気になる名前
駅前から少し入った住宅街は、すっかり夜に満たされて、ひっそりとした空気に包まれていた。街灯が点々と、無機質に路地を照らしている。
少女は僕の一歩前を早足で歩いている。さっきから無言のままだ。
「ところで、これから友達の家に行くんだっけ?」
沈黙に絶えきれず、少女の横に並んで話しかける。少女の頭は僕の肩くらいの高さにあり、並んで歩くと意外にも華奢な女の子といった印象だった。
「そう。綾乃のうち。もう少し先だからね。……逃げたら承知しないわよ」
少女は真直ぐ前を見つめたまま答えた。ショートヘアに街灯の明かりが反射して、白く輝く様に輪を描いている。
「逃げたりしないさ。とりあえず、その綾乃さんの家まで付き合えばいいんだろ?」
「とりあえずはね。でも、気にならない? 私たちのこと。美咲の事とかも」
「それは少しは気になるけど。それに、美咲さんだっけ? 行方不明の君の友達には、何事も無く家に帰って来て欲しいとは思っている。と言うより、たぶん近いうちに帰って来るよ。最悪の事態って、そんなに起きるものじゃないし」
僕の言葉になんの反応もなく、少女は相変わらず僕の前を歩いている。いったい、こいつはどんな娘なんだろう。
「それより今は君の名前が気になってるんだけど」
「名前? 私の名前が知りたいって?」
少女は急に立ち止まると、僕の顔をみつめた。
「茜だけど」
ぽかんとした表情だった。まるで『知らないの?』と言いたそうな表情だった。
「茜か。かわいい名前だね」
「ありがとう。昔からずっと茜だけどね」
僕の目を真直ぐ見つめたまま茜は言った。少し気分を害した様な口調で。
何が彼女の機嫌がを損ねたのだろうと僕は頭をひねった。ひょっとして、どこかで会っていた?
「……ごめん」
「なんで謝るのよ」
「いや、機嫌が悪そうだったから」
「そう、それだけ……」
茜はそう言うと、僕を無視する様に歩き出した。気まずい雰囲気に、僕は何か言わなくてはいけないと思った。そして、まだ自分が名乗っていない事を思い出した。
「ちなみに、僕の名前は翔太っていうんだ」
「そう」
茜のそっけない返事。
「そう。ずっと前からね」
凍り付いた雰囲気を和らげるつもりで、僕は茜の言葉を真似してみた。
「知っているわよ」
「え? 知ってるって、……やっぱりどこかで会っていた?」
茜は街灯の下で立ち止まった。一瞬の静止。そのあと、僕に向かって振り返った。
「なに言ってるのよ。名前なんて簡単に変えられる訳ないじゃない。ずっとまえから あなたが同じ名前なんて、言わなくても分かるって事よ」
「それは……」
言葉を失った僕は茜に目を向けた。
目が、合った。茜は僕を真直ぐにみつめ返していた。
僕たちは期せずお互い見つめ合っていた。僕は見下ろす様に茜の顔を眺める。柔らかそうな白い頬、その頬に影を落とす長い睫毛。清々しく澄んだ瞳に、薄い紅色をした引き締まった口元。僕は街灯のスポットライトを浴びた茜の可憐さに目を奪われてしまった。
「な、……何を見てるのよ。綾乃の家はそこだから。い、急ぐわよ」
僕の視線を反らす様に、茜は通りの反対側、森林公園の木々の上に大きく頭を突き出した高層マンションを指差す。
ぼんやりと蒼く暗い空を背景にして、ぽつりぽつりと明かりを浮かべた巨大な影がそびえていた。
「同年代の男の人と、こうやって歩くの慣れていないのよ。通っているの、女子校だから。私の話し方が気に入らないのなら謝るわ。でも、お願い。ついて来て」
先に歩き出した茜は、後ろ姿でそう言った。
制服のブラウスの背中が街灯の光を浴びて、すっかり暗くなった街の景色に白く浮かび上がっていた。