nest of moth へ
カフェバー『nest of moth』のある路地は、駅の裏手にある居酒屋やスナックが立ち並ぶ一角にある。夜は闇に紛れて見えないものの、昼間の路地は、使い古しのティッシュなどが散乱し、道路脇には吐瀉物の干涸びたあとが黄土色に残る、お世辞にも小綺麗とは言いにくい環境だった。
振り返って後ろをついてくる茜を見ると、茜も下を向き、散乱したゴミを避ける様に歩いている。
「午前中のここは、すごい所だね」
茜は液状であったであろう薄茶色の何かが乾いた跡を、踏み出す直前で避ける。
「い、いきなり話しかけないでよ。気を抜くと変な物を踏みそうになる」
「ごめん。こんなに散らかっているところをみると、この辺の店の人たちって、まだ出勤していないんじゃないかな? 今日は確か日曜日だし、昼間から酒を飲みにくる客もいないだろうしね。店長、いるかな?」
「いなくったって関係ないわよ。勝手に侵入すればいいだけじゃない。それより前を見ていないと、何か嫌な物を踏むわよ。あんたも気をつけなさい」
茜は相変わらずだ。一度は侵入しないと気が収まらないのだろうか。僕は前を向いて、ひとり微笑んだ。
「じゃ、つかまる時は、一緒だな。今度は先に帰らない様にするよ。警察の前で待ってる」
「前回は、事情聴取だけだったけれどね。侵入して捕まったらその日には帰れないかも知れないから、心して待ちなさい。それより、そこじゃない? 店長のお店」
「そうだね」
僕たちの目の前に、蛾の彫刻が施された、木製のドアがある。『nest of moth』と小さく書かれた僕たちの目的地のドアが。
「店長、いるかな」
僕は大きくて重いドアに力を込める。茜が不安そうな顔で僕を見て頷く。
ドアは小さな音をたてながら内側に開いた。
明かりのついていない店内から、ほんのりと冷たい空気が漏れだして頬に当たった。
「誰か、いますか?」
僕は店の中に向かって声をかける。店の中は物音ひとつなく静まり返っている。
「誰もいなそうね。入りましょうよ」
後ろから、茜が囁きかける。
「いや、それ違うから、犯罪だから。それとも『帰りましょうよ』の聞き間違えかな?」
「聞き間違えじゃないわよ。それにドアが開いていたんだから、犯罪にはならないわよ」
「いや、鍵が開いていても留守中に勝手に他人の家に入るのは、立派な犯罪だと思うぞ」
「翔太といると、いつまでたっても進展する気がしないわ」
「ちょっと、悪いのはこっち……」
その時、店のカウンターの方から音がした。
「やぁ、君たちか、今日は早いね。人の店先で痴話げんかなんて、相変わらず仲がいいんだね、君たちは。で、今日は何の用かな?」
店長の声が聞こえて来た。
「こんにちは。また来ちゃいました」
茜は器用にも、既によそ行きの笑顔を作っていた。




