夜の待ち合わせ
夕方に雷雨があったせいか、日中の蒸す様な暑さは今は感じられない。けれども、生温い風は肌に絡み付き、少し湿り気のある余韻を残して流れてゆく。
決して過ごしやすいとは言えない、今は夕暮れ時。
たまに通る車のヘッドライトを目で追いながら、僕は綾乃さんのマンションの前に立っている。茜に頼まれ……いや、命じられたと言った方が正確であろう、僕の意思に関係なく『決定事項』となってしまったその言葉に従って。
けれども、従っているのは僕がお人好しというからだけではない。正直に言うと僕はこの事件の隠された真実に興味を持ってしまっているのだ。
いったい、美咲さんは無事なんだろうか? どこにいるのだろうか? 家出? 連れ去られた? 日も沈み、うす闇に包まれる街並を眺めながらも、多くの疑問が僕の頭の中を渦巻いている。
約束の時間を少し過ぎた頃、マンションの前に一台のタクシーが停まった。僕はマンションの住民が帰宅したのであろうと思い、見ることなしにその緑の車を眺めていた。
音も無くタクシーのドアが開くと、会計を終えたであろう人影が道に下り立った。女性だった。見たことのある女性だった。
「里奈さん、友達の家に来るのに、タクシーですか!」
僕は女性に、いや、同じ年の女の子に向かって非難の言葉を浴びせた。この贅沢者が。
「翔太、ずいぶん早いな。いや、私が遅かったのか。一応タクシーを使ってまで来たのだから、遅刻は許して欲しい」
「って、遅刻したからってタクシーで来るなんて!」
「いや、家からタクシーを呼んだんだけれど、タクシーがなかなか来なかったから遅刻した……というのが正確だな」
「って……それじゃ目的と結果が逆だろ! それにしても高校生の身分でタクシーとはな!」
「こんな夜に私みたいな女の子一人で出歩くのは危ないだろう。それに今夜は蒸し暑くて歩くのが嫌だったし」
「お前、本当の理由は後者の方だろ? 空手の有段者が恐れる夜道なんて、日本には存在しねえよ」
「ひどいことを言うな。まぁ、『私みたいな女の子』という意味には、『空手の得意な女の子』という意味を含んでいるのだ。間違えて痴漢とかがつけてきたら、またフルボッコにしかねないからな。ああ、危ない、危ない」
「そっちの『危ない』かよ!」
ゆっくりとうつむいてから、里奈は小さく微笑んだ。
「それより、茜はまだ来ていないのか?」
相変わらず見かけとはほど遠い、男の様な喋り方だ。
「今の所、僕だけだ。まぁ、綾乃さんは家にいるんだろうから、すぐ来れるんだけどね」
「綾乃は、今夜は参加はしないけれどな」
マンションの、綾乃さんの部屋を見上げるようにしながら里奈は呟くように言う。
「なんで?」
「あの格好でお酒を出す店は不自然すぎるからな。入り口で拒まれかねない」
「確かに、そうだな」
「そう、そして拒まれるとしたら、一緒にいる私たち全員、なのだ」
「だな。確かにそれだと今日の目的を果たせない事になるな。で、今日は綾乃さん以外の三人の行動っていうわけか。じゃぁ、茜待ちっていうことで」
「茜は……昼間は美咲の行きそうな所を探しまわっていたはずだから、少し遅れるかもしれないな」
「そうなんだ……。茜は昼間もそんな事を」
「うん。とは行っても、美咲の行動範囲で私たちが知っている所は探し尽くしているし、二度目、三度目の念押しになるんだけどな」
「ところで、これから行く店は?」
「初めてだ。だから、美咲の情報がある可能性は、今まで私たちが探しまわった中では一番高い。けれど……」
「けれど?」
「いままで私たちが探したところに、『男』関係の情報はなかったのだ」
「男って……?」
「おおよその事は綾乃が翔太に伝えてあると茜が言っていたが、綾乃から聞いていないか? 美咲には複数の男友達がいた事を」
「聞いている。それだけじゃなく、夜に男の車で家まで送られて帰る事もあったって事も、日記を取りに行った時に美咲さんの母親から聞いている。かなり夜遊びをしている風に僕にはとれたんだけど」
「そうなんだ? 確かに夜に電話をすると、まるでどこかの店にいるようなBGMが流れていることもしばしばだった」
「これから行く店でその『男達』と出会う可能性が高いという事か? 里奈」
「ということだ。そっち方面で切実な問題に巻き込まれていないといいのだがな。今現在、美咲の情報を得られる可能性が一番高い所であることと同時に、ここで情報を得られた場合、失踪の理由が何か不測の事態である可能性が一番高い場所なのだ。少なくともカフェバーなんて、高校生が気軽に出入りする場所じゃないしな」
里奈は遠くを見つめた。おそらく、美咲さんのことを案じているのだろう。
「美咲さんに何事もないといいんだけどな、里奈」
「おう」
「『おう』……って……」
姿さえ見なければ、女の子と話をしているとは思えない、里奈の返事だった。
姿と言えば、今日の里奈はいつもの制服姿ではない。それが、タクシーから降りて来た時にひとめで里奈と分からなかった原因でもある。
「そういえば、今日は制服じゃないんだな」
「今日はカフェバーに行くからな。制服姿で店に入れてくれるのなら話は別なのだけれど」
確かに私服の白いスーツに身を包み、メイクを施した里奈は、制服姿の時とは違ってとても僕と同じ年とは思えない程に大人びている。間を持たせるために話しかけようとした僕は、そんな里奈の横顔を見て一瞬ためらい、遠く繁華街のあかりに目をやった。
大小のビルが立ち並び、ひときわ明るい駅近辺の町並み。今夜の目的地もおそらくあの辺にあるのだろう。茜が言っていた『私たちだけじゃ手に負えない相手』と結局は対面する事になってしまうのかと思った。けれども、単なるカフェバーなら客商売でもあり、女子高生といえども手に負えない訳がない。
茜は更なる情報をすでに持っているのだろう。人通りが途絶えた、薄暗い路地に目を移しながら、僕はそんな事を考えた。
いつからかマンションのロビーに明かりが灯り、アスファルトに暖色系の光を落としている。
いつになく話しかけにくい、いや、いつも話しかけづらくはあるんだけど、いつもとは違った話しかけにくさの……正確に言うと、危うくときめいてしまいそうになるほど、普段とは違った雰囲気の里奈の隣で、僕は正直に言うと待ちくたびれていた。
いったい、いつまで待てば茜は来るのだろう? いったいどれくらい時間が経過すれば、この女性誌モデル風になりすました里奈と二人きりと言う状態から解放されるのだろう? 僕はいまひとつ、身分不相応の幸運に乗り切れないでいた。
と、ズボンのポケットで、何かが振動しているのを感じた。僕の携帯が、なにかを着信したようだ。
携帯を開けると、メールが入っていた。
『待ち合わせ時間に間に合わない。ゴメン。現地集合ということで』
茜からのメールだった。用件だけを伝える、絵文字の無いメールというだけでそれが分かった。メールがあったことを伝えようと里奈を見ると、僕とおなじく携帯を操作していた。
おそらく同じメールを受け取っているのだろう。
「現地って、僕は店の名前を聞いていないんだけど、里奈、聞いてるか?」
携帯を見ていた里奈は、僕に向かって振り返った。
「日記を見ているからな。店の名前は分かっているし、場所も調べてあるから大丈夫だ」
言葉を発するたびに、光沢を帯びたピンク色の唇が艶かしく動く。その様に、僕は思わず目を奪われる。
里奈はそんな僕の視線に気づいたのか、冷ややかな目で僕の事を見返す。
「その視線、気をつけた方がいいぞ。ミニスカートだからといって、蹴りはいれられるんだからな」
着飾っていても、中身はいつものワンパクな里奈だった。




