二人きりの部屋で
綾乃さんの住むマンションの廊下は、よくあるマンションとは違い、外に面していない。廊下を挟んで向こう側にも部屋のある、まるでホテルの様な作りの通路だった。
壁面にぼんやりと灯る間接照明には、ほのかな高級感さえ漂っていた。
「おじゃましまーす」
僕はマンションの廊下から綾乃さんが開けたばかりのドアの中に向かって声をかけた。
「両親は旅行中だから、挨拶は必要ないですよ。気兼ねしないでどうぞ」
玄関の灯りをつけると、綾乃さんは僕に振り返った。振り返った拍子に、左右の側頭部で束ねた肩まで伸びたストレートの髪がふわりと揺れた。ツインテールっていうやつだ。僕は一瞬ドキリとした。
「あ、そうなんだ。じゃぁ、気兼ねなく……じゃなくって、ご両親は留守なんだ? 本当に部屋まで入って良かったのかなぁ? 僕なら、一人で下で茜さんたちが来るのを待っててもいいんですよ」
そういえば、女の子と部屋で二人きり、というシチュエーションは僕には経験がない。気兼ねなく上がり込むどころの話ではなかった。
「私なら平気ですよ。気にしないでください。それより、冷たいお茶でも淹れますから、飲んで待ってましょうよ。それに、マンションの前に男の人が一人で立っているのって、それだけで結構不審な感じがしますからね」
「確かに」
確かにそうだ。宵の口とはいえ、外はすっかり暗くなっている。不審者と間違われて通報でもされたら目も当てられない。けれども……僕は綾乃さんの後ろ姿に目を向けた。かぼそいウエストのラインを無防備に強調したワンピースは、ヒップのラインに沿って左右に広がり、その下はヒップをちょうど隠す程度しか覆っていない。ワンピースの下は膝までの黒いソックスで隠されているとはいうものの、脚にフィットしているため、女の子らしい脚のラインが遠目からもくっきりと分かってしまう。しかし問題なのは、ソックスからワンピースの裾の間だ。眩しい、見ては行けない素肌の色をした二本の腿があらわになっている。
たまらないです、綾乃さん。耐えられるのか? 理性。僕は、茜から財布の中身を守らなくてはならない。いや、そうではない。それより、初対面の少女をそんな目で見るのは非常識だと次の瞬間、僕は反省した。僕の頼りない理性は綾乃さんから目を離せと命令をしている。けれども、このまま後ろ姿だけなら……けれど……しかし……僕は、弱り切った理性を総動員して、やっとの思いで綾乃さんから目をそらした。
胸が、痛い程ときめいている。
「どうしたんですか? いつまでも玄関にいても仕方ないですよ」
そんな僕の葛藤を全く理解していない様子で、綾乃さんは廊下の奥から振り返った。あなたは気づいていないかも知れませんが、その格好は犯罪です。綾乃さん。……いや、犯罪者になりそうなのは僕でした。変な目で見てごめんなさい、綾乃さん。僕はありったけの理性を動員して、あらぬ方向を向きながら、心の中だけで綾乃さんに謝罪した。
「リビング、こっちですよ。早く入ってきださいね」
綾乃さんの、弾んだ様な声が僕を部屋の奥へと呼びこんだ。
通されたリビングは白を基調としたお洒落な空間だった。
「冷たいお茶でよかったですか? コーヒーもあるんですけれど、お茶って最初に言っちゃったからお茶にしたんですけれど」
水差しからお茶が注がれる。僕は頭を軽く下げてから、グラスに注がれたお茶を口に含む。氷の当たる音。爽やかな冷たい緑茶の香りが喉を通り過ぎてゆく。
「ふぅ。外は蒸し暑かったから生き返るな。ありがとう」
「いえ。それより、さっきは茜があんなでごめんなさいね。あの子らしいと言えばらしいんですけど」
「あんなでって……財布の事かな? たしかに『あんな』って言うような感じだったけど。でも、結局は返ってくるんだろうし、平気ですよ。ところで、茜さんって、いつもあんな感じなんです?」
「そうですね。リーダーシップがあって、男の子みたいに私たちを引っ張っていってくれるのはいいんですけど、いつも強引っていうか」
男らしい性格といえば確かにそういう所もあるのかも知れないけれど、僕を連れて来る際には女の武器を最大限使っていた気もするのだが……なんにしろ、面倒ごとには巻き込まれない様に気をつけないといけない思いながら僕は聞いていた。
「私たちってね、私たちって、私とか、里奈とか、美咲の事なんですけど、クラスの中でも孤立した存在だったんです。何ていうか、みんな個性が強いっていうか。で、そんな私たちに声をかけてくれて、まとめてくれているのが茜っていう子なんです。美咲の事を一番心配しているのも茜だって言う事も分かっているし、多少強引でも私たちも一緒に美咲を探そうって茜に言われたら、嫌と言う事はできないんです。まぁ、美咲も友達なんで、嫌なんて……言う気もないけれど」
「そうなんだ。確かに僕がここにいるのも、茜さんの強引な誘いがあっての事なんで、おおよその事は理解していますよ。さっき、両親は旅行にいっていると言っていたけれど、夏休みだし本当は一緒に行くはずだったんでしょ? やっぱり強引な茜さんのせい?」
「いえ。美咲の事は私も本当に心配だったから。確かに両親との旅行は魅力的だったんですけどね。海外に行くはずだったんです。船に乗って、エジプトのピラミッドを見に行ったり、地中海を回ったり、ギリシャとか……」
「それ、魅力的すぎるから! 行かなかった事、絶対後悔しそうだし! つか、この時期にそんな旅行、お金持ちすぎるから」
「ふふ。普通ですよ。今回はちょっと贅沢しすぎっていう感じかな。でもね、友達が大切だから。茜もそうだけど、美咲も。友達が大変な時にそんな所へ行っても楽しめそうな気がしないし」
「楽しめないか……確かに友達が行方不明じゃぁね。美咲さんは、家出をする程なにかに悩んでいたんだろうし。みつかったとして、友達として相談にも乗ってあげないといけないし」
「家出か。美咲、家出なのかなぁ。そんな気もするし、そうでない気も……する」
「さっき、茜さんも同じ様な事を言っていた気がするんだけど、家出じゃないんです?」
「美咲とは友達で、いつも学校からは一緒に帰ったりもしていたんですけど、帰った後に携帯に電話をすると、明らかに家ではない所にいるみたいで……アルバイトをしていたのか、どこかで遊んでいたのか、電話の向こうが騒がしいんです」
「外に居る感じ?」
「ええ。外って言っても、酔った様な笑い声とか、男の人の声とか、BGMが流れている事が多かったし、背後の音からはお酒を出す店の様な雰囲気がして。茜とか里奈も気づいていて、美咲には内緒で相談したりもしたんです。本当は誰かに相談したいと思っていたんですけれど、うちの学校はアルバイト禁止なんで、学校に知られたら困るので、悩みながらもそのままになってしまっていて」
「この辺でも有名なお嬢様学校ですもんね。アルバイトも禁止だろうし、夜遊びだったとしても学校にバレただけでも大変なことになりそうだし」
「お嬢様学校っていうのは言い過ぎな気もするけれど。でも、一応女子校だし、お酒を出す店に入ったとすると、おそらく停学か、退学か」
「それは大変ですね。絶対に学校には知られちゃいけないし、信用できる人にしか話せない」
「それに、美咲って、男の人に電話で頻繁に呼び出されていて。だから、そっちの関係で何かトラブルとかに巻き込まれたとも考えられるんです。何度か美咲が夜に男の人と歩いているのを見たんですけれど、普通の感じじゃなかったから」
「普通の感じじゃなかったと言うと? どんな感じなんです?」
「あの……」
「はい?」
「そろそろ敬語、止めません? たぶん私たち、同じくらいの年ですよね」
「あ……うん……た、確かにそうです……いや、だ、な」
「……ぷ」
綾乃さんは僕から顔をそらして、吹き出した。
「ぎこちなくなってる。変!」
僕の困った様子におかまいなしに綾乃は続けた。
「普通の感じじゃなかったって言うか、親しげっていうか。美咲のあんな笑顔は学校では滅多に見かけなかったから。相手の男の人は二十代半ばくらいかな、かなり年上の感じで。でも、美咲の相手って一人だけではなかった気がする」
「複数の人と付き合っていたとか?」
「うーん。わからないんだけど。電話で呼び出されていたのは一人じゃなかった感じ。その時によって話し方とか微妙に違っていたから。で、やっぱりそっちの関係で何かトラブルに巻き込まれた可能性もあると私は思うの」
「男がらみか……危ない事をしていた訳じゃないんだよね?」
「うーん。美咲は秘密主義的な所があって、友達にでも何でも話すってタイプじゃなかったから、正直、よく分からないっていうか。男関係かもしれないっていうのも、帰宅後のそういう行動からみて、そういう可能性があるっていうだけで、実際の所は私にもよく分からないんだけど。あの子、家庭環境もいろいろ複雑みたいだし、そっちが原因の家出の可能性もないとは言いきれないし」
複数の男、夜の外出、盛り場、行方不明の美咲さんの行方は、家出なのか、何かに巻き込まれているのか、綾乃さんの話だけでは僕には判断できなかった。
そもそも、僕の目にいるの綾乃という美少女の話が真実なのかどうなのかも僕には不明なのだ。ただ、今の時点で僕に分かるのは、三人の少女が行方不明の友人を捜そうとしている事。そして、その捜索は彼女達だけで行うのは危険であり、僕に助けを求めている事。
その二点だけは確かだ。
助けを求めたのが、なぜ僕なのかは一番重要な所なんだけれど一応それは置いておくとして、僕がそれに乗るかどうか、今判断しなくてはならないのは結局はそこの所なのだろうと思った。それなら、乗るか降りるかを判断するなら、もう少し情報が必要だ。もう少しここに居るべきだと僕は考えた。
そう、突然のインターホンに振り返った、綾乃さんの横顔を眺めながら。……やっぱり、かわいい。
「ちょっとまっててね」
綾乃さんは、席を立つとインターホンに向かった。
「はい。あぁ、茜? 里奈もいっしょね。待ってて、今開けるから」
僕は綾乃さんがインターホンを操作する間、その後ろ姿をずっと眺めていた。高校生にしては小柄な少女の腰のラインは、それでもフリルのついた薄い布の下で、柔らかそうな曲線を描いていた。
僕の口から、ため息が漏れるのを感じた。やっぱり、かわいい。