていた。
「それには理由があってだね……」
僕は言い訳をしようとした、が、言い訳を考えていなかった。
「理由? 理由を説明すれば約束をやぶった事がチャラになるとでも?」
いや、今の僕は即席の理由を用意することすらできない。ここは素直に謝ろうと思った。
「……ごめん。開けてもらえるかな?」
「ちゃんと謝れるんじゃない。いつもそうしなさいよ。じゃ、今回だけね」
僕は少しだけ鬱になった。茜の暴言は、ランナーズハイすらも吹き飛ばす威力を持っていた。
マンションの入り口が音も無く開いた。
僕は、気の進まない足取りで、石造りのエントランスホールを進み、エレベーターへと向かった。
昨日来たばかりの綾乃さんの部屋。
その重厚な雰囲気の木目の玄関ドアの脇に、インターホンがあった。僕は少しためらいがちにインターホンのボタンを押した。
「翔太です。遅れました」
「翔太、やっと来たのね。みんな待ってたのよ」
インターホンの中から、綾乃さんの声が聞こえてきた。
なぜか心が安らぐ声だ。この人だけはどんな事があっても絶対に味方だと思うと、なぜか身体の中から力が湧いて来る気がする。遅刻はしたものの、ここに来て良かったとさえ僕は思った。
「翔太、遅れてきたんだから、みんなに何かおごりなさいよね。財布の中身は分かってるんだからね」
茜の声だ。なんでお前が綾乃さんの家のインターホンに出るんだよ。そして、なんで僕はこんな女のいる所に来てしまったんだろうと思う。
けれども、一応は来てしまったんだし、インターホンに話しかける。
「とりあえず、開けてもらえるかな。せっかく来たんだし」
綾乃さんも中にいる事だし。
「なんだよ翔太、元気がないな。私が活を入れてやるから早く入って来いよ。鍵はあいているんだからな」
朝から元気すぎる里奈の声だった。おまえは話し方と外見が一致しないんだよ。せっかくモデル並みにかわいい……、いや、モデルだったっけ。
確かに見た目だけは良いんだけど。
僕は目の前のドアを開けた。本当に鍵はかかっていなかった。
「おはよう。みんな」
玄関で靴を脱ぎながら、僕はリビングに向かって声をかけた。
「おはようって……それは文字通り早く来た者の台詞だぞ。遅刻してきたくせに」
里奈の声だ。
「いや、たぶん『おはよう』っていうのは一般的な朝の挨拶だとおもうぞ。里奈」
「なんと、もう声だけで私が分かる様になったのか」
「いや、声じゃない。話し方だ」
「話し方だけで私が分かるとは、ひょっとして私に気があるとか?」
「外見どおりの性格なら、ひょっとするとあるかも知れないけどね」
「外見どおりの性格のつもりだけれど?」
いや、普通はアルバイトとはいえ雑誌のグラビアに載るようなやつが、痴漢を追い回すとかしねえよ……なんて言いたかったのだけれど、空手の有段者に気分を害されても困るので、僕は言葉を飲み込んだ。
「とにかく、おはよう。みんな」
言いながらリビングに入ると、三人の女子高生は食事の最中だった。
「おはよう。翔太はもう朝ご飯食べてきた?」
茜が、旨そうに卵焼きを口に運びながら話しかけてきた。茜の言葉に、僕は朝から何も食べていない事に気づかされ、空きっ腹に朝食の匂いが鼻についた。
「いいや。まだだけど」
「そう。一緒に食べない?」
綾乃さんの満面の笑顔だ。思わず、こっちまで笑顔になってしまう。
「僕の分もあるの?」
「そう思って朝食を食べられない様にギリギリでメールしておいたのよ。催促の電話に慌てて飛び起きるくらいギリギリに。気が利くでしょ?」
「茜、気が利くとかじゃないだろ。どんなに慌てたと思っているんだよ?」
「運動の後の食事はおいしいのよ。走ってきたんでしょ? 私の計算通りに」
「そんな計算いらないから」
茜の満足そうな笑顔。人を振り回しておいて。僕はわざと茜から視線を外した。
「そう、この玉子、私が焼いたんだけど。翔太の分もあるんだけどいらないのかな?」
「く、食うよ。いただきますって」
茜の計算に嵌まったとは思いたくはないが、確かに腹は減っている。それに一応、見た所ちゃんとした玉子焼きにはなっている様だ。少しは腹の足しにはなるだろう。
「ちょっと待っててね。翔太さんの分、盛りつけるから」
言い残して綾乃さんはキッチンに向かった。
「ご飯を炊いたのは私だからな。あと、みそ汁も私だ」
里奈、料理できたんだ……なんて口が裂けても言えそうにない。まぁ、少なくとも家庭的なキャラではないんだけれど。
「そ……そうなんだ。ありがたくいただきますよ」
四人がけのダイニングテーブルのひとつだけ開いた席に、朝食がセッテイングされてゆく。
僕がその席に進むと、茜が自分の隣の椅子をひいた。
「私の隣でいいわよね」
僕は黙ったまま頷くと、茜は一瞬、僕に笑顔を向けた。一体、どんな意味の笑顔なのだろう?
「男子が目の前にいると思うと、少し緊張するな。まぁ、相手が翔太なら、その必要もないかもしれないけどな」
里奈はちらりとこちらに視線を向けた。けれども僕が視線を返そうとすると、なぜか慌てて目をそらし、綾乃さんに話しかけた。
「そ、そういえば、綾乃の作ったハッシュドポテトがなかなかだぞ」
「里奈、ありがとう。まぁ、作り置きの冷凍なんだけどね」
綾乃さんが箸を僕に渡しながら里奈に答えた。
「はい。これで全部。召し上がれ」
そして、僕の耳元でそう囁くと、自分の席へと帰って行った。
ホワイトの壁と天井、淡い木目の床板、白いダイニングテーブル、清潔そうでいて、どこか高級感を感じさせるダイニングで、なぜか僕は昨日会ったばかりの女子高生三人と食卓を囲んでいる。
しかも、テーブルに並んでいるのは彼女達が作った朝食だ。
そういえば、同年代の女の子の作った料理なんて口にするのは僕にとっては初めての事だった。なんとなく緊張しながら、どことなくぎこちない手つきで、それでも僕は料理を口に運んだ。旨いとは思うのだけれど、ゆっくり味わう余裕なんて僕にはなかった。
緊張感に包まれた静寂。食器の音だけが響く中、最初に口を開いたのは綾乃さんだった。
「今日の事なんだけれど、美咲の家に日記を取りに行くって言う事で決定なのよね? 茜」
「美咲の放課後の足取りを追うには、それしかないと思う。昨日の話のとおりでいいわよね?」
ね? の所で茜は僕の目をまっすぐにみつめた。朝食までごちそうになっておいて、ここで引く事はたぶんできないなと思い、僕は茜の目をみつめ、嫌々ながら小さく頷いた。
「実は、さっきメールが入って……今日撮影の予定がはいっていた娘が体調が悪いとかで、雑誌の仕事が急に入ってしまって。私は今日はパスになってしまった」
申し訳無さそうな表情を全員に向ける里奈。けれども、里奈がいないっていう事は、要するに今日は派手なアクションシーンは無いっていうことだなと思い、僕は安堵の表情で里奈をみつめた。
「そんなにみつめられても困るんだけど。まさか、私に気があるとか?」
他の二人の女子の視線が僕に集まった。
「ちょ、なんでちょっと見ただけでそうなるんだよ?」
「視線に、なんか危ない気配が混じっていた気がする。格闘家の本能がそう察知したのだ」
語尾が『のだ』って……どこぞの変身ヒーローみたいな話し方だな。里奈。
「里奈のこと、どんな目で見ているのよ? 私の友達を変な目で見たら……翔太、分かっているでしょうね」
茜の冷ややかな視線が、胸の奥の方まで突き刺さるのを感じた。ズキリと痛い。
「いや、茜、普通に見ていただけだから」
「翔太さん、そんな人だとは思っていなかったのに……」
「いや、綾乃さん、そんなんじゃ……」
今の僕には味方はいないらしい。
「翔太、悪いけどここまでだわ。美咲の行方を調べるのを手伝って欲しいとは思っていたけれど、私の友達を変な目で見る人とは一緒に行動できないわ」
いや、まだだ、まだこのハーレムラノベの様な状況の中で、おいしい所を全く満喫していない。僕は慌てた。
「いや、茜、茜さん、変な目でなんか見てないですって。僕を信じて欲しい。それと、美咲さんの捜索、是非手伝わせてください」
「翔太、自分から言ったわね。食事が終わったら、すぐにでかけるからね。里奈、うまくいったわ。協力してくれてありがとう」
「なんの。今日は私は手伝えないからな。本当にモデルの仕事は入ってしまっているのだし。それより、これくらいの事しか出来ずに申し訳ない」
僕はあっけにとられて二人の少女の顔を見比べた。
「いえいえ。充分よ。里奈。で、翔太、今日は綾乃と私の三人で美咲の家に行くから。自分から手伝うって言ったんだから、あなたも来なさいよね。証人は私以外にも二人いるんだからね、綾乃、里奈」
三人の女の子たちの視線を受けながら、僕は頭の中が真っ白になった。
今の一連の会話は何だったのだろう? いや、僕は疑問に思う振りをしているだけだ。本当は分かっている。僕は、今日も嵌められてしまったようだ。僕は自分の不甲斐なさを痛感し、ふと窓の外を見た。
明るく陽光が差し込んだリビングの窓の向こう側には、澄みきった青空が広がっていた。一陣の風すら通り抜ける事のできない、息の詰まる様なガラスの向こう側に、外の景色が映像の様に広がっている。
これが閉塞感っていうやつなんだなと、僕はぼんやりと思った。
「ごめんなさいね。翔太さんならこんな事しなくても来てくれると思ったんだけど。美咲の家族ってちょっと複雑でね、美咲のお母さん、本当のお母さんじゃないのよ。で、私たちも少し気まずくって。翔太ならね、お母さんの相手を上手にしてくれると思うのよ。私たちがちょっと仕事をしている間に」
申し訳無さそうに綾乃さんが僕をみつめる。
「私たちが遊びに行くと無愛想なんだけど、若い男の子は好きだからねぇ。美咲のお母さんは」
茜は見下ろす様な視線を僕に送る。
僕は、例えるなら獲物を捉えるために、その前にいる猛獣を引きつける役なんですね。茜さん。
僕は僕の役割を理解した。
「それじゃ、食事が終わったら美咲さんの家まで案内してよ」
「了解。なんか今日は、物わかりがいいわね。ご褒美に私と綾乃がしっかり美咲の家まで案内してあげるわよ。まぁ、すぐ近所なんだけどね」
なぜか茜は楽しそうな笑顔だ。
「そういえば、今日は、天気はどうなんだろう? 今は天気がいいみたいだけど傘とかいるのかな、ゲリラ豪雨とかね。天気予報っと」
茜は箸を咥えると、テレビのリモコンを操作した。その行儀、おまえ一応女の子だったよな?
『先ほどのニュースの続報です。昨晩より根岸町一丁目のカフェバー『nest of moth』前の路上で刃物を持って暴れていた全裸の男性は、どうやら薬物を使用していたらしいとの情報が入ってきました。現在取調中のこの男性は、本日未明、路上で刃物を振り回し、大声を張り上げていましたが、その後警官隊に取り囲まれ、犠牲者を出すことなく取り押さえられたとの事です』
テレビの画面は刃物を振り回している若い男の画像を映していた。
「この近くだ」
里奈がつぶやく。
「まぁ、そういう事もあるから翔太に来てもらっているんだけどね。もしこういう事件に巻き込まれたら、みんなが逃げている間に代表で刺されてもらわないと」
茜がまた失言をした。いや、おそらくわざとなのだろうけれど。
「茜、僕を盾かなにかと思っていないか?」
「あ? 盾がなにかを話している気がする」
いや、失言じゃない。わざとだ。茜はわざとひどい事を言いながら、相変わらず楽しそうな笑顔をうかべている。
茜の性格を少しづつ理解して来た僕は、経験値が上がったのか、『聞き流す』という技を覚えた。