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雨と茜と古い記憶

 大粒の雨が窓ガラスに叩き付けられ、粘度のある透明な膜になって流れてゆく。鉛色の雲が空を一面に覆い、陽の光を遮っている。まだ昼を少し過ぎたばかりだというのに、夕方の様に薄暗い。

 窓からの景色に一瞬目をやってから、僕はバスルームを出る。手には二枚のバスタオルを持っている。


「髪の毛、濡れたでしょ? はい、新しいタオルじゃないけど一応洗ってあるから」

 リビングに佇んでいる、すっかり濡れ鼠の茜にバスタオルを一枚手渡す。

 その後にもう一枚持っていたタオルを自分の肩にかけた。僕もずぶ濡れだ。

「ありがとう。まさかこんなに急に降るなんて」

 茜のスポーツ少女らしい短髪から、雫がしたたっては頬を伝う。

「せっかくの制服が、台無しだね」

 白いブラウスは雨水を含んで茜の身体に貼り付き、うっすらと肌の色を透かしている。

「妹のジャージでよかったら、持ってきてあげるよ。制服、乾くまで着ていたら?」

バスタオルで髪の毛を押さえる茜を横目に、僕は部屋を出ようとする。

「い、いいわよ。妹さんに悪いし」

「でも、それじゃ風邪をひくし」

「でも、勝手に洋服をいじられたら、女の子は誰でも怒るものだから。私だったら本気で怒ると思うし」


 茜は、本当に引き止めようとしている様に見えた。確かにそうなのかも知れない。自分の知らないうちに自分の洋服を勝手に触られたりしたら……。


−−『お兄ちゃん、私のいない間に私の洋服何に使ったのよ! ちゃんと説明してもらうからね! で、その内容次第によっては、これから一生変態呼ばわりさせてもらうんだから』


 妹が真っ赤な顔で怒っている姿が目に浮かんだ。


「そ、そうかもしれないけど……じゃぁ、僕のTシャツとか持ってくるよ。少し大きいかもしれないけれど」

 言い残して僕はリビングを出た。ドアを開けながら振り返ると、茜は髪を拭きながら、僕から目を反らすかの様にうつむいた。


 自分の部屋に戻った僕は、タンスの中から全部のTシャツを引っ張りだし、一番綺麗なものを選んだ。それから、この夏に買ったばかりのまだ一度も履いた事のない半ズボンをタンスの中から取り出した。

 妹がいるせいか、女の子のへの対応に不慣れという訳ではないはずだった。けれども、いままで一度も彼女というものを持った事がない僕には、肉親以外の女の子と二人きりで一つ屋根の下という経験はなかった。

 ましてや、自分の洋服を女の子に貸す経験なんて言わずもがな。

 なぜか、胸の鼓動が早くなってゆくのを感じる。これは一体、どういう感情なのだろうか。

 僕は茜に貸す洋服を手にすると、不思議な動揺に戸惑いながらも部屋をあとにした。


「入るよ」

 まさかこの状況で洋服を脱いではいないと思ったのだけれど、僕は一応声をかけてリビングに入った。

「あれ?」

 いない。そこに佇んでいるはずの、待っているはずの茜の姿が見えない。

 まさか、帰ってしまったのか? この雨の中を、傘もないのに。

 僕は慌てて茜の名前を呼びながら玄関へと向かった。

「なによ? 大きな声で私の名前を繰り返して」

 バスルームの脱衣所の方から声がした。

「いや、リビングにいないから、帰っちゃったのかと思って……」

 僕は取り乱した事を少し気恥ずかしく思いながら、わざと落ち着いた調子で答える。

「帰ったのなら、大声で呼んでも意味ないでしょ? 少しは考えなさいよ」

……そのとおりです。けれどね。

「でもさ、いると思っていたのにリビングにいなかったから慌てたんだよ」

「あぁ、私、ずぶ濡れでしょ? リビングの床に雨水が滴って、わるいと思ったのよ」

「それで、脱衣所に……」

「これでも、気を遣っているんだからね」

 僕は茜の声が聞こえてきた、脱衣所の扉の前で声をかける。

「開けても平気?」

「いいわよ。開けられて困る格好はしていないから。っていうか、今あけるから。」

目の前の扉が音も立てずにゆっくりと開いた。

タオルを頭にかけたままの茜は、洗面台の前で上半身だけを捻ってこちらを見上げている。

「ありがとう。遠慮なく着替えさせてもらうわ」

「そうだね。脱いだ制服はバスルームで乾燥させればすぐに乾くと思うから」

「そうさせてもらう。ありがとう。じゃ、私着替えるから」

「うん」

「着替えるから」

 茜の声色が変わった。出て行けという意味らしい。僕は脱衣所の扉を閉めた。


「ねぇ、ひとつ聞いておきたいんだけど。それから、言っておきたい事があるんだけど」

 脱衣所の扉を閉めたすぐ後に、扉の中から茜の声が聞こえた。

「聞いておくって……まぁ、答えられる事だったら。あと、言いたい事も聞くぐらいなら別にかまわないけど」

「ずいぶん上から目線じゃない、その返事。まぁいいわ。聞いておきたい事はね……」


 上から目線……そう聞こえてしまったのだろうか? 

 僕はそんなつもりで返事をしたのではないのだけれど。そういえば僕は、小学生の頃のある事件以来、人との関わり合いや面倒事をなるべく避けるようにして過ごしてきた所がある。

 他愛のない会話のつもりでも、ぶっきらぼうに聞こえてしまうのだろうか?

 

「聞いてるの? 返事が無いじゃない」

 茜の不機嫌な声が聞こえてくる。

「はいはい。まずは聞きたい事は?」

「私が聞きたいのはね、今回の事、いろいろ付き合わせちゃってるけれど、その事をあなたが迷惑だと思っているんじゃないかって事」

「迷惑って……」

 実際、最初は迷惑だと思っていた。強引に巻き込まれて、連れ回されて……けれども。

「迷惑だと最初は思っていたかもしれない。けれど、今はとにかく美咲さんの無事を確認したい思いでいっぱいだ」

「ふふ。やっぱりそうよね。そういう所、翔太らしいじゃない」


 茜の満足そうな含み笑いが聞こえた。

「おまえ、僕の何を知ってるんだよ。その言い方……」

「それから、言っておきたい事ってね」

 僕の返事に全く構う様子もなく茜は続ける。

「言っておきたい事って、なんだよ」

「もし迷惑で、これ以上は関わりたく無いって思ったら、いつでも言って」



 子供の頃の僕は活発な、夏休みなんかは真っ黒になって外を飛び回っている様な、いわゆる腕白な少年だった。

 小学生の時に起きた小さな、けれども今でも忘れられないあの事件までは。

 しかしそれ以来僕は、あの事件以来僕は、友人をなるべく作らないように、クラスでもできるかぎり目立たない様に学校生活を送ってきたのだ。面倒な事は二度とご免だと自分にいいきかせながら。……そんな事ではいけないと、心の底ではずっと分かっていたのだけれど。


「迷惑って……」


 やっぱり、それではいけないのだろうと僕は思った。自分を変えようと思うなら、これはこれで良い機会かもしれない。

「とにかく、今は美咲さんの無事を確認するのが先だろう。これも乗りかかった船だよ」

「確か言ってたわよね、昨日、翔太が。乗りかかった船って、引き受ける側が気を遣わせない様に使う言葉だって。そうなのね、ありがとう。やっぱり翔太ね、全然変わっていない。着替えたら行くから、リビングで待っててくれる?」

茜の声は、まるで懸念していた事が解決したかの様に、弾んでいた。



 『やっぱり翔太ね、全然変わっていない』まるで、僕を昔から知っている様な、茜の思わせぶりな台詞に、僕はなんとなく違和感を覚える。

「僕も自分の部屋で着替えてくるから」


 歯の間に何かが詰まった様な、心地のわるい違和感を振り払うように、僕は家の階段を駆け上った。





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