起こされた事件
「お待たせしました」
茜の声だ。茜が、綾乃さんに注文の料理を届けた声。これで計画は、もう止める事ができない。
満席の店内に酔った客達の声が響いている。料理の香りとタバコの匂いが入り交じって漂う。
「いやっ」
女の子の声がした。聞き慣れた……綾乃さんの声だった。唐突に、いや、計画どおりなのだが。
「ゴキブリがサラダの中に! ね、見て」
綾乃さんの真に迫った演技。怒りと、動揺が入り交じっている様に聞こえる。
「申し訳ありません。すぐに取り替えます」
慌てた様子の茜。けれどもこれも演技だ。綾乃さんの計画通りに全てが進んでいく。
店内を早足で移動する足音が聞こえてくる。軽そうな、女の子の小走りの音。
「店長、これ」
カウンター越しに、サラダが入った小皿を店長に渡す茜が見えた。
「待ってて、今、火を消したら行くから」
小皿の中身を見て、けれども店長は冷静に対処をしようとする。
「ちょっと待った。食べてはいないといえ、注文した物の代金は払うのが当然だろう。そのまま帰るのはおかしいんじゃないのか?」
里奈の声だ。
「なによ。こういう時は『代金は結構です』っていうのが一般的な対処じゃないの? それにもう食べる気がしないし」
綾乃さんの声。
「それって食い逃げじゃないのか?」
里奈の声が店内に響く。談笑も、話し声すらも店内からは消えている。客は息を飲みながら二人に注目しているようだ。
「分かった。払うから。でも、その後はどうなるか知らないからね」
何か小さい物がぶつかる音がした。その後に小銭が散らばる音。その後すぐにドアが閉まる音がした。
「翔太君、悪いけれど火元だけ確認してくれるかな?」
カウンター越しに入り口に視線を向けた店長は、少し慌てた様子で客席に向かう。
「ちょっと里奈、なにしてるのよ」
茜の声。
「みなさん、今日はちょっと衛生上の問題が発生したのでちょっと早いけれど閉店にします。今日は全て店の奢りにしますから、ここから先は近くの店でお楽しみくださいね」
その後すぐに店長の声が店内に響いた。
「里奈、ちゃん? その財布はさっきのお客さんのだよね。住所とか入っているかな? 貸して」
「店長、すみません。私、間違っていましたか?」
戸惑う里奈の声。これも演技なんだけれど。
店内の様子を伺いながら、火元を片付けた僕は客席の店長に駆け寄る。
「店長」
「あ、翔太君。悪いけれど後の事は君に任せてもいいかな? 代金は集めなくてもいいから、落ち着き次第お客さんを案内してくれないか?」
「分かりました。その後、茜と里奈とで店内を掃除してみます。店内に虫が隠れているかも知れないし」
「悪いな。頼んだよ。僕はさっきの彼女を追うから。少なくとも財布は届けないと」
店長は、美咲から財布を受け取って中身を確認した。
その後小さくうなずくと、木製のドアを押し開けて小走りで店から出て行った。誰もいない綾乃さんのマンションに向かって。




